第34話 雛の羽ばたき2

水盤事件を起こしてからというもの、ますます嫌われるようになった私だけど、そんな日々を送るうちに新しい友達ができた。

中等部でも続くうんざりする授業、『薬草学』のクラスで隣同士になった女の子と仲良くなったのだ。


私と同じであんまり人と一緒にいるのをみたことのない大人しい子だった。

勉強は出来るけど魔力操作が不得意というムイという女の子。見た目の年齢は私より少しお姉さんの16歳ぐらい。幼く見えるけど、もしかしたらもう少し上かもしれない。いつも暗めの茶色の髪をおさげにして背中に垂らしている。


昼食を食べた後に行われる『薬草学』の講義中のことだった。

窓際の席にいたせいで穏やかな日差しが心地よくてついうたた寝してしまったら、突然教師に名前を呼ばれた。ギョッとして顔を上げた瞬間、隣に座っていた生徒が突然立ち上がり代わりに質問に答えたのだ。まるで自分が呼ばれたものと勘違いしたかのように。

先生はムッとしていたし、クラス中がくすくす笑っていた。彼女は顔を真っ赤にして俯き、蚊の鳴くような声で「すみません」と謝っておずおずと座り直した。


びっくりしてまじまじとその子の横顔を眺めていたら、彼女は伏目がちな目を二、三度瞬かせてはにかんだ。澄んだ瞳だった。なんとなくヨアニスに似ている。思いやりと勇気を兼ね備えているところも。


授業が終わると自己紹介をしあった。名前はムイ。偶然次も同じクラスだとわかって一緒に移動した。

控えめな性格で気遣いができるムイとはなんとなくうまくいくような気がする。だけどどんなに誘ってもファーシたちと混じって食事を一緒に摂ることはなかった。人見知りがあるのかもしれない。


それでも私と二人の時は人懐こくよく笑ってくれた。数日後には互いに寮の部屋を行き来するようになっていて、ムイは2階の自分の部屋に私を招き入れると『秘密』を打ち明けてくれた。「嫌なら友達にならなくていいから」、と。


ムイの曽祖父はこの街に何百年も住んでいる街の長老の一人だそうだ。

「お嬢様なのね」と驚くと、少し言いにくそうに「ハーフヴァンバイアなの」と悲しげに目を伏せた。「私はヒューマンだけど、血縁の中で彼だけがそうだった」


彼らがヒューマンから生まれてくるって本当なんだ。

ムイの家族は元々正教会の総本山である聖教国の領土内の街で暮らしていたけれど、親戚に魔族がいることがばれて差別を受けたという。


仕方なくガーレンの権力者である曽祖父を頼ってこっちに引っ越してきた。

過酷な旅の間に両親は財産のほとんどを使い果たしてしまったけれど、曽祖父は金銭的な援助もしてくれるそうで、おかげで今は何の不自由もなく暮らしていけているらしい。


本当はかなり遠い親戚で『曽祖父』というのも便宜上のものらしいけど、それでも構わず家族として扱ってくれる懐の深い方なのだと少し悲しげに微笑んだ。

すぐに「私は気にしてないわ」と明るく言ってヨアニスの話をした。意外な共通点に、ムイは驚いて目を丸くした。


それからベッドに並んで腰掛けて、ムイのお母さんの手作りのキルトの上で大事な家族とも言える二人のハーフヴァンパイアの話をした。その時にはもう昔からの親友みたいに仲良くなっていた。


ちょっとアンニュイな性格で日頃からなんとなく気だるそうにしているのもハーフヴァンパイアという種族の共通した性格らしかった。何だかおかしい。

血を飲めた時はすごく元気になるんだとムイは笑う。ちょっとドキリとした。ムイはその曽祖父が人に噛みついているところを見たの?それとも自分の首を差し出した?

