第7話 はじまりの地4

ヘンレンスさんはよく咳をする。肺を病んだ苦しげな咳を。


真っ白な死の大地に蔓延る風土病は、何年も何十年もかけてゆっくりと体を蝕んでいく。細かな砂が少しづつ体に入り込んで、いたるところを傷つけるのだ。

一年目の私はまだ大丈夫だけど、長い年月をこの地で過ごしてきたヘンレンスさんはもはや死を免れないほど悪化していた。


彼は自分の話をしない。

大司教という階位にいながら、なぜこんな世捨て人の様な暮らしを続けるのか。修道士としてではなく、重要な役目のために派遣されたのだと言うけれど、それだって聖地とされるこの大陸にある教会を砂に埋させないようにするっていうだけの役割なのに。


それに彼は死の病気を患っている。それも末期。

血を吐いているのを見た。苦しいだろうに、彼は泣き言ひとつ言わない。

彼が死んだら、かわりに別の人間が送られてくるのだろう。ひどい話だと思う。


私には理解できない。こんな何もない不毛の大地に人一人を犠牲にする価値があるなんて、絶対に認めない。

しかし正教会を立ち上げた『ヒューマン』たちは、この大陸にかつて存在した『古代神人』が自分たちの祖先であると信じているらしいのだ。


この世界は一度、超高度文明が起こった後に滅んでおり、人類は壊滅的な打撃を受けて絶滅しかけた。

それから何千年もかけて、だいぶレベルを落としつつもなんとか復興して現代に至っている。


遥か遠い昔、神々と古代人の距離は近く、親密で、家族の様な存在だったらしい。

ある時、神々の間で争いが起こった。平和な時代は終わりを告げ、世界は光と闇に二分された。

古代人も戦いに参加したけれど、大戦は熾烈を極め、長きにわたって続いた。疲弊した彼らは手に余るほどの危険な兵器を造り出し、ついには力を誤って豊かな大地もろとも滅亡したという。高度に栄えた文明が、一瞬で滅んだ。


隣のサノリテ大陸を開拓していた古代人だけが僅かに生き残ったけれど、嘆き悲しんだ光の神々は彼らから巨大な力を取り上げた。それが現代に生きる『ヒューマン』の祖先。

そういう理由もあってサノリテ大陸では『ヒューマン』が最も人口の多い種族であり、光の神に愛された特別な種族という位置付けになっているらしい。少なくとも正教会ではそう教えている。


ちなみに亜人種と言われる他の種族や一部の魔物は、対戦の最中に兵器として創り出されたという過去を持つために格下扱いを受けることがある。もちろんヒューマンから見たランクだから、ヒューマン以外の種族が聞いたらものすごく怒ると思う。


大陸を滅ぼした莫大なエネルギーはいまだに『ニムオン大陸』を取り巻いている。

古代神人の生み出した濃厚な光の魔力があらゆるバランスを崩してしまうせいで大気は常に不安定。植物も育たないし、数ヶ月に一度突然襲ってくる雨は脅威そのものだった。何日もやむことのない激しい雨が濁流となって砂漠を流れる。


その結果、渡鳥さえ避けて通る死の砂漠には、動植物の代わりに魔力を蓄えた頑健な魔物だけが生き残った。

初日に海岸で見た蟹は巨大な魔物の幼体で、鳥だと思っていた声はワイバーン。砂漠にまばらに生えている枯れ木も実は魔物で、夜になると活動をはじめるそうだ。


大司教であるヘンレンスさんは多くの神聖魔法を使えるけれど、この地の魔物は大気に渦巻く古代神人の聖なる光の魔力を受け入れて進化したため、光の大神ミドラに仕えるヘンレンスさんの魔法はほとんど効かないという。


過去に何度か調査隊が組まれもしたそうだけど、教会を出発した部隊が帰って来る事はなかった。教会から離れるほどに危険は増す。海岸と教会を結ぶ、比較的安全なルートを外れれば命はない。


【古代人】を選択した私がこの地に出現した理由もなんとなくわかる。

ここはかつて大いなる古代文明が繁栄した、聖地ニムオン大陸。特殊な環境に適応して進化した、極めて危険な魔物が跋扈する荒涼たる死の世界だ。


ヘンレンスさんに助けられてからもう一年近くお世話になってしまっていた。

変わらず子供の姿をした私を気に掛け、それは親切にしてくれた。

私は今日、生活物資を届けにやってくる船に乗せられて、隣のサノリテ大陸へ向かう。


できればヘンレンスさんが亡くなるまでは側にいてあげたかった。一人ぼっちの彼を置いていきたくない。それなのに彼は頑なに私を拒んだ。理由は教えてくれない。ただ目尻に優しさを滲ませたいつもの微笑みを浮かべるだけ。


