第42話 光と影3
ナッツは戻ってこなかった。
何日もの間、昼も夜も窓を少しだけ開けたままにして願うように待っていたけれど、彼が戻ってくる気配はなかった。それが答えだった。
週末までじりじりと変わらない日々を過ごし、それからようやくヨアニスのアパートへ向かった。
きつく問い質して本人の口から真実を言わせたい。そうでもしなければ納得できない。ばれたからそれでさよならなんて、ぜったい許さないから。彼の正体を知ってしまったあの日からずっと、私の中には静かな怒りが渦巻いている。
意外なことにヨアニスは逃げずに待っていた。
私がナッツのためにそうしたように、玄関のドアが少しだけ開いていて、中に入ると妙に薄暗く、寒くて、静かだった。
木窓はほとんど閉めきられ、ほんのわずかに(たぶん私の目でも見えるぐらいの光量を保つためだけに)開けてあった。
一瞬、留守かと思った。生き物の気配がまるでしなかったから。しかしヨアニスはキッチン付きのダイニングルームのいつもの椅子をドアの方に向けて、俯いたまま彫像のように静かに座っていた。
彼が私を見上げた。血の気のない、何日もずっと泣いてたみたいに憔悴しきった顔。思わず息を呑んだ。それでも心の中にいる怒り狂った私は、いだきかけたちっぽけな同情を蹴飛ばして「この恥知らず!」と叫び、かわらず憤っている。
どんな言い訳をするつもり?私は彼を真正面から見据えて睨みつけた。その視線に怖気付いたように顔を歪ませた彼は、ダーナスで出会ったあの頃よりもずっと幼く見えた。
「ユリ……ごめん。怒ってるよな。許してくれっていっても、無駄だろうな」哀れっぽい震え声。
「……じゃあ、本当のことなのね?」
彼は悲鳴のように叫んだ。「俺はやりたくなかったんだ!でも脅されて。そうでもしなければ君の側にいられないから!」
「なんのこと?なに言ってるの?」
「メイシスだよ。ユリも知ってるだろ、あの女」
「学院の?まぁ知ってるけど、あの人がなんなの?脅されたって、どういうこと?」
彼は大きく息を吸った。「……俺たちがこの街に着いてすぐのことだ。学院に報告しにいったんだ。そこまでが教会から受けた仕事だったから。護衛のことだよ」
「で?」
「あいつは俺に言ったんだ。ユリが『神人』なら、いずれ偉大な魔術師の一人になるだろうって。そうしたらもう俺なんかとは別世界の人間になっちまうって!でも言うことを聞いていれば、そのうち学院の契約ハンターとして雇ってやると言われて……仕方なくて」
「……それが裏切った理由?」
「俺だってこんなの嫌だった!やめたかったけど、メイシスは……また俺を脅した。今度はナッツのことをバラすって。だから……」
「わかった。もういいわ」
心の中で温め続けていた微かな希望はあっさり砕けちった。私は彼の何を知っていたんだろう。何を信じて、何に憧れを抱いてきたんだろう。何かがスッとさめ、薄暗い、空虚な気持ちだけが残った。
私にとってヨアニスはある意味完璧な人だった。孤児院出身のハンターでありながら純粋な心を失っておらず、優しくて強くて、なんでもスマートにこなす人だった。最も身近にいる英雄で、恋心さえ抱いていた。
なのに目の前にいるこの人は、くだらない理由であっさり友人を売るような人間で、心から謝罪してくれるならまだしも、悪いのはメイシスでむしろ自分は被害者だと言い張っている。
私の態度から何かを察したんだろう。ヨアニスは顔を歪ませて必死の説得を続けた。
「待ってくれ!そうじゃない。これも護衛の一環だったんだ……君を守ってた。君のために。俺たちのために。そりゃひどいやり方だって俺だって思うよ。でも他に方法がなかったんだ」
「よして。メイシスは唆しただけよ。あなたの判断でしょ。そもそも最初から私のことぜんぜん信じてないじゃないの。どうして私が離れていくって決めつけ……」言葉は尻すぼみになって唐突に消えた。
確かにそうだわ。私、彼から離れようとしてた。でも今じゃない。魔術師になったからって理由でもない。ああもう、混乱する。だけどヨアニスの方は私以上に混乱してるみたい。幼い子供のように涙ぐんで首を振り、弱々しく最後の抵抗を試みていた。
「そ、そうだけど。違うんだ、お願いだから……」
突然、ヨアニスが立ち上がった。端正な顔に冷笑を浮かべている。身にまとう雰囲気までガラリと変わっていた。
彼はしっかり私の目を捉え、余裕ぶった態度で軽く首を傾げた。
「騙してたんじゃないよ。俺の魔物使いの能力はお前も知ってるだろ?」落ち着いた冷ややかな声。「ナッツは使い魔だと説明したよな。そのすぐ後に側に置くことを了承したんだろ。説明も求めなかった」言いながら薄く笑っていた。
信じられない。私をからかって楽しんでる。突然の変わり身にあっけに取られ思わず見入ってしまった。
……なんなの?背筋に冷たいものが走った。
口元を楽しげに歪め、増悪さえ感じる底の見えない暗い瞳で私を見下ろしているこの人は、誰?