とても聞けなかった。


共通点のある新しい友達の存在もあり、中等部に上がってからというもの、精神的にも肉体的にも充実し、かなりの余裕が出来ていた。

他の子たちがへとへとになるまで魔力操作の練習に明け暮れている間に、情報を詰め込むだけのつまらない必修科目をいくつかクリアしてしまえばいい。おかげで大抵の週末を自由に過ごすことができるようになっていた。


ヨアニスとも頻繁に会えるようになって、週末をアパートや街の中で過ごす日も増えた。

雨がしとしとと降り続けるある日、街で買ってきた惣菜をアパートで一緒に食べていた時に何気なく新しい友達のムイの話題になった。


和やかな楽しい時間は一変した。ムイの『曽祖父』が『ハーフバンパイア』である事を教えた途端、ヨアニスの表情が凍りつき、険しい目つきで私を睨み据えて「そいつに近付くな!」と怒鳴ったのだ。


あまりにも意外な反応だった。こんなヨアニスは見たことなかった。困惑して目をしばたたかせる。

「……どうして?」

理解できない。自分自身が謂れのない差別を受けて辛い思いをしてきたはずなのに、会った事もない人やその家族を警戒するなんて。


ヨアニスはむっつりと顔を顰め、子供に言い聞かせるようにゆっくり話だした。

「考えてもみろよ。その曽祖父とやらのせいで家族が不幸になったってのに、なんでその子はそいつに懐いてるんだ?変だろ?ハーフヴァンパイアってのはそういう種族なんだよ。間違いない。脅すか精神支配するかして家族ごと操ってるんだ」

「だって……あなたは危険じゃないじゃない!」

「なぁ、ユリ、頼むよ。そいつが『神人』の血に興味を示さないわけがないんだ。その子を使ってお前に接触してきてるんだよ。手に入れるつもりだ。なぁ、お願いだから慎重になってくれ。俺は簡単に学院に入れないんだぞ。守ってやれないんだ」


まるで自分自身を卑下しているみたい。懇願したり憎々しげに歯を食いしばったりするヨアニスの姿を見ていられなくて、誤魔化すようにおどけて肩をすくめた。

「私には精神支配は効かないのよ。忘れたの?もうすでにあなたで証明済みじゃない。大丈夫だから、一度会ってみたら?すごく長生きしてるんだって。その人はこの街のヒューマンに認められて、溶け込んで生きてる。今後の参考になるかもしれない」


しかしヨアニスは頑なだった。首を振って「耐性が強いのは知ってる。だが絶対じゃない。貝の幻覚にだってかかったじゃないか。過信するな。そいつが長生きしてるならそれだけ術にも長けてるってことだ。くそっ。なんてこった。長老だと?」


にべもなかった。心配するのもわかるけど、滅多に会えない同じ種族の人生の先輩なんだから相談してみたい事だってあるんじゃないの?

「ねぇ、もし私が原因で会わないって言ってるなら……」

気を利かせたつもりだったけど、ヨアニスは眉を吊り上げてさらに怒った。

「会いたいわけないだろ!俺たちの種族はな、互いの縄張りには近づかないもんなんだ。本能でわかる。そいつが俺の存在を知ったなら今頃どうやって料理してやろうかと考えてるはずだ」

「そんなまさか。心配しすぎよ!この街の長老の一人なのよ。本能どうとかより理性をとるはず。それに私は学院長派に入ってるの。ムイとは別の派閥よ。だからね、ヘライケルって言ったかな、そのハーフヴァンパイアの長老は学院長の庇護を受けている私には手が出せないし、学院公認のハンターを勝手したりはできないの」

「派閥だかなんだか知らないが、その程度でお前を諦めるわけないだろ」

「もうっ。いいこと、学院長はまだ小等部の学生にすぎなかった私を自分の懐に招いたのよ。異例中の異例!そのことは街中のお偉いさんが知ってる。それをヘライケルが横からかっさらいでもしたら、学院長は面目丸潰れよ。権力は失墜するでしょうね。本当に私が狙われてるとしたらだけど、すでに戦争ははじまってるのよ。後は大人たちに任せておけばいいの。わかった?むしろ学院はこの街のどこより安全な場所だわ」


自信満々に反論したつもりだったけど、ヨアニスはあんまり納得してないみたい。深くため息をつくと今度はなんだか悲しそうに私を見つめてきた。

「なんだろうと、そいつは絶対に諦めないだろうな。ユリが生きてる限り追い続けるはずだ」また一つ深いため息をつく。「ユリはちゃんと自分の魅力について知っておくべきだよ。『神人の血』だけじゃない。男がどんな目でお前を見ているか知ってるのか?」

