第33話 雛の羽ばたき1

2回目の6年生としての1年間は、屈辱と孤独と、自分の知能の低さに悩まされながらの日々だった。


そんな私たちのカリキュラムのすべては進学試験のためにある。

必修の授業を半分こなしてあとは自習。専門の教師が何人かいて、そのクラスは自由に出入りができた。そこでは苦手分野を中心に出題傾向にある過去の問題を何度も何度も繰り返し頭に叩き込むのだ。

どのクラスもみんな鉢巻でもしそうな勢いで熱心に教師の講義に耳を傾けている。認めたくはないけど、私もその一人。まさに受験生向けの塾そのものだった。


与えられたわずかな休日もほとんど休めない。テンくんが付きっきりで勉強させにくるせいで唯一の安らぎであるヨアニスの元にもなかなか行けなかった。たまにお慈悲をいただいて街に出ることがあっても外出時間を決められているせいでお昼過ぎには帰ってこなきゃならない。


たまに会うヨアニスは私の必死な態度に完全に引いていた。それでも哀れみを含んだ眼差しではあったけれど、そっと応援してくれていた。会うたびに何かしら甘いものを用意していて、寮で食べられるよう多めに持たせてくれるのだ。


日に日に重量を増すプレッシャーだけでもうへとへとだった。それなのに心のどこかでは後一年もあると高を括っていた。馬鹿すぎる自分を殴りたい。

長いはずだった試験までの猶予期間はあっという間に過ぎて、気づけば秋になり、長い冬が来て、信じられないことに、ぼんやりとした夢が突如として覚めた時には年に一度の試験シーズンに突入していた。


それでも一年前の試験よりはだいぶマシだったと言える。

まったく理解できない質問はほとんどなくて、何かしら書き込むことができたし、教師と対面で受け答えをする試験でも頭が真っ白になることはなかった。


何より大嫌いだった古代語系が得意分野に変わったのが大きい。

ある日突然、思い出したようにシナプスがつながって、何が何やらわからなかった文法や語形変化を理解するようになっていた。発音も悪くないと自画自賛できる。

テンくんは気味悪がっていた。私も不気味だと思ったけど、きっと私の中に眠っている古代人の知識の賜物なんだろう。以前なら恐れ慄くところだけど、試験に受かるならもうなんでもいい。


教師によるといくつも受ける試験の中で特に重要なのがこの『古代語』なのだそう。たとえ他のテストが微妙でもこっちでいい点を取れればかなりの部分をカバーできるというから、私にとっても天の助けだった。


魔術師は『古代語』が使いこなせないと魔導書も読めない。非常に重要で、だからこそ必須科目なわけだけど、それだけではなく、実は『古代』とは言いながらも今でもけっこう使われているらしい。


はるか遠くの魔大陸では共通の言語として日常的に話されているそうで、向こうの支配階級である超がつくほど長命な種族の中には古代人がいた時代を知っている者がまだ残っているというから驚く。

そんなわけで将来外交をするような高いポジションに就くためには必須の言語でもあった。


とは言え、長い歴史を誇る古代人だから言葉の種類も多いし、現代に至るまで時代が移り変わるごとにどんどん変化していってる。だから、大昔から受け継がれてきた魔術書を読むためには現代で使われている『現代古代語』一つでは到底足りないのだ。


これは本当にややこしい。つまり誇りあるガーレンの魔術師は最低でも、母国語である『サノリテ語』の公式文章で使われる正式な表現の他に、『現代古代語』と、特に重要な古い文献で使われている『古代語』の3つを理解していないといけないのだった。


こうして幸運と努力の甲斐があってすべての試験を(順調かどうかは別として)なんとか終わらせることができた。

週末の結果発表当日に痛む胃を抑えながら事務所前の全学生向けの大きな掲示板の前にやってきて、特大級の恐怖を抑え込みつつ目の前の巨大なリストを見上げた。


歓喜の叫びと絶望のため息。あらゆる年齢の学生のざわめきが一瞬にして消えた。50人ほどのリストの真ん中あたりに自分の名前を発見したから。

この目で見ているのに信じられなくてしばらく呆然と立ち尽くし、じっと名前を見つめていたら、急に何かの間違いではないかと変な不安に襲われて最初からリストを見返した。


一年前の自分の名前が載っていなかったあの日と同様、何度も何度もリストを見返す。

ユリという名前の横に苗字のようにヘンレンスと書いてある。ヘンレンスという親を持つユリはこの学院に一人だけしかいない、はず。それでも本当に進学試験に合格したのだと実感するまで随分と時間がかかってしまった。

