第43話 古代遺跡ダンジョン1

私は精神的な支柱を徐々に遺跡へと移していった。

簡単なことではなかったけれど、ヨアニスを失った喪失感を振り切るように行動した。時間があれば図書館へ通い、遺跡ダンジョンに関する文献を漁ったり、ダンジョンに潜った経験のある教師を捕まえては質問攻めにすることで心の指針を遺跡ダンジョンへとシフトさせていった。


久しぶりに高揚するのを感じる。いい兆候だわ。悲しい出来事はこうやって少しづつ過去にしていけばいい。準備を整えて、新たな人生を踏み出すのよ。大丈夫、私は慣れてる。


あの時、死ぬ直前、百合子が夫に裏切られてもそれほど傷付かずにすんだのは、初めから彼を信じていなかったから。どんな理屈を捏ねられても心が揺らぐことはなかった。百合子は確かに彼を愛していたはずだけど、常に冷静だったのだと思う。


信じたところで裏切られるのなら、彼女はその分私より賢かったと言える。私もそうありたい。ヨアニスのことを思うとまだ苦しいけど、そんなものはただの未練に過ぎないんだもの。


いつもより念入りに朝の支度を整える。今日は待ちに待ったダンジョンへ入れる日。当初の計画よりずいぶん早まってしまったし、ヨアニスもいないけど、まぁ問題ない。

私は心の奥でいまだにメソメソしている弱気な私に喝を入れ、絶対に解けないよう痛いぐらい髪を引っ張ってきっちりと編み込んだ。


新品の青いローブに袖を通してベルトを締める。『深淵の青雷』の真新しい制服は心を切り替えるのにぴったり。

一通り鏡の前でチェックして満足すると、最後に分厚い靴下を履いて購入したばかりのブーツに足を突っ込み、編み上げ紐を固く縛り上げた。


集合場所のロータリーにはすでに私と同じ制服を着た団員が集まっていた。

4台並んだ立派な馬車には、『深淵の青雷』のシンボルである、真っ青な炎に包まれた火の鳥の旗が誇らしげにはためいている。


先輩たちに促されるままに乗り込んだ馬車には私の他に新人が3人座っていて、皆卒業したてって感じの若い男性だった。

全員から様々な種類の熱い視線を受けた。ものすごく不快だったから、やわらかな絹のビロードのカーテンに頭を預けてじっと窓の外を眺めていることにした。話しかけないでポーズ。


遺跡ダンジョンの入り口は街外れの岩山の中腹にあった。ちょっとした広場になっていて、かなりの賑わいを見せている。

無法者が一攫千金を狙って集まる怖いイメージがあったけれど、意外と普通の市民もたくさんいた。飲食店や古道具屋など、様々な露店が並び、ハンターだけでなく商人や店の番をしている子供もいて、なんだかお祭りみたい。


馬車が止まって数十人の『青雷』のメンバーが降りると、まるでモーセの奇跡のごとく人だかりが割れた。誰もがこの街を牛耳る学院の魔術師集団とは関わり合いになりたくないみたい。

ちょっと恥ずかしいけれど、おかげでダンジョン入り口まですいすい歩いていけた。


物珍しくて、歩きながらいろんな露店に視線を走らせていたら、むさ苦しい男たちの集団の中に女性を発見して驚いた。服装からいってハンターだと思うけど、パーティーの中に自然と馴染んでいて不自然さはない。

ダンジョンの中は法の目の届かない無法地帯。よほど信用しあっている仲間なんだろう。

いずれ私もこんなふうに堂々と好きなことをして生きていきたい。なんだか励まされた気分になって意気揚々と前を歩くメンバーの背中を追いかけた。


なのに、遺跡の入り口に奴がいた。ヨアニス。

息が止まるかと思った。遠くからやってきた私をじっと見つめているもんだからバッチリ目が合ってしまった。慌てて目を逸らす。


偶然なわけがない。学院に入れないからってここで張ってたんだわ。なんてこと。

黒い革鎧を着て麻のバックパックを担いでいる。ダンジョンに入るような格好だけど、どうするつもりだろう。


もうやだ、信じられない。さりげなくメンバーの影に隠れて、どうかこっちに来ませんようにと願いながら知らんぷりで通り過ぎようとしたのに、視界の隅に走り寄ってくる彼の姿があった。