私はぽかんとして彼を見つめた。そして吹き出してしまった。突然何を言い出すんだか。

「よしてよ!父親じゃあるまいし。あのね、私、前世の大人だった時の記憶があるのよ。見た目通りの小娘じゃないの」

それでも彼は思いっきり眉根を寄せて食い下がった。「バカだな、その目だよ。魔力がこもってる。その目に見つめられると……虜になる。誰だって言いなりになっちまうんだ」

「やめてったら、まったく。言いなりになってくれる男性になんてお目にかかったことないわよ。一度ぐらいそんな体験をしてみたいけど。学院じゃ私、一番の嫌われ者なの知らなかった?」


恥ずかしくてそっと目を逸らした。ヨアニスがそんなふうに思ってるだなんて知らなかった。なじみようのない二人の人間が無理やり合わさったような、濃い茶色の瞳に鮮やかなグリーンがちらつくこの目を初めてみた時は不気味だと感じたけど、彼が気に入っているならこれだってそう悪くないのかも。

「そういえばどっかの授業で魔術師の目には魔力がこもってるって言ってたわね。それじゃないの。あなただって強い魔力を持ってるでしょ。黒い瞳が素敵だわ。キラキラして。晴れた日の夜空みたいだって私いつも……」


ふと気配を感じて顔を上げると、テーブルを挟んで向かい合わせに座っていたはずのヨアニスが隣に立っていた。そして次の瞬間には窓枠に座る彼に抱きすくめられていた。

額に感じるほの温かいシャツの感触。前髪がパサりと額に落ちた。彼の腕の中にいて、彼の膝に座っている。窓から冷たい小雨が吹き込んできて、彼の腕と私の横顔を湿らせた。


かろうじて息を吸い込むことに成功し、「何すんのよ!」と叫んだ。突然の出来事に完全にパニックになっていた。このまま窓から落ちるかも。だけど彼は冷静で、暴れる私を強く抱きしめたまま前屈みに覗き込んで、完璧な微笑みを浮かべてみせた。

「ほら、その目だよ。普段は暗い色合いだけど、感情が昂ると緑が強くなるんだ。ついじっと見てしまう。まるで内側から輝いてるみたいに見える」

強引な行動とは裏腹に、少年のように恥ずかしげにはにかんだ。この笑みには弱い。「だからさ、ユリは宝石のようだってずっと思ってた」


急激に顔が火照り出した。これ以上ないってぐらい熱い。絶対耳まで赤くなってる。恥ずかしくて死にそうだった。

「石に例えるなんて、堅くて冷たいって事?」なんとか冗談めかしてかわそうとしたのに弱々しい掠れた声が出てきただけだった。喉がカラカラだった。

「そんな事ないよ、ユリはかわいい。そうやってすましてる時もさ。金持ちが飼ってる猫みたいだ。だから誰に誘われてもついて行くなよ。ハーフヴァパイアなんてもっての外だからな。それだけは絶対だめだ」


もういい加減にしてほしい。もう一度強く腕を突っ張ると今度は腕の力を緩めてくれた。慌てて立ち上がって、よろめきながら彼から離れた。

「自分だってハーフヴァパイアなのに、変だわ」俯いて呟く。今度もほとんど声になってなかった。


ヨアニスはいたずらに成功した子供のように満足げに微笑むと勝ち誇って胸を張った。「気をつけるって約束してくれたら、今度森に連れてくよ」と宣言する。

「森?街の外の?」つい顔を上げてしまったらヨアニスのとろけるビターチョコみたいな熱っぽい瞳に遭遇してしまった。慌てて目をそらす。そうやって見つめるのやめてほしい。

「ああ。中等部の学生も特別な許可があれば出られるはずだ」

「どんな許可よ?」

「例えば、学院公認のハンターからのごく簡単なアルバイトを引き受けるとか」

私は疑わしげに眉を顰めた。「それってありなの?」

「たぶんね。募集することもあるよ。俺はやらないけど、教授の依頼で木の実かなんかを目一杯集めてこいなんてつまらない仕事を押し付けられたりするとさ、面倒だろ。2、3人連れて行ってやらせるのさ。生徒の小遣い稼ぎは大目に見られてる。ユリは苦学生じゃないから知らなかったかもしれないけど」