いつの間にかそばに居たテンくんがいい加減邪魔だからと私の腕を引っ張って掲示板から引き剥がすまで、そうやって自分の名前を見つめ続けていた。


テンくんはまだぼんやりしている私を人気のない隅の花壇まで連れて行ってくれた。

ほっとした同時に感情の波が押し寄せてきて熱い涙が込み上げる。


急に泣き出してうずくまってしまった私をゾッとしたような顔でただ突っ立って眺めていたテンくん。これじゃ私だけ馬鹿みたいじゃない?ヨアニスの爪の垢でも飲ませてもらえばいいのに。

ムッとして顔を上げると、テン君は曖昧に微笑んだ。泣き止んでホッとしただけかもしれないけど。

「初めの頃は絶対に無理だと思っていたよ。これは10年はかかるって!」

ひどい言い草だけど、私自身そう思ってた。それから今度こそ混じり気のない満面の笑顔で付け加えた。「これで僕の将来も安泰だ」


やっぱりメイシスと取引してたのね。テンくんの夢はこの学院の教師になること。彼は私を教える過程で天職だと確信したんだと嬉しそうに笑った。

彼にとってもこの一年は一生にかかわる大事な期間だった。少しだけ冷静さを取り戻した私たちは、最後に握手を交わして大人っぽく感謝を伝えあった。


とにかくこれでようやく中等部に上がれることになった私に友人たちが進学パーティーを開こうと誘ってくれた。

本当は去年してるはずだったんだけど、私が落ちたので一年待っていてくれたんだそう。なんという友達思い。涙腺が壊れたままの私はまたも涙ぐんでしまった。


喜び勇んで学院を飛び出し、ヨアニスのアパートまで合格を告げに行くと、いつも通りドアノッカーを掴む前にさっとドアが開いた。

だけど思っていたような笑顔じゃなかった。まだ何も言っていないのに、玄関で私を見下ろすヨアニスはなぜかがっかりしているとしか思えない暗い表情をしていた。

私から目を逸らして、無言でそっぽを向いたままものすごく苦い何かを飲み込むように喉を鳴らす。そして憎々しげに何もない壁を睨みつけるのだった。


愕然として立ち尽くした。

応援してくれていたのは見せかけで、本当は学校なんてさっさとやめて欲しいと思ってたみたい。そうとしか思えない態度だった。

どうして?輝くような笑顔が見れると思って急いで走ってきたのに。


今や私たちの間にはどうしようもなく冷たくて険悪な空気が流れていた。絶対気のせいじゃない。彼のひどい態度もこの白けた雰囲気も。


もう知らない。ヨアニスがどう思っていようと関係ない。ここまで来たら高等部まで進学して立派な『ガーレンの魔術師』になってやる。しかし口を開いて啖呵を切る前に彼はさっと笑顔をつくって謝ってきた。

「ごめん。びっくりしてさ。まさか受かるとは思わなかったから。頑張ったんだな、誇りに思うよ」さっきとは別人みたいに邪気のない優しい微笑みを浮かべて、玄関の前で突っ立っている私を抱きしめた。


暖かい腕の中で硬直した。なんて返せばいいのかわからない。さっきのあの表情が単に驚いていただけとはどうしても思えなかったから。

その二面性が喉に引っかかってなかなか取れない細い魚の骨のように私の心につき刺さった。良く知っているはずだった親友には、別の顔があるらしい。


その後は一切私を怒らすようなことは言わず、自分も嬉しくて仕方ないって態度を取り続けた。

私が友人3人と進学パーティーを開くというと、即座に「ハンター御用達の酒場を用意しておくよ、貸切でね。俺からの祝いさ。もう店主には話してあるよ」と戯けた調子で微笑んだ。


本当に彼がわからない。それとも興奮しすぎて残酷な白昼夢でも見てしまったの?