「ユリ!待ってくれ!話をしたいんだ。ユリ!!ユリ!!」

信じられない大声で叫ぶヨアニス。恥ずかしい。よくも『青雷』のメンバーのいる前で。

俯いて自分の名前を連呼しているヨアニスを必死に無視して通りすぎたと言うのに、新人の一人で軽薄を絵に描いたような男、テックがわざわざ私の隣まで移動してきてからかいはじめた。

「おいユリ、お前呼ばれてるぞ!あいつ彼氏じゃないのか?おいおい、こんなとこで痴話喧嘩かよぉ!」

今や『青雷』の全員が私を見ている。体中の血液が頬に集まるの感じて下唇をキツく噛むことでじっと耐えた。


そのまま半分崩れた小さな神殿のような遺跡の入り口前に到着すると、『青雷』のメンバーは他のグループと同じように鱗状に緩く広がる階段のスペースの一つに陣取った。


リーダーのリューゼフが大声をあげて集まったメンバーを注目させる。ありがたい。

「知っての通り、今回の目的はあくまで新人研修だ。浅い階層とはいえ油断はするなよ。特に新人ども!お前たちは魔術の使用を一切禁ずる。『補強術』も『ライト』もだ。隊列を乱さぬ事だけを考えてただついて来い!」


『補強術』ってなんだろうと考えていたら、副リーダーのテニリが笑いを噛み殺しながら話しかけてきた。顎をしゃくって遠巻きにこちらを見ているヨアニスを指す。

「ユリ、あいつをなんとかしろ。このままついて来られちゃ迷惑なんだよ」


私はギョッとしてテニリを見た。どこにも特徴のない、底意地の悪そうな地味な顔。どんなに見つめても無情なこの決定を覆してくれそうもなかった。

私はがっくり肩を落として「わかりました」と呟き、渋々ヨアニスのもとへ行った。


背中にメンバーたちの興味津々の視線が集中する。これから危険なダンジョンに潜るっていうのにこんな茶番。リューゼフが怒ってくれたら良いのに。


ヨアニスはもう10日ぐらい寝てないんじゃないかと思うほどひどい顔色だったけど、悲壮感漂う姿にもかかわらず、相変わらず美しかった。神話を題材にした悲劇的な舞台の一場面でも見てるみたい。


私は期待の眼差しを向けてくる彼に小声で囁いた。「ヨアニス。本当に迷惑だから、やめて」

美しき武神はその姿に似合わない情けない態度で縋り付くように私の両肩を掴んだ。力任せにゆすられて倒れそうになる。

「ああユリ、会いたかった!お願いだから、もう一度だけ話を聞いてくれ。どうしたら許してくれる?もう二度としないと誓うよ!」

冷静に説得するつもりだったのに、一瞬で頭に血がのぼった。

「『許してくれ』ですって!ヨアニス、あなた、自分が何をしたか分かってて言ってるの?ううん、分かってないよね。私の気持ちを理解してたら、『許す』だなんておこがましい言葉、出て来るはずないもの!!」

しかし彼は聞いてない。「なんでもするから!お願いだよ。俺はお前なしじゃ生きていけないんだ!俺のものなんだ!俺も君のものなんだよ!」なんて叫ぶ始末。


なんなの。何言ってんの、こいつ。これじゃあテックの言う通り痴話喧嘩みたいじゃない。

外から見れば、浮気がバレたか何かした男が恋人に縋っているようにしか見えない。外野も「おい熱いな!」とか「一度ぐらい許してやれよ」とか、「絶対だめ!ユリ、一歩も引くんじゃないよ。とっちめてやりな!」とか言ってる。(最後のはキラ先輩かも)