「私だって苦学生よ。一回だけアルバイトもしたことあるし。……外に出られるなんて、夢みたい。本当かしら」

「待って」ヨアニスはさっと飛び降りると長い足で壁際まで歩いて行って、洒落た金具のついた箪笥の引き出しを開けた。「ほら、これだよ」中から丸めた茶色っぽい紙を取り出して私に放る。取り落としそうになったけどなんとかキャッチできた。

「依頼書だよ。学院の事務所に出せば許可してくれるはずだ」


にわかには信じられない。だけどほんの少しでも森へ行ける可能性があるなら、ちょっとぐらい事務室の意地悪な職員に嫌味を言われたりむべもない態度で追い払われたりしたってかまわない。

私は嬉しくなって、玄関のポールハンガーにかけてあった外套を羽織ると依頼書を雨に濡れずに済む内ポケットに丁寧にしまい込んだ。


翌日の昼休みに半信半疑でヨアニスに持たされた比較的安い紙、薄い木の皮でできた依頼書(内容はひとかご分のベリー摘みだった)を事務室まで持っていくと、近くのデスクに座っていた年寄りの職員が億劫そうに立ち上がってカウンターまで歩いてきて、碌に内容を確かめもせずにハンコをドンと押し、無言で依頼書を突き返してきた。


どうしてここの人って最高に愛想がいいか、逆に最悪に悪いかのどっちかなんだろう。若い頃頃勉強しすぎてどうかしちゃったのかも。

学生の中には卒業後もどうにかして学院に残ろうと必死になる子がいるけど、ちょっと理解できそうにない。


その週の夜はずっと苔むした深い森の神秘に思いを巡らしていたせいでなかなか寝付けなかった。食堂にいるときも授業の合間も囃し立てられるのが嫌で誰にも話さずその日を待った。


今日は珍しく晴れてる。綿飴みたいな雲がまばらにあるだけで、気持ちのいい水色の空には小さな黄色い太陽が淡く輝いている。

待ちきれず朝食を抜いて朝早くにロータリーの馬車留めまでいくと、約束まではかなりの時間があるはずなのにすでにヨアニスが待っていた。

一頭の頑丈そうな栗毛の馬の背に手を置いて何やら話しかけている。機嫌良さそう。馬の背には二人乗り用の鞍がついてる。

私を見つけると空に浮かんでる朝日のように優しい笑顔で迎えてくれた。


馬は大きすぎてステップを使っても一人で乗れなかった。結局恥ずかしい思いをしながらヨアニスに持ち上げられてなんとか前側に乗ることがでた。そして(私とは違って)颯爽とまたがった彼の逞しい腕に包み込まれるようにして、馬は軽やかに走り出した。


校門の小屋の窓の向こうで眠そうに椅子の背にもたれかかっている警備のおじさんが、馬に乗った私たちを見て目を剥いた。

カバンからハンコが押してある依頼書を取り出して渡すと、おじさんはニヤニヤ笑って「はいどうぞ」と返してよこした。

またも顔が熱くなる。別にデートじゃない。遊びに行くだけよ。


早朝の大通り付近は朝市のせいでかなり混んでいたけど、通りに出てしまえばすいていた。そのまま大門の兵士に依頼書と学生証とヨアニスのハンター証を見せて通り抜ける。

本当に出られた。私は振り返ってもう何年も前に見た巨大な黒い正門を見上げた。信じられない思いだった。


てっぺんに街を載せた岩山をぐるぐる回り降りていく。外の世界には自由が広がっていた。

途中で農家の人とすれ違った。牛に野菜を載せた荷車を引かせて市場に向かっているところみたい。ものすごくスローペースでのそのそ歩く牛の後ろで老人がのんびりパイプをふかしている。