目をパチパチさせて話を聞いてみると、たまにチームを組むというマッチョのムサンドウさんに私が喜びそうで、いくら騒いでも大丈夫なところはないかと相談してくれていたのだという。


すっかり混乱してしまった。彼が何を望んでいるのかわからない。さっきの不機嫌そうな態度は私の被害妄想だったの?じゃあ本当に驚いただけ?……そうなのかも。微妙な気分のままアパートを後にした。


確かにハンターの酒場には興味あるけど、正直子供たちが進学のお祝いでパーティーをするような場所じゃない。だけどそんな心配は杞憂だった。3人は私の話を聞くと逆に盛り上がった。

ハンターなんて将来のエリート魔術師に比べれば社会の底辺で這いつくばってるごろつきにすぎない。しかしだからこその魅力もあった。普段接することのないアウトローな世界。怖いけど見てみたい、そんな好奇心が刺激されたらしかった。


早速ヨアニスに手配を頼み、当日になって一緒にその酒場に入ると、古くて汚い外見にも関わらず、思っていたよりずっと清掃が行き届いていた。店内はかなり広くて、50人ぐらいなら軽く収容できそう。


雰囲気も抜群だった。天井が低くて薄暗くて、何百年も経過していそうな古い梁が天井の真ん中を突き抜けている。洞窟のよう。なんだか居心地が良い。だけど独特な変な匂いもする。それが動物の油と古い樽と滲み出たアルコールの匂いだと気づいてちょっと感動した。まさに大人の、というかハンターの世界。


ヨアニスはいったいここにいくら払ったの?心配になってこっそり聞くと、普段の営業は早くても昼からで、今日は午前中の間だけ特別に開けてもらっているからそれほどじゃないとはにかんで答えた。

本当かしら。疑わしい顔をしていたらこれも宣伝のためなんだよと笑った。店主は昼間だけでも夜より品のいい客層を呼び込みたいと思っていたらしい。


友人たちも続々と集まってきた。ちょっと入りづらかったみたいで、しばらく店の前でソワソワしながら溜まっていたらしい。私が来るのを待っていたけど来ないので勇気を出して中の様子を伺ったら私の姿を発見してようやく入ることができたらしい。


私とヨアニス、パルマとテン、ファーシとその両親が今日のパーティーの参加者だった。


最初は恐々といった風だったけど、普段食べなれないワイルドな料理(魔物にしか見えない巨大な何かの丸焼き)が大いにうけて盛り上がった。パン屋さんのファーシパパは、カウンターの中で仕込み中の店主と熱心に話し込んでいた。


各種アルコールが用意されていたのにファーシママが私たちから遠ざけてしまったのでただの果実水に変更になってしまったのだけど、パルマだけはすまし顔で自分の分だけ白ワイン確保していた。

一応私だってこの世界でも成人の年齢に達してるはずなんだけど。


品行方正なファーシママの提案で言葉遊びのゲームをしたり、テン君がハンターのヨアニスに仕事の様子を聞いて震え上がったり、それをファーシがバカにしたりしてパーティーは楽しくすぎた。まずまずの成功と言っていいと思う。


今年の春はいつもより早くやってきた。分厚い雨雲を押し退けて太陽が頭上で輝く暖かい日々が続く。

寮母から嬉しいお達しを受けて、いそいそと引越ししに行った中等部用の寮の部屋は小等部の倍以上の広さがあった。

なんとなく家具も質が良くなってる気がする。一回り大きくなったベッドのマットには藁の代わりに布が詰められていたし、今までなかったクローゼットの棚があった。中には魔術師らしい3枚の黒ローブがかけられていた。


外套のフードから勢いよく飛び出したナッツが新しい縄張りを確認しようとすごい速さで部屋中を飛び回る。

新しい暮らし。より人間らしい暮らし。感動して部屋の真ん中で立ち尽くした。

持ってきた毛布やら着替えやらをベッドに放り投げ、着古してつぎはぎだらけになった木綿の作務衣を脱ぎ捨た。ハンガーラックに掛けられている憧れの黒ローブを取り出して袖を通す。衝撃が走った。ゴワゴワしてない。柔らかいし、あったかい。