もうやだ。もしかして私、ヨアニスに嫌がらせされてるの?四方八方から囃し立てる声や口笛が聞こえてくる。すでにまったく関係のないハンター連中も集まってきていた。

早く終わらせないと。焦る私とは対照的にヨアニスの方は周りが見えてないみたい。「頼むから、もう一度だけ信じてくれ!」と悲痛な叫び声を上げる。

「やめてよ!どう信じろというのよ!」

「なんでもするよっ。だから……」今度は腕を掴もうとした彼の手を反射的に振り払う。「薄汚い手で触らないで!たとえあんたが死んで詫びたって、私にした事が消えて無くなる訳じゃない。私たちもう終わってるの。わからない?」


今度こそ拒絶が効いたらしい。ヨアニスはその場に崩れるように座り込んだ。私は涙を溜めてただ見上げている彼を見捨て、踵を返して隊に戻った。


こんな馬鹿げた劇をやらせた当人であるテニリの隣には、唯一事情を知っているはずのリューゼフが腕を組んで並んで立っていた。二人は楽しげにニヤニヤ笑っている。嫌な奴ら!

なんて意地悪なんだろう。これ嫌がらせなんだわ。私は怒りで眉毛がピクピク動くのを感じながらも「済みました」と固い声で報告した。


待っていたメンバーたちも笑いを堪えてこっちを見てる。他人事ならさぞ滑稽な茶番に見えることだろう。

なんとか冷静になろうと息を整えている私の元に、タスロン先輩が哀れんだ目つきでやってきて、持っていた大きなバックパックを差し出した。私の身長の半分ぐらいある。

「お疲れ。これ担げるかい?ちょっと背負ってみて」


バックパックは信じられないほど重かった。思わず座り込んでしまった私をみたタスロンは、「やっぱだめか。ごめんごめん」と言いながら紐を解いてたくさんの鍋や食料の入った包みを取り出し、そのほとんどを自分のバックパックに詰め直した。

「よし、このぐらいで良いかな。安心して、俺は『補強術』が使えるから」とウィンクした。

「その『補強』ってなんですか?」

「あれ、知らない?あ、そうか。君まだ2年に上がったばっかりだったね。簡単に言えば肉体強化の魔術だよ。『身体強化術』ともいうかな。ガーレンに伝わる秘術の一つなんだ。魔力で筋肉をコーティングするんだよ」

「へぇ。そんなことできるんだ」

「特殊な技術だし誰でもできるわけじゃないけど、実は驚くほどのことでもないんだよね。獣人や魔族なんかは生まれつき持ってる力なんだ。ほら、ヨアニス君なんかは……あ、ごめん」

「いいんです」立ち上がってバックパックを背負い直した。

そのタイミングでリューゼフが大声を張り上げる。「では行くぞ!気を引き締めろ!!」


遺跡ダンジョンへの入り口は思っていたより地味で、小さな一軒家ぐらいの大きさしかなかったけれど、まさしく古代の神殿を思わせるような神秘性を放っていた。

手前の柱は半分に折れて苔むしているけれど、入り口を支える太い柱は頑丈そうだ。


ここからでも地下の闇へと吸い込まれるようにして続く大きな階段が見える。

あの下に巨大な迷路が存在しているらしいけど、一般の人々がたくさん暮らしているガーレンの街の下に、魔物がひしめく危険なダンジョンがあるなんてこうして目の前にしていてもどうにも信じられない。


出入りは自由にできるみたいだけど、外に魔物が飛び出してきたりしないんだろうか。

そういえば下水道にも魔物が住んでいるらしいけど、定期的に駆除してるそうだからここもそんなものなのかもしれない。この世界の住人ってたくましいわ。


荷物係の新人は隊列の真ん中。皆私と同じようにそれぞれに割り振られた大きなバックパックを背負って不安そうに辺りを見回している。なにしろ階段の下は真っ暗闇で、湿った冷たい風が吹いてくるし、不気味で、とてつもなく嫌な予感がする。