すごく開放的な気分になって、意味もなく笑い出してしまった。


森の街道に入るとヨアニスは慣れた様子で馬を森の方に向かわせた。木がまばらに生える歩きやすい場所だった。

目立たないけれど、よく見ると獣道よりは少しだけ広い道がずっと奥まで続いているようだ。


しばらくそうして濃厚な森の香りを楽しみながら馬の背に揺られていた。やがて視界が晴れて、明るい木漏れ日がさす小さな池が現れた。緑色の水面には葉っぱがたくさん浮かんでいる。


「ほら、ここだよ」ヨアニスはちょっと心配そうに私を覗き見た。「降りるぞ」彼に手を貸してもらいながら馬を降りる。ヨアニスは馬の背にくくりつけたブランケットを池の近くに広げると私を座らせた。


毎週のように会っておしゃべりをしているのに今日に限ってなんだか気恥ずかしい。私たちはしばらく一言も話さずに池を眺めて過ごした。私の熱い視線に気づいたカエルが危機を感じて池に飛び込んだ。

背後の馬が暇そうにブルブル鳴く。振り返ると地面に生えた草をむしって食んでいた。すごく平和。ここには底意地の悪い同級生も変に厳しい教師もいない。


「そうだ。サンドイッチ作ってきたの。卵を潰したやつ、好き?」

彼は疑わしげな顔で肩をすくめた。私の料理の腕前を疑っているらしい。カバンから包みを取り出して広げ、そのうちの一切れを彼に押し付けた。


基本食材を生で使うことはないけど、玉ねぎならいいだろうと刻んで、網で濾したゆで卵と混ぜあわせてパンで挟んだだけのやつ。これだって結構いける。

サンドイッチを持ったまま、かぶりつく私の様子をいつまでも眺めているヨアニスをジロリと睨んだ。「何よ。勇気を出しなさいよ」

「これ何?」心配そうに匂いを嗅ぐ。すごく失礼。昨日食堂のおばさんに分けてもらった食材だからそんなに悪くなってないはずだけど。

「卵だってば。いいから食べてみて。美味しいから!」

「わかったよ……」すごく心配そうにパンに挟まった黄色い部分を見つめてから恐る恐る口に運ぶ。「うん、まぁ、食感が変わってるけど……うまいよ」笑顔は見せてくれたけど、お世辞なのか本当にそう思ってるのかいまいちわからない。たぶん前者かな。一気に食べて素早く包みを隠したから。そうすればもう出てこないだろうとでもいうように。


その後はちょっとおしゃべりして依頼書の通りベリーを摘みに行き、太陽が真上に登るまであっちこっちの茂みから色んな種類のベリーを探し回る作業に熱中した。赤に青に黄色。つぶつぶしたやつや丸いやつ。大抵は木苺だったけど、中には正体不明の実も混じってる。


途中低木の茂みから出てきた小さな蛇と出くわしてお互い驚いた。尻餅をついた私の横を必死な様子で蛇が逃げていく。

ヨアニスはお腹を抱えて馬鹿笑いして、私を笑い者にした。


大好物の果物がかごいっぱいに溜まったのを見て、遅れて私のポケットから這い出てきたナッツは狂ったように猛然とベリーの山に突っ込み、二つ盗んで森の中に飛び込んでいった。