なんだかすっかり慣れてしまっていたけれど、今まで本当にひどい扱いを受けていたんだとしみじみ思う。感動が通り過ぎるといったいなんの修行をやらされていたのかと腹が立った。


部屋を出ると、相変わらず3階の角部屋を占拠していたパルマが廊下で待っていた。

微笑んで、「おかえり」とあたたかな挨拶をしてくれた。残念ながらファーシの部屋は2階だったけど、パルマとは隣同士。こっちでも変わり者は最上階の端っこの部屋と決められているみたい。

ファーシに会いに二階へ降りて、入学当日のように3人で一階の談話室やトイレを見て回った。


ファーシは私以上に喜んで、ぴょんぴょん飛び跳ねながら不動産屋の営業のように詳しく建物内の説明してくれる。

どこもさりげなく広くて豪華になっていた。ここには小等部の寮にはなかった小さなキッチンがついている。井戸ではなく、水が流れる魔導具付きの流しがあった。

すごい。もう苦労して寒風吹き荒ぶ中外に出て水を汲む必要はないんだわ。


一番嬉しいのは、予約制だけどバスタブのあるバスルームがあることだった。もちろん予約を書き込む一週間分のボードには名前がびっしり書き込まれている。

ファーシは奮発して自分の名前が書かれている時間を私にプレゼントすると言い張ったけど、それは遠慮させてもらった。女の子にとってお湯に浸かれるかどうかは重要な問題だもの。


「小等部寮に比べたらバスタブがなくたって天国だわ。あそこは牢獄よ!」といえば、ファーシは「わかるわかる!」と連呼して抱きついてきた。だいぶ大きくなったとはいえまだまだ子供。仲のいい友達が一人減って寂しかったみたい。私もすごく寂しかった。


広い温もりのある談話室の一角に座り、あらためて二人からの祝福を受けた。

私は新しい寮母にもらった新しい授業の表を持ってきていて、早速ローテーブルの上に広げた。早く二人に相談したくてうずうずしていたから。


勉強が得意とは言えない私のために、一年先輩の二人は自身の経験に基づいてあれこれ知識を与えてくれた。どうしても受けなきゃいけない必修の他は、古代語関係と実技が多めの授業を選んだ。

これで今年の進級試験は楽勝のはず。私は心の中で勝利宣言をし、ニンマリとほくそ笑んだ。


中等部ではお昼ご飯でさえちゃんとした食べ物が用意されていた。

そんなに固くない長細いパンに芋の煮物と具が多めのミルクスープ。甘い匂い。幸せのあまりまたも涙がじわりと込み上げてきた。ファーシは量が少ないと文句を言ってるけど、学院でミルクが飲めるなんて思わなかった。

あまりのおいしさに夢中で掻き込んだ。お椀を舐めたいぐらいだったけどさすがにやめておく。すでにパルマが眉を顰めてるし。


日持ちしないミルクはどこへ行っても貴重品。特に牛のミルクなんて酪農が盛んな地域でもなければなかなか手に入らないはずだった。もちろんお金さえ出せばなんでも買えるのは世の常だけど。


そんな中、待ちに待った中等部の授業がはじまった。

楽しみすぎて昨夜はなかなか眠れずちょっと寝不足気味だけど、まぁ問題ない。


話に聞いていた通り、最初の授業はガーレンの魔術師の象徴、『ラーン』を額につける練習だった。

意気揚々と教室に入ると、今年上がってきた生徒が早速グループを作っていた。皆んな幸せそう。

だけどここでもやっぱり私の存在は悪目立ちしていた。

明らかな嫉妬なんだけど、「『神人』のくせに留年した」とか、「化けの皮を剥がしてやる」とか意地悪な目つきで私をジロジロ見ては聞こえよがしにヒソヒソ話をしてくる。そのいやらしさは年を重ねたせいか小等部よりドロドロしていて、明確な強い悪意を持って私に突き刺さった。


馬鹿な子たち。私はすまし顔で教室の端に移動した。

小等部でも中等部でも、生徒の反応はどちらかだった。拒絶かそれともなんとか仲良くなろうと迫ってくるか。私はそのどちらも相手にしないと決めていた。

よほど問題ない性格で、背後関係がなくて、何か企んでないのなら友達になるのもやぶさかではないけれど、無理は禁物だ。テンとファーシとパルマは天からの贈り物だった。希少だからこそ大切な友人なんだもの。そんな幸運は滅多に訪れない。