振り向くとすぐ後ろに私の教育係であるタスロン先輩がいた。にっこり笑いかけて安心させてくれる。

私たちは隊列を組んで不気味な地下へと降りていった。


階段はかなりの広さがあるけれど、深さも相当だった。体感でもうかれこれ10分も降り続けている気がする。

誰かが浮かべた光球の明かりがようやく地面の石畳を照らす頃にはクタクタになっていた。なにしろ背中に背負った荷物が重い。


降りた先はすぐ壁で、左右に暗い通路が伸びている。

やや手を入れている大規模な炭鉱といったところ。床は擦り減っていてまだマシだけど、壁も天井も荒い石が積み重なっているだけの状態で、ひどくでこぼこしているし、ところどころ水が染み出していて、雫が滴り落ちる不吉な音が暗闇に響いていた。どうして誰も明かりを設置しないのか不思議だ。


少し歩いた先にちょうどいい広場があった。天井が高く、床にはタイルが引いてあって、大勢のハンターが荷物を置いて慣れた様子で談笑している。私たちも一旦ここで休憩となった。

すでに汗だく。ぐったりと座り込んだ私の横にタスロン先輩がしゃがみ込んだ。

「どうだい?ダンジョンの感想は?」

「へ?ああ、そうね、そうだった」


先に入ってしまったヨアニスを責め立てたあの日がはるか昔に思える。来てしまえばこんなものかと思うのに、あの時は天変地異が起きたかと思うほど激しく動揺してしまったんだった。急に恥ずかしくなって話題を逸らした。


「ここ、すごい大昔の人が造ったって聞いたけど、崩れたりしないの?」

「神人の遺物とはいえ、いつかはね。はるか昔に崩壊したダンジョンの残骸も見つかってるけど、ガーレンのダンジョンはまだ機能してるよ。おかげでこの街は大陸の僻地にあるっていうのに潤ってる。ここで見つかる貴重な魔物や財宝が主な財源になってるのさ」

「機能?」言葉に違和感を覚えて首を傾げた。

「そ。ただの地下通路に見えるだろ?ところが大違いなんだ。そこらに落ちてる石ころ一つとっても遺跡ダンジョンの一部。ここは『生きてる』んだよ。ダンジョン全体が一種のアーティファクトなんだ。例えば、リューゼフが力任せにそこの柱を爆発させて破壊したとする。するとそのうち何もしなくても元通りになる。怪我が治るように、じわじわとね。それともう一つ、気をつけなきゃいけないことがある。その荷物もしばらく置いておくとダンジョンに吸収されてしまう。猶予は一日。少しでも動かせば問題ないんだけど、忘れ物はしないようにね」

「……じゃあ拠点を築いて調査するってわけにはいかないわね?」

「その通り。飲み込みが早いね」


なんだそれ。私は首を傾げた。

古代人の文明が現代とはかけ離れたものだとは知っていたけど、なんの意味があってこんなもの造ったのか、まったく理解できない。


学院の授業によれば神人が生きていた神話の時代はかなり荒れていたそうで、神人も強かったけど、『神竜』と呼ばれるとてつもない魔物(今もひっそりどこかには生息しているらしい)と陸の覇権を争っていたというから、それはもう想像を絶する世界だったんだろう。

ならばこのダンジョンにもきっと大きな意味があって造られたはず。

しかし、5000年(諸説ある)もの月日が流れるうちに神人たちの暮らしぶりが伺えるような遺物は、幸運にもなんらかの(ここのように地中に埋もれているといった)事情で現存しているダンジョンと、そのダンジョンから〈提供〉されるアーティファクトぐらいしか残っていないらしい。


他の新人と話していたキラ先輩がこちらに首を伸ばして意味ありげに言った。

「私たちは神人の技術を手に入れたいのよ。だから学院は碌な成果もあげない『青雷』に資金を出し続けるの」

「ああなるほど。あ、でも、大賢者ガーレンはここを制覇したことあるんでしょ?当時の記録は残ってないの?」

「残ってるはずよ。学院長が隠してるけどね」

「ええ?」

タスロン先輩が苦笑いした。「ははっ。あくまで噂だけどさ。俺らも一枚岩じゃないからなぁ」

キラ先輩が言った。「それよりトイレ大丈夫?」

「大丈夫です」

そこで休憩が終わった。


ダンジョン内部はとにかく暗かった。

広場を出た先は真っ直ぐ続く6、7メートル幅の道になっていて、迷宮と表現されるだけあって幾つもの分岐があり複雑に入り組んでいた。漆黒の闇の奥は地獄に続いているかのように静かで、終わりがない。