まさか、これがヨアニスの本性?
私の知ってる彼は、あの純粋で少年っぽいヨアニスは、私を油断させて騙すための仮面に過ぎなかったっていうの?とても信じられない。そんなのあんまりだわ。今度は私が泣く番だった。
「やめて!四六時中監視されてもいいなんて誰が思うのよ!私はあなたを信用してたの!くだらない誤魔化しはやめてちょうだい。ナッツはあくまでペットとして預けられたんだと思ったのよ!」
彼は傲慢に顎をあげてせせら笑った。「解釈は人それぞれだな」
腹が立つけどそれ以上反論できない。もっとたくさんなじる言葉を用意していたはずなのに、どれ一つ思い出せなかった。
二人の間にあると信じていた優しい感情や綺麗な思い出のすべてが計画的に作られたものだったとしたら。もしそうなら、目の前の冷たい目をした彼の方が本当のヨアニスなんだ。
その事実が私を打ちのめした。立っているのもやっと。これ以上は本当に泣いてしまう。もう行こう。ここを出て、二度と会わない。
私は顔をあげて彼を見据えた。腹に力を込めて気力を振り絞り、強い自分を演出する。
今ここで過去とはきっぱり決別してしまおう。これ以上話したところで事実は変わらないもの。信じていた愛すべきヨアニスは、十数年もの間、親友のふりをして騙し続けられるような人間だったんだから。
くるりと踵を返して扉へ向かった私の背中に、ひどく感情的な声が縋りついてきた。
「待ってくれ!本当はいつか言おうと思ってたんだ!でも嫌われたくなくて!命令を聞く以外に側にいるには方法がなかったから……俺の代わりなんていくらでもいるからっ」悲鳴に近い声だった。
ぎょっとして思わず足を止めた。今度は何?
恐る恐る振り返ったら、さっきまで私をからかっていたヨアニスが今度は泣きそうな顔をしている。心の底から後悔しているみたいに見えるけど……。
なんなの?何が起きてるの?
ゾッとして立ちすくんだ。全身に冷や汗が流れる。さっき見せられた〈本性〉は私の妄想なんかじゃない、はず。
からかってるの?それにしては真に迫りすぎている。ひどく薄気味悪い。
私は警戒して一歩下がった。「それ説得のつもり?怖いからやめて」
「違うんだ、これは、違うんだよ。行かないで……!」ヨアニスが手を伸ばした。私は反射的に身を翻して玄関へ走り、ドアに縋りついた。
追ってきませんように。それだけを願ってアパートの暗い廊下に飛び出し、猛スピードで階段を駆け降りて陽の当たる中庭に出た。
アパートの住人が井戸水を汲み上げて洗濯をしている平和な光景を見て、ようやく階段の暗がりを振り返る余裕ができた。彼は追って来てはいないようだった。それでも安心できず、できるだけ早足でアパートを離れた。
大丈夫。もうあそこに行くことはないんだし、学院の敷地に入ってしまえばそう簡単には捕まらない。急ごう。
心臓がバクバクいってる。街のてっぺんにある学院を目指して坂道を登りながら、恐怖に駆られて何度も振り返った。その度に石畳に足先がひっかっかって転びそうになった。
学院をぐるりと囲んでいる背の高い頑丈なアイアンの門をくぐり、ほっと安堵すると、徐々に緊張がほぐれていって、冷静な自分をとりもどすことができた。
砂利を引き詰めた寮へと続く道を歩きながら、今日の奇妙な出来事を振り返ってみる。
ヨアニス。あの人、どうなってるの?