人のいない隅のスペースを陣取って、醜い内面を隠そうともせずに私を睨んでくる生徒たちを俯瞰して眺めた。

嫉妬と悪意に満ちた狭い環境に長くいるとどうしても性格が歪んでくる。(私のことじゃない)

生徒も教師も同じ。勝手に『神人』に過大な評価を下した挙句、一方的に落胆して私のせいだと責めるのだ。本当に馬鹿みたい。


授業開始の鐘が鳴って少ししてやってきた教師は、春の花々を散りばめたような明るいドレスローブを着たふくよかな女性だった。荷物を抱えた助手を一人引き連れていそいそと教室に入ってくる。


彼女は両手を広げると「中等部へようこそ!皆さん、進学おめでとうございます」と甲高い声を張り上げた。

ちょっと鶏みたいだと思ったけど、他の青ざめて暗い顔ばかり先生たちよりずっといい。学院にもこんな教師がいるのかと驚いた。


「さぁさぁ皆さん、楽しい授業のはじまりですよ。ラグを引きますから、輪になって座ってちょうだい」

教師は助手に指示を出し、幾つかのラグを引かせると生徒を手招きで呼び寄せた。皆が輪になって座るのを待って、自分は中央に座った。

助手が平たい箱を生徒の一人に手渡した。

「中身の石を一人一つづつとってちょうだい。その宝石は『ラーン』と呼ばれる魔導具の一種なの。『全てを見通す灯』という意味があるわ。ご存知の方も多いでしょうけど、このガーレンの象徴的な存在です。これがあるのとないのとでは魔術の精度がまるで違うという人もいるけれど」先生はふぅとため息をついた。「『杖』の代わりにはならないわ。一種の修行ね。あとは……ステータスかしら」


『ラーン』の話は友人たちから聞いている。『杖』と同じで魔術を使うための補助的な役割があるとされているけど、使うためには高度な魔力操作の精度がいるから、本末転倒というか、いまだに使用しているのはガーレンの魔術師ぐらいみたい。

ようするに古臭い伝統ってこと。だけど『ガーレンの魔術師』たちは魔術師としての格を示したくて自慢気に身につけるのだ。


皆が無色透明の小指の先ほどの小さな水晶を受けとったのを確認すると、先生は自分の額に人差し指を当てた。「ここです。脳の中でも特別な部分よ。眉の出っ張りの少し上。感じるかしら?」


うーん。もしかしてこれは『松果体』のことかも。確か頭の真ん中あたりにあるらしいけど、スピリチュアル的な解釈では第三の目とも呼ばれていた。この世界でも関係があるのかもしれない。


「優れた魔術師となるためにはここを鍛える必要があります。直感を司る場所なのよ。さぁ皆さん、集中して!己の中にゆっくりと循環している魔力をこの一点に集めるのです。そうすれば自ずと『ラーン』は応えてくれます」

先生は突然カッと目を見開いて声を張り上げた。「もちろん日々の瞑想は怠っていないわね!?」何人かの生徒は動揺して顔を見合わせていた。私もサボってた。だって勉強が忙しくてそんな余裕なかったもの。


先生を真似して、どんなに難しいだろうとドキドキしながら指の先に載せた水晶をここだと思う場所に当ててみた。眉間中央のやや上あたりの、魔力操作の授業で集中するともやもやを感じるところ。パルマの言っていたコツ、『信じる』をやってみる。


水晶はほとんど何のとっかかりもないカーブした壁を転がり落ちたりしなかった。なんてことなくぴたりと張り付いている。そっと触れてみたけど外れる様子はない。

これの何が難しいの?さっき魔導具だって言ってたし、そもそもくっつくように出来てるのでは?