事実、闇の向こうには無数の魔物が蠢いているはず。


広間から離れていくにつれてすれ違う他のパーティーも少なくなっていき、私たちのたてる足音と息遣い以外には何も聞こえなくなってしまった。

ダンジョン内は静まりかえっているけれど、それでもどこからか獲物を見張る魔物の荒い息遣いが聞こえてくるような気がしてぶるりと身震いした。大人数とはいえ、暗闇の中に身を浸しているとざらざらとした恐怖がゆっくりと忍び寄ってくる。


ダンジョンで死んだらどうなるの?ふと思いついてぞくりとする。

仲間が死体を放棄したら、忘れ物の荷物のようにダンジョンに吸収されるのでは?

嫌でも想像力が掻き立てられる。

ここは閉ざされた石の牢屋で、魔物は邪悪な悪意の鎖に囚われた、永遠に地下から出る事が出来ない哀れな魂のなれ果てなのではないか。

澱んだ暗い通路を歩いていると、ついそんな妄想に囚われる。進むべきじゃないと、本能が危険を知らせているのだ。


不意に、通路の奥から冷たい強い風が吹き込んできた。まるで地獄の主が新たな魂を歓迎しているかのよう。

苔むしてぬるぬるする壁の奥から不意にパチャパチャと水音が聞こえて飛び上がった。そこらじゅうに暗い死の予感が漂っている。

今すぐ地上に向かって走り出したいぐらい。せめて、少しだけでいいから休みたかった。しかし休憩に適した広場もなく、隊は容赦なく進み続ける。


それでも、ここがどんなに不気味でも、長時間ただ歩き続けているだけだとだんだん飽きてくる。どこまで行ってもいかにもなダンジョンが広がっているだけなんだもの。

途中罠か何かあったようで、前方にいる先輩たちが何やらやっていたけど、それもすぐに済んでしまった。


そのうちどことなく明かるくなってきて、古びた石の回廊の隅に草が生えているのを見つけた。日光も無いのに緑色をしている。

タスロン先輩は「不思議だろ?ダンジョン内で発見される植物の中には人の役にたつ希少種も生息してる。だからと言って触っちゃダメだよ。毒を持つ種類もあるからね」と忠告した。

「魔物は?ぜんぜん出て来ない」

「ああ、まぁこれだけ大人数だと向こうも警戒するんだよ。まだ一階だし、こんなもんさ。退屈かい?」

「ええ、まぁ。その、疲れちゃって」

「そればかりは慣れるしかないな。魔力を体に巡らすように意識するんだ。それだけでだいぶ違うから」

「やってるけど、歩きながらだとうまくいかないの。ずいぶん歩いて来たけど、この広さおかしいわ。街はこんなに広くないでしょ」

「まぁね。古代人のダンジョンに常識は通じない。この道も時間と共に変わるんだ。だから地図も作れないんだな。それでも1階層はそろそろ終わるはずだよ」


彼のいう通り、さらに分かれ道を進んで3回曲がった先に突然下に降りる階段が現れた。

ただし、期待の2階層もさらにじめじめしていることを除けば1階層とほとんど変わらない環境だった。


あれほど期待していたダンジョンがこれほどつまらない場所だったとは。

恐ろしい魔物や光輝く黄金の財宝はどこ?なんて思っていたら、突然空気を裂く鋭い音がした。先頭の誰かが魔術を放ったみたい。

なのに先輩たちは何も言わない。当然のような顔をしている。魔物は死んだのか、それとも逃げたのか、それすらよくわからなかった。

周りより頭一つ分身長が低いせいもあって、かろうじて青いローブの向こうにチラリと湿った壁が見えるだけ。肝心の前方の様子はまったく見えないのだった。


それからもただひたすらついて行って、階段を降りて3階層目にきた。

途中で幾度も分かれ道があったし、立ち止まってしばらく待っているような時は罠を解除しているらしい音も聞こえてきたけど、何もかも見えないから何が何だかぜんぜんわからない。