「あれ大丈夫なの?」

ヨアニスは肩をすくめて言った。「ここは安全だよ。猪1匹いやしない」


池に戻って休みながらナッツが戻ってくるのを待つ。

学院で再び目撃された『キンイロズトウヘビ』の話がはずみ、捕まえたら必ずヨアニスに見せると約束した。情報源は同じ教室の男の子たちだから信憑性には欠けるけど。


そんなたわいもない話をしながら過ごす穏やかなひと時。木立がサラサラと音を立てて風に揺れている。

いつの間にか眠ってしまったらしい。顔に何かいる。追い払おうと手で払ったらナッツだった。一周して舞い戻ってきて、私の頬の匂いを嗅ぎ、ちょっと舐めた。

そこで気がついた。ヨアニスに膝枕されてる。私は慌てて飛び起きて口を拭った。どうか彼の膝に涎を垂らしてませんように。


ヨアニスはおかしそうに「ぐっすり寝てたな」とくつくつ笑った。

「ごめん」

「いいよ。疲れてるんだろ」隣をポンポンと叩く。「こっちきて」

座りなおすと、ヨアニスはズボンのポケットから小さな包みを取り出して私に差し出した。

「なぁに?開けていい?」

彼はそっぽを向いて「ああ」とそっけなく頷く。こんな時は大抵ものすごく照れてる時よね。


植物紙で綺麗に包装された包みは高級な匂いがした。いつものお菓子じゃなさそう。淡い期待と共に鼓動が高鳴るのを感じた。


包みを丁寧に開くと、磨き抜かれてツルツルした正方形の木の箱が出てきた。チラリと彼を見上げるとまだ横を向いたままだった。どんなに照れても耳が真っ赤になっちゃうなんてことにはならないらしいヨアニスが心底羨ましい。蓋を開けてみた。


「あ」

木漏れ日を透かして微かに輝く鮮やかな緑色の石のピアス。

先週の会話を思い出してたちまち頬が熱くなった。ヨアニスはまだ目を合わせてくれない。ここから逃げたそうにそわそわと馬の方を見ていた。


「……ありがとう」

他に何を言えばいい?これって恋人への贈り物みたいじゃない?無責任に浮き立つ心を叱咤した。

間違いない。ヨアニスは私のこと好きなんだわ。完全に異性としてみてる。

「私たち友達よね」って言ってこれをつき返すべき?そんなことできない。身動きできずに小さな箱の中を見つめ続けていたら、ついに耐えきれなくなったヨアニスがおもむろに立ち上がって、「そろそろ帰ろう」と不自然な早口で言った。


帰り道はあっという間だった。布で包んだベリーでいっぱいのかごを抱えて複雑な気持ちのまま馬に揺られ、悶々と悩んでいるうちにほとんど会話を交わすことなく学院についてしまった。


寮へと続く分岐点の広場まで送られて馬を降りると、彼は私の髪に指を絡ませ、そっとかがみ込んで額にキスをした。あまりに素早くて抵抗する隙なんてなかった。近くの誰かが悲鳴をあげた。ヨアニスはそのまま謎めいた微笑みを浮かべると何も言わずにさっと馬に跨って駆けて行ってしまった。


呆然と小さくなっていく馬のお尻をながめる。どうしよう。どうしたらいい?結局贈り物を受け取ってしまった。

百合子はこんな時どうしたろう。ぜんぜん思い出せない。そもそもそんな青春彼女にはなかった気もする。子供の頃から強気だった彼女は、どんな男の子も思いのままに操って、決して不用意に近づかせなかった。


私の中には3人の人物がいる。今の『私』と、過去の亡霊である『百合子』。そしてもう一人。最後の謎の人物はともかく、『百合子』はヨアニスを警戒している。何を考えているのかさっぱりわからない彼をみていると、どうしたってあの裏切り者の元夫を思い出さずにはいられないのだ。


彼を受け入れてしまったら未来は暗い。性格の不一致はどうしようもない。節目がちに微笑むミステリアスな彼は魅力的だけど、今はよくたっていずれ必ず悲惨な終わりがやってくる。わかりきったことだ。

なのに未熟な『ユリ』は馬鹿みたいにのぼせ上ってしまっていた。いったいどうしたらいいの?


「きゃー!!見ちゃったぁ!!」

ハッとして振り返った。ファーシだった。分厚い図鑑らしき本を抱えて悶えている。よりによってファーシ。私は赤と青が混じり合う夕暮れの空を仰いだ。経験上、こんな時は無駄な抵抗はしないで流されたほうが被害は少なく済む。


「あのね、ちょっと相談があるの」

私の『相談』に飛び上がって喜ぶファーシをなんとかなだめてまだ図書館にいるというパルマを迎えに行き、中等部の食堂に早めの夕食をとりに行った。


極限まで小さく切ったサイコロ状の鶏肉入りシチューを啜りながら、なるべく簡潔に話をまとめてヨアニスと二人で森へ出かけたことを白状し、現在陥っている目下の問題(甘酸っぱい恋の行方の方ではなく)、ピアスをもらったものの耳に穴が空いていない方の問題を相談した。その間ずっとファーシはくすくす笑いっぱなしだった。