演技には見えなかったし、今思えば彼の発したどの言葉も真実のように思える。そもそも私を脅かす意味がない。
きっとあれは、精神の病気か何かなんだわ。多重人格ってやつなのかも。ゾッとするけど、ハーフヴァンパイアとして生まれたせいで幼い頃に親に捨てられたという彼の複雑な生い立ちを考えればありえない話ではなかった。
かわいそうだけど、病気だとしてももう会わない方がいいだろう。精神が不安定な食人鬼なんて危険すぎるもの。たとえからかっていただけだったとしてもそれはそれで怖いし、すでに相当な被害を被ってるんだから。
しかし数日が経ち衝撃から立ち直ると、今度は寂しさに付き纏われるようになった。
無意識にポケットやフードの中にあの小さな温もりを探そうとしてはっとし、その度に孤独に襲われた。体の一部を突然失ってしまったような喪失感。あんなにちっぽけな存在が心にこれほど大きな穴を開けることができるなんて。ナッツが恋しい。
この冬はひどく寒く感じる。ついに本当に一人ぼっちになってしまった。
考えてみればハンターになる夢もヨアニスありきだったわけで、こうなってしまうとこれからどう生きていったらいいのかさっぱり分からない。
彼がいないならハンターになる意味もないような気がしてくる。むしろこのまま安全なガーレンに住んでいた方がいいんじゃなかとすら思う。
ううん、やっぱりそれはダメ。このままじゃ権力者に利用され、飼い殺しにされる未来しかない。
ならどうすればいいの?とにかく、何もかもこの学院のせいなんだから、できるだけ早くここから離れた方がいい。もちろんことの発端である教会からも逃げないといけない。
だけど学院はともかく、あの教会の手が届かない土地なんてあるんだろうか。
一応、人の住む大陸は他にもある。
砂漠のニムオン大陸の向こう、はるか東には闇の神々が支配し、魔族が住んでいるという混沌の大陸、『魔大陸』がある。
犯罪が横行する野蛮な土地だという話だけど、その割にはあちらから入ってくる品物は人気が高いようで、それらは専門の御者によって高額で売買されているとも聞いた。もしかしたら本当は向こうの方が文明が上なのかも。ありえる。
いざとなったら魔大陸へ逃れる道も視野に入れておこう。
しかし、そもそも学院や教会はどうして私に関わろうとするんだろう。身に覚えがないんですけど。
あるとすれば一つだけ。私が『神人』だってことだけだけど、それだってここまでする価値があるとは思えない。
今は他にいないらしいけど、それでも定期的に『神人』は生まれていて、時代や場所にもよるけれど、文献によれば彼らは皆当時のヒューマンとそう変わらない人生を送っていたらしいのだ。
リューゼフやヨアニスを信じるなら、私を監視させていたのは学院長ということになる。
魔導具士でもある学院長は以前、『神人』にしか動かせないアーティファクトがあると言っていた。でもそれだけ。
『神人』の血がかなり濃いらしい私は研究者にとっては貴重な人材なんだろうけど、それなら素直に協力を頼めばいい。こんな人格を否定するようなやり方を選ぶなんて異常すぎる。
ならばと、私は科学者の気持ちになって考えてみた。
他人を四六時中監視しようなんて普通は思わないし、できない。(変態でなければ、だけど)
ならどういう状況ならやるだろうか。
私は以前会った時のことを思い出した。言われるままにクッキーを食べる私をじっとみていた冷徹なグレーの瞳。もしかしたら、彼の研究対象はアーティファクトではなく、『神人』そのものなのでは?
それなら理解できなくもない。だとすると、『教会』はなんなの?