返しきれないほどの恩を受けたのに、何もさせてくれない。

ヘンレンスさんは長くない。ここを離れたら、もう二度と会う事はないだろう。

彼は命の恩人で、師であり、親のようでもあった。

突然やってきた子供を保護し、生活のことさえわからない私に辛抱強く付き合って、たくさんの事を教えてくれた。

共に暮らしたたくさんの思い出が胸に迫って、また泣いた。


砂浜に立って船を待つ私たちの頭上には今日も変わらず無慈悲な太陽が輝き、情け容赦ない強烈な日差しが照りつける。

海風がうなり、細かな白い砂が舞い上がった。


目には見えなくても、どこかにいる魔物が私たちの様子を伺っているのがわかる。ここにいるとヒヤリとした死の感触を思い出す。


隣で鼻を啜っている私の様子には気付かないふりをして、ヘンレンスさんは言った。

「いいかい、ダーナスの町に着いたら、まずはどこでもいいから教会を訪ねるんだよ。寄り道をしないで、真っ直ぐ向かいなさい。ミドラ教会のビターナ司祭の名前を出すんだ。私の娘だから、お前の面倒を見てくれるよ。何も心配いらないからね」


もうすでによれよれになった手紙を私に押し付けながら、今朝から何度も繰り返した言葉を言い聞かせる。心配でたまらないと言った様子で。

「二通ともビターナ司祭に渡しなさい。既にお前の事は伝えてあるが、念のためだ」


初めて会った時から印象は変わらない。その優しさと思いやりでどれ程の人を助けてきたんだろう。

きっと天国に行けるはず。特等席が用意されているはずだわ。そう思うとまた涙が溢れた。


遠くに船影が見えた。別れがすぐそこまで迫っている。

涙でくしゃくしゃになった私をみかねて、ヘンレンスさんはフード越しに私の頭を撫でた。私はたまらずくるりと向きをかえると、力一杯ヘンレンスさんを抱きしめた。

「ありがとうございました。本当に。あなたを一生忘れない」

月並みな言葉しか出てこない私をヘンレンスさんも抱きしめ返してくれた。彼はさよならのかわりに言った。「元気でな。気をつけて行くんだよ」

嗚咽と涙が込み上げてきて、ただ頷くだけで精一杯だった。


別れが悲しくてヘンレンスさんの胸にしがみついて泣いていたら、ついに力づくで引き剥がされてしまった。ハンカチを顔に押しあてられた。

「さぁ、涙を拭きなさい。鼻を噛んで。毅然とするんだ。これからはもう何もしてやれない。強くならなくてはいけないよ」

突き放す言葉まで優しい。私は渡された清潔なハンカチを目に押しつけて涙を拭き、盛大に鼻を噛んだ。


船から荷物を積んだ小舟が降ろされた。

砂浜にいつものおじさんたちがやってきて、私を見て驚きの表情を浮かべた。

「あれまぁ。大丈夫かい?」私の代わりにヘンレンスさんが答える。「もちろんだ。教会の大切なお客様だよ。間違えのないように」

「へぇ。もちろんでさ。お任せください、大司教様。確実にビターナ司祭様の元へお届けいたします」


生活を支えるたくさんの物資が荷車に詰め込まれるのをただぼんやりと見ていた。テキパキと木箱が乗せられていき、ロープでくくりつけられる。

少しでも別れの時を引き延ばそうと浜辺でぐずぐずしていたら、引きずられるようにして小舟に乗せられてしまった。


小舟が青と緑に輝く美しい浅瀬を進む。ヘンレンスさんの姿が小さくなり、ついに優しい笑顔も見えなくなった。私は悲しみを振り払おうと思いっきり手を振った。ヘンレンスさんも軽く手をあげて応えてくれた。


船まで着くと甲板から下ろされた梯子を苦労して登り、甲板に上がってすぐにヘンレンスさんの姿を探したけれど、その頃にはもう砂浜には誰もいなかった。それは彼なりの優しさなんだとわかる。けど、寂しい。


船長と副船長に挨拶された。どちらもボサボサの黒髪で日焼けしていて、おまけに髭面だった。どっちがどっちかわからない。

彼らは安全上の問題があるから部屋に入ったら到着まで出てくるなと言う。食事も部屋に運ぶし、中にトイレもあるという。そんなふうに言われると不安になる。

昔の人は船に女性を乗せることを不吉と考えていたらしいし、この世界でもそうなのかも。


船室に案内される間にすれ違った船員は全員が男性だった。彼らは皆ヒューマンで、遠慮なく私の全身をジロジロと眺め、執拗な視線を向けてきた。

なるほどね。心の中で舌打ちし、考えつく限りの罵詈雑言で罵った。涙は完全に引っ込んだ。

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