さらに4階層目に到着した時、階段の途中で突然ひんやりした空気が肌を襲った。

降りて驚いた。広い。風が吹き抜けていく。

目の前に魔力灯が仕込まれた巨大な丸い花壇があって、数種類の背の低い花によって幾何学模様が描かれ、その周りにはモダンな石の長椅子が並べられていた。


振り返ると降りてきた大階段は小さな駅のような建物になっていた。正面はライトアップされていて明るい。

建物には屋根があって、その上には星が瞬く綺麗な夜空が広がっている。ここは地下で、この上には迷宮があるはずなのに。


こんな……まさか!でもやっぱり星だわ。晴れ渡った夜空に満点の星が煌めいている。声を失って呆然と見上げ、目を瞬かせた。一段と強い風が吹いて私のローブをはためかせ、梢がざあざあと音を立てる。どんなに目を凝らしても夜中の屋外にしか見えない。


「ここで休憩だ。おい、明かりを消せ!」

リューゼフに注意された先輩があたふたしながらライトを消した。

何人かが協力して床に大きな結界を張り、私たち新人もそこに荷物を下ろして一息つくことができた。ベンチもあるし、解放感があってなかなか快適。


奥には暗闇が広がっているけれど、階段の前には明かりが付いているし、まんまるの月と満点の星々のおかげで目が慣れてくるごとに離れた場所も見渡せるようになってきた。


ここは『夜の公園』だった。そうとしか言いようがない。

赤レンガの歩道に青銅色のベンチ。白いフェンスの向こうには美しく刈り込まれた芝生が広がっている。信じられない思いのまま目を凝らすと、ところどころに洒落た小屋が建っていて、売店か管理小屋のように見えた。


昼間には親子連れや犬の散歩をする人で賑わうだろうありふれた光景……そこでふと気がついた。こんな場所、この世界にない。

少なくとも私が今までみてきた街にはなかった。大抵は高い塀に囲まれた城壁都市にすぎず、都会といえば最低限必要なものだけが凝縮して詰まっているといったもので、これほど大規模でモダンな公園は貴族の庭園(見たことないけど)だってありえない。


よく見れば足元のレンガだって正確にカットされて隙間なく並べられ、つまづきようもないほど真っ平に整えられている。歩きやすいけど、すごい違和感。

さらに芝生の金属製の看板にはポイ捨て禁止のマークがあり、駅のような階段のある建物の横の赤く塗られた売店にはアイスクリームや炭酸水の絵が描いてあって、見慣れたシャッターまで降りていた。


「嘘でしょ」思わず呟いた。全身に鳥肌がたつ。そんな。これ、地球の文明だわ。待って、待ってよ。じゃあ何?古代人って、地球人なの?ここは地球なの?


呆然としていると、何か勘違いしたらしいタスロン先輩が「よくここまで頑張ったね。不満も言わずに偉いよ」と褒めてくれたけど、こっちはそれどころじゃない。

喉がカラカラだった。つい言いつけを忘れてカップに水を満たして一気に飲み干そうとしたら、「こらこら、魔術はダメだよ。喉が渇いたら俺に言うように。それに水分は少しづつ口に含むようにして飲むんだ。体力を奪われるからね」と注意されてしまった。