考えたところで新たな疑問がわいてくるだけだった。
自分の脳みそではどうにも解決できそうにないのに、相談できる相手がいない。世界最高峰の学術機関である学院にはこんなにもたくさんの天才が集まっているというのに、一人も信用できないなんて。
おかしなことに、そんなことをつらつら考えながらも、私はあいかわらずこれまでと何にも変わらない日々を送っていた。
こんな学院さっさと出ていきたい、そう思ってはいるけれど、結局実力不足の魔術師が一人で世の中に出て生きていけるわけもなく、ただだらだらと問題を先送りにしているのだった。
ある雪がちらつく夕方、授業を終えて寮に帰ると、底冷えする部屋のテーブルに買った覚えのない、見るからに高価そうな花瓶が置いてあった。白い花弁の冬の花が1束生けてある。
花瓶には手紙が添えられていた。優雅な植物紙の封筒に複雑な家紋の封蝋印で封がされている。見覚えがなくても誰からのものかすぐにわかった。
ああやだ。人が絶望している時を狙って接触してくるなんて新興宗教みたいよ。イライラしながら思った。ムイの不法侵入はこれで2回目。
手紙は読まずに魔術で燃やし、花瓶の方は勿体ないから花ごと一階に持っていってもう使わなくなって久しい談話室のキャビネットの上に置いておいた。目につくところには置いておきたくないもの。
部屋に戻り、食事の前にお風呂に入ろうとローブに手をかけてぎくりとした。
この部屋は広いけれど、ワンルーム形式だから遮る壁もなく、バスタブとベッドの間には薄い衝立が一つあるだけ。
毎日のようにあられもない格好をヨアニスに覗かれていたのだと思うと、怒りを通り越して情けなくなった。
それでもナッツが恋しい気持ちは治らない。今でも時折、腕を這い上ってきては柔らかな羽をピッタリと張り付かせる感触やポケットに落ち着いて丸くなる時の重み、忙しない小さな生き物の息遣いを感じることがあった。
一人きりの部屋は寒々しくて、バスタブに張った湯に浸かりながら猫でも飼おうかとしばらく思案していたけれど、学院はペット禁止だというルールを思い出して断念した。
今まであの子が私のそばにいられたのは学院長の指示があったからなんだわ。なんで変だと思わなかったんだろう。誰もペットなんて飼ってないじゃないの。私って本当に馬鹿。
このままではいけないと思いながらも平和で単調な日々を過ごしているうちに、だんだん日差しが暖かくなってきた。新学期にも慣れはじめたそんな頃、メイシスから呼び出しを受けた。
普段はアルバイト先の研究室にも姿を見せない彼女がわざわざ私と会おうとする理由は一つだけ。
昼休みにまで使いっ走りをさせられているテンを見ると、お腹の中に突然鉛が出現したみたいに重くなった。
テンは食堂で食事をしていた私の前までまっすぐやってくると冷徹に告げた。「今すぐ行け。メイシス様がお待ちだ」
「何よもう。食事中なんだけど……」私は目の前のトレーに乗ったパンと粗挽きのソーセージを見つめてため息をついた。「わかったわよ。もうお腹いっぱいだし、そんな気分じゃなくなったから……」
「早くしろよ。それは僕が片付けておく。さぁ急ぐんだ。あ、教師棟じゃないぞ、いつもの研究室の方だからな。走ってけよ」
「はいはい」
とはいえとても走る気にはなれず、早足で研究所が並ぶエリアへと急いだ。
メイシスは広い倉庫の真ん中に立っていた。
あまりにも姿勢が良くてまったく動かないものだから、ドレスローブを着たメイシスそっくりのマネキンでも置いてあるのかと錯覚してしまった。
その氷のように凍てついた頬の筋肉がわずかに動いて、精巧な人形が言葉を発した。
「待っていました」わずかに非難がこもっている。これでも一応急いで来たんだけど。
彼女は軽い動作で両の肘を手で包み込み、腕組みに近い姿勢をとるとおもむろに言った。
「ヨアニスと会ったのでしょう?どうでした?」
ムッとして睨みつけた。挑発してるわけ?