クラスで一番に成功した私を発見すると、先生は太陽のように明るい笑顔を見せてとても褒めてくれた。だけど授業早々に成功してしまったせいであとは暇になった。

その間、他の生徒たちの様子を観察した。輪になって並んでいるおかげでそれぞれの顔がよく見える。悔しそうにこっそり私を睨んでいる何人かの生徒の顔を要注意人物として記憶しておく。


予定表によると、この授業はあと2回もある。もう一度先生と一緒に練習し、その後は自主練習。3回目は試験で、1ヶ月後に行われる。それもたった10秒ほど額に乗せていられればいいみたい。


授業の中には、自分の『ラーン』を四年間かけて作るという授業があった。

これも立派な『魔導具製作』。高等部ではこれを付けて残りの学院生活を過ごすことになるという。各自、街で好みの原石を購入しておくようにと言われた。


わたしは綺麗なサファイヤやルビーをさけ、安くて扱いやすい彫刻用の半貴石を求めた。淡いグリーンの不透明なやつ。ファーシは納得していなかったけれど、パルマは賢い選択だとほめてくれた。

だってこの原石を削り出して小さな一粒の『ラーン』を作り出すのだ。間違いなく硬いより柔らかい方が楽なはず。


そのほかにも魔術の基礎を学ぶクラスはたくさんあった。

『魔術理論Ⅰ』は思ったよりつまらなそうだったけど、『近代魔学』はより具体的で気に入った。


パルマとファーシが絶対取るべきだと言っていた『白魔術入門』はまさにあたり。最初の1ヶ月は自分で拵えた小さな袋に乾燥ハーブを詰めてお守りを作るのだそう。

教師は背の高い白髪を引っ詰めたおばあさんでみるからに厳しそうだったけど、低い声には独特の魅力があった。

教室に入ってくるなり唐突に授業がはじまって、先生はよく通る声で喋りながら教壇まですたすた歩いた。


「最も古い実用的な魔術には、今日の小難しい理論など必要ありませんでした。『力』はどこにでもあるありふれた形をとってこの世に存在し、どんなものにでも宿っているものです。その『力』を引き出し思うままに使いたいと願うなら、余計なことは考えずに結果だけを思い描きなさい」


壇上に上がるとくるりと振り向き、唖然としている生徒たちを見回した。

「このクラスでは、すべての魔術の始まりであり普遍の技術である『白魔術』の基礎を教えます。ある個人的な問題が起きてその解決策が思い浮かばず途方にくれた時、そんな時にはこの授業を思い出しなさい。そう、わたくしが教えるのは『悪夢の遠ざけ方』や『金運を呼び込むお守りの作り方』、あるいは『危険な恋の情熱を覚ます方法』です」


女の子のグループがくすくす笑った。先生は優しく一瞥するとこれから使うことになる道具の説明をはじめた。

蝋燭や香炉やすり鉢に裁縫セット。あまりにありふれた生活用品の数々。これならそれほど難しくなさそう。

先生は「蝋燭には蜜蝋を推奨します」と忠告した。一般家庭で普段使われる動物の油で作った安い蝋燭は粗悪品で煙がすごいし何よりくさい。


逆に、これから魔術を使用する際に頻繁に使うことになるという図形の書き方を習う授業には心底うんざりさせられた。

魔術師はあらゆる図形を正確に手書きで書けるようにならないといけないらしい。授業ではひたすら砂文字板の丸や三角をなぞらされて退屈のあまり意識を失いそうになった。


それらの授業がはじまって最初の1ヶ月をすぎた頃、生徒たちも中等部の生活に慣れてきた。その様子を見計らったかのように例の『儀式』を執り行うという知らせが舞い込んだ。


『儀式』はすべての授業が終わった夕方に行われる。私たち中等部の学生は学院の雑木林の一角にひっそりと佇む、苔むした小さな祠に集められた。

鬱蒼としげる薄暗い木々の中をランタンを持った教師長に先導されて、ピカピカの黒ローブを着た私たちは獣道のような細い道を恐々ついていった。


祠の入り口はかなり古いようで、半分崩れている。中には下へと続く短い階段があって、どうやら半地下になっているらしい。四角い入り口の向こうは真っ暗闇で、たくさんの蝋燭が揺らいでいるのが見えた。