しかし相当年上のはずのパルマでさえ耳に穴を開けた経験はなく、ピアッサーなんてなさそうなこの世界でどうやって開けるのかわからずじまいだった。

学院にはピアスをつけている人がたくさんいる。装飾品の形をとった魔導具は数多い。だからなるべく安全で痛くない方法があるはずなのだった。


とりあえず寮に戻って一番広いパルマの部屋に集まることになった。各自、耳に穴なんて空いてないはずなのに何故か持っているピアスを持ち寄って。


私は、椅子とベッドに座ってそれぞれ好奇心に輝く瞳を向けてくる二人の前に、木の蔓で編まれたかごを置いた。

これは二人へのお土産。中にはありとあらゆる種類のベリーが詰まっている。


すぐさまファーシが歓声をあげた。だけどパルマはぐいっと片眉をあげるとさっと立ち上がって机の上にベリーを広げ、慣れた手つきで選別をはじめた。

森のエルフである彼女には食べられるベリーとそうでないのとの違いが明確にわかるらしい。


口にして問題ないベリーは半分ぐらいだったみたい。ふと何かを思いついたファーシがさっと立ち上がって、洗ってくると言ってカゴを抱えて部屋を出ていった。少しして戻ってきた彼女は、後ろに助っ人を連れていた。


たまに見かける同じ寮のおしゃれな子。癖の強い短い髪にカチューシャのようにスカーフ巻きつけている。その両耳には合計5つのピアスが光っていた。この学院では生徒がアクセサリーを身につけることを固く禁じているはずなんだけど。


その生徒はニンマリ笑って、背中に隠していた長細い陶器の瓶をさっと前に差し出した。果物らしき絵が描いてある。これって果実酒だわ。

私とパルマが驚いていると、彼女は寮中に響き渡る大声で叫んだ。

「女の子たち、集まって!!今夜はパーティーよ!!ピアスの穴開けパーティー!!」


この騒ぎを聞きつけた寮の女の子たちが大騒ぎしながらパルマの部屋に押し寄せてきた。

寮母に知られたらかなり怒られそうだけど、女子寮の慣習として、寮母に甘いお菓子の賄賂を渡すことで女の子だけの会合ならある程度は許される。


経験豊富な女の子たちによると、耳に穴を開けるにはスカーフを留めるピンの先を火で炙ってから、思い切って刺すのだという。かなり原始的な方法だった。当然痛いし、怖い。ならどうするかといえば、酔っ払ってわからなくしてしまうのだ。


ファーシがこっそり男の子たちの寮へ行って足りないお酒を調達してきた。おかげで全員のカップになみなみとお酒が注がれる。

ほとんどは知り合いとも言えないような女の子たち。普段は嫌な顔で私をコソコソ見てくるような子たちも、今夜だけは古くからの友人のようだった。大抵は18歳から20代前半ぐらいの子で、初めて耳に穴を開けるという子も多かった。


ちなみに15歳ぐらいで結婚してしまう一般の子供らと違い、魔術師は長い修行をこなすために遅咲きの傾向がある。

こういうちょっとスリリングで楽しい機会は陰気な学院生活にはほとんど訪れないということもあって、全員が興奮状態だった。お酒の力を借りて、麻酔効果とともに気持ちに勢いをつけるのだ。


酔っ払った私たちはちょっと忘れたくなるような醜態を繰り広げ、しまいには堪忍袋の尾が切れた寮母が怒鳴り込んできたけれど、翌朝確認したところ、無事に三人とも耳にピアスがはまっていた。

ちょっとだけ期待したものの、残念ながらムイは最後までこなかったみたい。


昨夜のことはほとんど記憶にないのだけど、とにかく騒いで針を刺したり刺されたりした。それから女の子たちにもみくちゃにされたナッツがキーキー怒って開けっぱなしの窓から飛び出して行ったのも覚えてる。


パルマもファーシも二日酔いみたい。食堂には行ったけど、朝食のスープを嫌そうに眺めているだけだった。具合が悪そうな子は他にもいる。そんな中私だけはケロッとしていた。古代人の『状態異常耐性』が仕事したみたい。ある程度酔いはするけど後には残らない、妙に都合のいい耐性なのだった。

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