どうもこうも、全部あんたのせいでしょうが。彼と裏で繋がってたって知ってるのよ。
内心歯軋りしながらも怒ったら負けだと自分に言い聞かせた。この女にだけは絶対弱ってる姿を見せたくない。
「事実を聞きました。で、何か用ですか?」感情を押し込めて冷ややかに言い放つ。
特大の嫌味を込めたつもりだけど、メイシスにはあんまり効いてないみたい。綺麗な澄まし顔に薄い笑みを浮かべただけだった。
こんな時でもなければ美しいと思っただろうけど、今は近くの棚からありったけの工具を取り出して残らず投げつけてやりたい衝動に駆られる。
こいつさえいなければ、今もヨアニスと一緒にいられたのに。
「リューゼフから聞いたわ。コウモリが『彼』の使い魔だと知らなかったそうね」
「団長から、ですか?」
メイシスは私の問いを無視して続けた。「女性としては許せないわね。私からも謝るわ。ヨアニスがあなたにすべて話したと言っていたから、親密な関係だと思ったのよ。……彼を学院公認のハンターから除外します」
私は頷いた。ヨアニスは監視員を首になったみたい。ざまあみろだわ。こいつに言われるのもムカつくけど。
メイシスは静かな眼差しで私の目をじっと見つめ、淡々とした口調のまま信じられないことを言い出した。
「ただ、愛の形は人それぞれですから。もう一度ヨアニスと話しあってみてはどう?」
私は唖然としてまじまじと彼女を見つめた。何言ってんの、この人。『愛』ですって?
悪びれる様子もなくさらっと言い放ったその一言に顔が火照るのを感じた。もちろん恥ずかしかったんじゃなくて、怒りでだ。
なんのつもりなの?ヒステリックに喚き出したいのをグッと堪える。
メイシスはまだ探るような目で私をみてる。少しの間私たちは見つめ合った。私の方は睨んでいただろうけど、彼女の作り物のような顔にはなんの表情も浮かんでいない。
私は返答を返さずに彼女のもとを去った。怒りで滲んだ涙を見られたくなくて、急足で倉庫を出て、今度こそ走って食堂まで戻った。テンに見られてもこれなら汗だって言える。
テンは私が今まで座っていた席について自分の昼ごはんを食べていた。
私のトレーは奥に押しやられたまままだ残ってる。私は座るなりトレーを自分の方に引き寄せるとソーセージにフォークを突き立てて勢いのまま口に運んだ。
テンがこちらを見ずに独り言のようにボソッと聞いてきた。「用件は何だった?」
「知らない」
「……そうか」
テンの数多い美点の一つは口数が少ないこと。私たちは無言で残りの食事を平らげると、次の授業の準備のために立ち上がった。
食堂を出る時、テンは一瞬だけすごく心配そうな顔で私の方を見たけれど、何も言わずにいてくれた。
もしかしたら目が赤くなってるのかも。彼に泣き顔を見られるのは初めてってわけじゃないし、別にいい。
テンに頼ろうかと一瞬だけ考えた。話を聞いてもらうだけでも。
だけど、学院長派の下っ端の彼に頼るのはどう考えても得策じゃないし、余計な負担をかけてしまう。迷惑をかけたくない。テンはまじめくさったその見た目の100倍は優しい人だから。
メイシスの謎の呼び出しはある意味私を冷静にさせた。
なぜかこのまま学院にいて良いんだと思えたし、ヨアニスに処分が下ったことでもう学院でも会うことは無くなったわけだから、その分安心できた。
なのに、『もう会わなくて済む』はずなのに、『もう会えない』と感じてしまうのはどうしてだろう。虚しい日常は何も変わらずにやけに順調に過ぎていく。
むしろ頼るものを失った私は、今までの甘えを捨て去ったことで研ぎ澄まされていき、私の組み立てる魔術は高等部の教師たちを満足させるレベルまで上がっていった。
それでも夜はたまらなく寂しくて、少しだけ窓の木戸を開けて寝るのが習慣になっていた。
昼間は悲しみを押し隠せても、夜の魔力が私の心を曝け出してしまう。ナッツの愛くるしいくりくりした黒い目を思い出すたびに涙が滲むのだった。
孤独が私を苛む。
ふと思う。こんな時、百合子はどうしていただろう。彼女も一人ぼっちだった。親とも疎遠で、唯一の家族だった夫に裏切られ、友達もいなかった。
それでも悩んではいたものの、こんなに苦しんではいなかった。むしろ新しい生活に希望を見出していた。
彼女にとって〈孤独〉とはもっとも信頼できる友達だった。
百合子を見習おう。その強さを。
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