横から突然声をかけられた。「ねぇ、トレイ行かない?」キラ先輩だった。

「え?あるんですか、トイレ」ちょっと正気に戻って目をぱちぱちさせた。

「うん。あちこちにあるよ」

正直情報過多で頭がいっぱいで尿意なんて感じないけど、今朝寮を出てから入ってない。そろそろ排泄しないと体に悪そうだと思い、立ち上がってキラの後についていった。


彼女は派手なブロンドの髪を自慢げに払いながら言った。

「どうしてだかこういうトイレがある場所には魔物が来ないの。だから休憩場所になるわけ。ふふ。驚くわよぉ」

もう十分過ぎるほど驚いてる、と思ったけど、建物に入ってすぐの右側にある女子トイレは煌々と明かりが灯っていて、外観も中もまさしく私の知っている『駅のトイレ』そのものだった。

ただし、洗面台の代わりに長いテーブルがあって、壁から突き出た謎の小さな金属の突起が並んでいるだけ。それに個室の便器も形状が違う。樹脂製っぽいドーナツ状のイスがあるんだけど、便器の中には水が張っておらず、タライのようにつるんとしていてどこにも流すための穴がなかった。水のタンクも拭う用のあれこれも女性用のビデも、何もない。


キラ先輩がニヤつきながら言った。「使い方わかる?」

「これ、どうやって流すの?」

「流すって何が?ああ、そうじゃないのよ。座って用を足すの。しゃがまないで、椅子に座るみたいにしてやるのよ。すると不思議なことが起こります」ますますにんまり笑った。「さぁ、やってみよう!」

「え。教えてよ!だってこれ、穴が空いてない」

「いいから。ほら早く」


強引に押し込まれて仕方なく扉を閉め、少しの間変わった便器を眺めた。

どこかにヒントがあるはず。気になるのは排泄物の行方だけど……取り外してどこかに捨てるの?ゴミ一つ落ちていないピカピカなこの場所にそんなところなかったように思うけど。

私は少し考えてから意を決し、便器の中に魔術で水を発生させてみた。すると水は緩くカーブしたツルツルの底に吸い込まれるように消えていき、突然便器の中から霧が吹き出した。一瞬のことだった。


思わず飛び退いたらドアに背中をぶつけてしまった。隣の個室からキラのくすくす笑いが聞こえてきた。耳を澄ましていたみたい。

少し離れた場所からも怒号と笑い声が響いてくる。反対側の男子トイレでも同じようなことが行われているらしい。


「びっくりしたぁ?それね、アーティファクトよ。どうやっても取り外せないから構造はわからないんだけど、すごく綺麗になる液体がかかって、しかも一瞬で乾くの。家にも一個欲しいよねぇ。誰か造ってくんないかな」

なるほど。ウォシュレットの進化版か。予期せず古代人のトイレ事情を知ってしまった。

納得して使ってみれば、かつてないほどお股とお尻がすっきりした。しかもお風呂上がりにパウダーをはたいたみたいにサラサラ。これは癖になるわ。

衛生面は……信用するしかない。


2人でトイレから出てくると、花壇付近で待っている先輩たちと衝撃を受けて興奮している新人男子3人が騒いでいた。頭をぶつけたのか、そのうちの1人は頭をさすっている。

さすがに女性に絡んでくる男はいなかったけれど、やたら盛り上がっていた。どうやらこれは新人歓迎の儀式だったみたい。

そりゃウォシュレットを知っていなかったら私だって飛び上がって驚いたと思う。実際背中をぶつけたし。


賑やかなひとときはリューゼフの怒鳴り声によって終了した。「休憩終わり!」

タスロンがにこやかに微笑みながらやってきた。「さぁ、ここからが本番だ。何があっても絶対に離れちゃダメだ。いいね?」

「あ、はい」

「大丈夫。今までのようについてくればいいだけだから。ちょっと出てくる魔物が気持ち悪いけど、俺たちにかかれば問題ない程度のやつしかここにはいない。ああそう、ここの魔物はね、松明の明かりや魔術の光に寄ってくるんだ。ダンジョンに設置されてる照明の光には反応しないんだけど」タンスロンは何気なく付け足した。「それと、苦手だろうから先に言っておくと、大きい昆虫が出てくるから。パニックを起こさないようにね」


虫……。虫だけは嫌だったのに。

私は頬を引き攣らせながらゾンビのように力無く立ち上がった。

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