教師長は怖気付く私たちに睨みを効かせて、ほとんど無理やりに潜らせていった。


部屋は円形で屋根はドーム状になっていた。外観よりずっと広くて、大勢の教師たちが静かに壁際で佇んでいる。

オレンジの火が灯る蝋燭で丸く囲まれている中央には、複雑な紋様の魔術陣が青白い光となってゆらめいていて、並んだ私たちの顔を静かに照らし出した。


奥の祭壇の中央には水を張った大きな金の水盤があり、古代の生贄の儀式のような不気味な雰囲気を漂わせている。それでいて幻想的で、厳粛な空間。生徒たちの誰もが圧倒されていた。


教師と魔術陣の間に輪になって並ばされると、儀式的な魔導士のローブを身に纏った学院長が中央に進み出た。

フードを深く被って顔を隠した魔術師が一人滑るように近づき、教師長の斜め後ろに立って持っていた古い装飾のついた木箱を恭しく捧げ持った。


教師長は顎をあげて宣言した。「これより『承認の儀』をはじめる」そして誰かの名前を呼んだ。

呼ばれた男子生徒は飛び上がって驚き、オドオドと両隣の生徒や後ろの教師の顔を見て助けを求めたけど、すぐさま背後に回った教師長に肩を掴まれて魔術陣の中央に引きずり出された。

かわいそうに、ブルブル震えて、殺されるために用意された生贄の子羊にしか見えない。他の生徒全員がはじめの一人じゃなかったことに心から安堵した。


教師長はその生徒に何か囁いて肩をぐっと押しつけた。生徒が倒れるようにその場に跪くと学院長は深く頷き、かなり古い時代の古代語で「汝、ガーレンの一員となるを望む者か?」と囁いた。

男子生徒は戸惑いながらも学院長の目を見て頷く。その為に今日まで必死で努力してきたんだもの。当たり前よね。

学院長は少年の意思を受け取ると、真剣そのものの表情で「今より汝はガーレンのもの。魂を捧げよ。我らは共にある」と続けた。


私は眉を顰めた。これから一生縛り付けるつもりみたいじゃない?心のどこかで呆る自分がいたけれど、その声はほとんど聞こえないぐらい小さかった。皮肉げな私には遠慮してもらって、今回ばかりはガーレンの魔術師だけの密やかな神秘の儀式を堪能していたかった。


木箱に手を伸ばした学院長は、蝋燭の明かりにきらめく小さな宝石を跪く学生の額に押し当てた。まるで学院の叡智を分け与えられているみたい。

緊張の瞬間。生徒たちが固唾を飲んで見守る中、真っ青な顔をした生徒は教師長に腕を掴まれてそろそろと立ち上がった。落ちないようにできるだけ天井を見上げながらゆっくりと歩いて元の位置まで戻る。

生徒の何人かが止めていた息をそっと吐いた。拍手するような雰囲気じゃないけど、誰もが心の中で「よくやった」と褒め称えていたと思う。


十数人の名前が呼ばれ、そのうち4人が失敗してしまった。結構な確率。

無様に転げ落ちるたびに何度も水晶を額に押し付けられる子もいれば、落ちた水晶を拾う隙もなく教師長に引っ張られて列に戻らされる子もいる。その背中はひどく哀れに見えた。


ついに私の名前が呼ばれた。青白く輝く魔術陣の中に進み出て膝をつく。

「汝、ガーレンの一員となるを望む者か?」同じセリフだけど直接自分に語りかけられると全く違う問いに感じた。

一瞬考えてしまう。本当は『ガーレンの一員』なんかになりたいわけじゃない。ただ魔術師になりたいだけ。それでも頷かなければならない運命なのだと感じた。私は小さく「はい」と答えた。


頭上から響く厳かな声。「今より汝はガーレンのもの。魂を捧げよ。我らは共にある」

私は俯いて額を差し出した。一瞬のヒヤリとした感触。心の中に見えない楔を打ち付けられたような感覚があった。

間違いない。これって呪いの一種だわ。他の子たちは気づいたかしら。この厳かな儀式の暗い側面に。


水晶は私の皮膚に吸い付いて離れようとしなかった。私は立ち上がって踵を返し、しっかり前を向いて一人分のスペースが空いている場所に体を滑り込ませた。その間何人かの教師がきつい視線を向けくるのを感じていた。彼らにとってもすでに私はライバルなんだわ。


終わってみると1時間にみたない短い儀式だった。

窮屈な祠から出て背伸びした。感動しすぎて泣いている子もちらほらいる。この子らはたぶん何をされたのかも気づいてないわね。

それでもこの儀式を終えてみると、長く苦しい暗いトンネルのような小等部がようやく終わったのだと実感した。

七年もかかった。間違いなくこの『ユリ』の人生で一番辛い7年のはずだ。


今日もらった『ラーン』は、一応体を清める時と寝てる時以外ずっとつけてなきゃいけない決まりになっているらしい。

中等部でそれができる生徒はわずかだけど、努力はしないといけないみたいだった。私だって授業中もつけっぱなしでいられるかどうかなんてちょっとわからない。

水晶は気を抜くとすぐに取れてしまうからどうしても無くしがちなんだけど、寮母に言えばすぐに代えをもらえるらしい。これも一種の修行なのかなと思う。


その後の授業では全体的に魔力操作の精緻さが重要になっていった。

教師の講義を丸暗記させられる授業は相変わらず苦手だったけれど、魔力を使う授業は楽しかった。水を得た魚のように成績が伸びた。


まだ実際に『魔術』っぽいやつは使わせてもらえてないけど、魔力を単純な魔術式の形に変える練習ははじまっている。

複雑な編み物の構想を頭の中で練るのに少し似ていて、一つづつ慎重に形作っていくのだ。


私を含めほとんどの生徒は長い間魔力操作の授業を続けてきたおかげで、本来目に見えないはずの魔力を視覚ではない別の感覚機関で捉えることができるようになっていた。

さらに可視化できれば近くの魔術師が何をしようとしているのかわかるので便利なんだそうだけど、それができるかどうかは本人の才能と鍛錬にかかっているという。


『古代人』の私はすでに薄ぼんやりとした何かは見えているのでこの授業は問題ない。それに魔力だけならもう手足のように自在に扱える。これには教師たちも面食らったみたい。

ここにきて小等部時代に散々私を辱めた『偽物説』が覆されようとしていた。


得意ではあるけど次第にその手の授業が退屈に思えてきたころ、小等部から細々と続いている瞑想の授業に、2年目以降で習う『初級魔術』の先生がクラスに来ていた。薄い笑みを絶えず顔に張り付けているちょっと奇妙な印象を受ける先生だった。


教師はなんだろうと騒ぐ生徒たちを鎮めて皆を見回して言った。

「今日はごく簡単な『魔術』を実際に使ってみよう思います。この魔術実験ではごく初級の魔術紋を扱いますが、魔術であることには変わりありません。慎重に行うこと。いいですね」


これにはクラスの全員が歓声を上げた。

それはファーシやパルマから聞いていた通り、水を入れた水盤の中に微かな波を起こして波紋を作り出すというものだった。


前に進み出た『初級魔術』の先生が目の前に作り出して見せた見本の魔術紋は、本当に単純な図形で、私にとってはそれほど難しくなく、周りの生徒たちが大騒ぎしながらずぶ濡れになったり水盤をひっくり返してしまったりしているのをしばらく眺めてから、教師が停止させている魔術紋そっくりに魔力を編んでみた。


ただそれだけ。だけど同時に『初級魔術』の先生がさっとこちらを向いて私を睨みつけた(うすっぺらい笑顔はすっかり消えていた)。先生に気を取られた次の瞬間、強烈な風が巻き起こり、生徒全員の水盤を吹き飛ばしてしまっていた。クラス中が悲鳴をあげ、恐怖の視線を私に向けた。


そもそも『無詠唱魔術』の高度な魔術紋なんて中等部に上がったばかりの生徒が扱えるはずもなく、うまくできないことが前提の、『無詠唱』がいかに難しいものかを学ぶという趣旨の授業のはずだった。


先生は濡れた床にさっと視線を走らせ、魔術を使って素早く水を蒸発させてから、「未熟な魔術師がいかに危険な存在であるか」をとくとくと語った。

「ならやらせないでよ」と心の中で文句を言ったけれど、それでもこれが初めて体験した魔術らしい魔術だった。

こんな簡単にできるなんて。感動するよりびっくりした。

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