頑固な魔術師の異世界冒険奇譚

ひとつぶがえる

第一章 旅立ち

第1話 霧の世界1

ふと気付くと、真っ白な部屋にいた。


ただし、ここを『部屋』と言ってしまっていいものかどうかはちょっとわからない。なにしろ、とてつもなく深い霧が視界を塞いでいて、ほんの数メートル先さえ見えないんだから。

なのに、奇妙なほど明るかった。まるで霧自体が淡く発光しているみたいに。かといって屋外という雰囲気でもない。

何度も瞬きして現実かどうか確かめた。


奥の様子はほとんど分からないけれど、私の周りには数人の男女がいた。同じ様に困惑しながら立ち尽くしている。正確に事態を把握している人は一人もいなさそうだった。


それでも目覚めたばかりのようにぼんやりしていた頭がだんだんはっきりしてくると、少しだけど状況もつかめてきた。

ここは相当広い空間らしい。私の想像をはるかに超えるほどの。しかも相当な数の人間が集められているみたいで、四方八方から聞こえてくるエコーのかかった妙な話し声の中には、日本語以外の言語も混じっていた。


その時ふいに理解した。

……ああ、私、死んだんだわ。


きっとここは、人生を終えた人々が通過する道か、待合室のような場所なのだろう。

『死』という突然の事実を突きつけられたというのに、自分でも不思議に思うほど冷静だった。恐怖もない。ここには来るべくして来たのだとわかっていた。元から知っていたかのように。

きっと『私』は、人生が始まる前、生まれる前にもこの空間にいたんじゃないかと、漠然とそう感じた。


本来早鐘を打つはずの心臓も、もうないらしい。私は自分の手のひらを見つめた。

透けてはいないけど、重力を感じなかった。手足は羽のように軽く、呼吸もしているけど肺に空気が送り込まれる感覚はなかった。


これ、幽霊ってことなのかな。

いつか死んで幽霊になったらと夢想したことがある。空を飛んだり、ちょっとだけいたずらしたり。どうせ死んじゃったんならたっぷり楽しんでから『天国』に来たかった。

……..ええと、ここ、『天国』よね?


『私』は、いったいどんな人生を生きた人間だったんだろう。まるで夢を見ていたかのように記憶が朧げでうまく思い出せなかった。

男だったのか、女だったのか。

何歳まで生きて、家族はいたのか。


私の死を悲しむような『家族』や『友人』と言えるような人は誰一人思いつかない。いや、元々いなかったような気もする。

首を傾げた。私って、どんな人間だったんだろう。


その時ふいに死んだ直後の記憶が蘇って来て、つい叫びそうになった。

あの雨の冷たさとやりきれなさ。

ああ、そうだわ。私、ひとりぼっちで死んだんだ。


死因は恐らく頭を強打したせいよね。

思い出すのは、とりあえずの住処として選んだ引っ越したばかりのつまらない安アパート。雨に濡れた古い階段。そうよ、私ったら年甲斐もなく階段を駆け降りて思いっきり転んだんだ。我ながらなんて間抜けな最後だろう。


確か何か、とても嫌な事があったんだ。くよくよ考え事をしながら階段を降りる途中で、バランスを崩したことだけは覚えている。

たぶん、痛みは無かったと思う。


子供の頃、よく母に叱られた。『急に飛び出さない』『口に出す前に考えてから話す』『階段は駆け降りない』『よく噛んで食べなさい』。

まぁ色々言われて育ったものだけど、まさか死因になるとはね。親の言うことは聞くべきだわ。


その時、唐突に声をかけられた。

すぐ近くに立っていたらしい、かしこまったダークグレーのビジネススーツ姿の女性がおずおずと頭を下げる。知的な印象の40代くらいの女性だった。


彼女は言った。「あの、ここはいったい?」

そんなの私だってわからない。困惑して首を振る。

彼女はごくりと唾を飲み込むと言い直した。「わたしたち、もしかして、もう……」声が震えてる。人生に未練があるらしい。私と違って。


私はキッパリと告げた。「ええ。死んで、ここに来たんだと思います」

女性はしばらく呆然としていたけれど、やがて気持ちに整理をつけるかのようにポツリポツリと自分の人生を語り出した。


正直彼女の人生に興味はなかったけれど、この場合無視するのは憚られる。私はおとなしく彼女のストーリーを聞くことにした。


彼女は弁護士で、親の期待を一心に背負って育った。

生まれついた生真面目な性格から若い頃はひたすら勉強に励み、晴れて弁護士となってからも責任感に突き動かされるようにしてがむしゃらに働いたと言う。

もっと素直にやりたいように生きれば良かったと、最後に呟いた。


彼女の着ているスーツと同じ、なんともつまらない灰色の人生。名も知らない女性の後悔。

そういう私自身はどうだったろう。聴きながら考えているうちにだんだん自分の事を思い出してきた。


……そうだ。

私、12年も連れ添った夫と離婚したんだった。しかも浮気されて。言われるまで裏切られていたことにちっとも気付かなかった。

あらやだ、最低の人生じゃないの。人のこと言えなかったわ。


あの日、死んだ日、40を過ぎて突然世間に放り出された私は途方にくれていた。

結婚した直後に夫に言われるまま仕事をやめて家庭に入った私は、10年以上まったく仕事をしてなくて、貯金もほとんどないし、とにかく安さだけで選んだボロアパートに引っ越したばかりだったんだ。


昔の仕事先や友人の伝手を借りようと誰彼かまわず連絡しまくったけど、あんまりいい返事をもらえなくて…….。唯一会って話を聞いてくれるという親しかった元仕事仲間に会いに行こうとした出先の事だった。


考えていたのは、失ってしまった『時間』。人生で一番輝いていたはずの30代をあんな奴に捧げてしまった。

夫、いや元夫から浮気を告白された時の光景を思い出す。

長い間私を騙し続けてきたそのくそったれな夫を前に、もう何と言っていいかわからなかった。

もちろん怒りはあった。屈辱も。ただそれよりも、あの時の私は項垂れて告白する夫を前に、心底安堵したのだった。長い苦役からようやく解放されたと。


ほとんど惰性で続けていた結婚生活の中で、夫が私に向けた愛情は僅かなものだった。しかしそれは私も同じで、私たちはただ離婚する理由がないというだけのひどく薄っぺらい関係に過ぎなかったのだと思う。


愛情もなければ変化もない生活に心底うんざりしていた。

もともと縛られるのは苦手だった。いつもどこか知らない土地に行きたいと願っていた。


若い頃は多くの趣味を持ち、思うままに閃光のように生きていた私。

導かれるようにライター補助のアルバイトを経てフリーライターとなった。仲の良かったカメラマンと世界中を飛び回ったっけ。


新しい体験が私の心を豊かにしてくれた。なにより自由を愛していた。そんな日々を取り戻したかった。

そして訪れた解放の時、持っていたすべてを失ったあの時、私は死んだ。


人生が終わった今となっても、なぜあんなのと結婚したのか、自分でもよくわからない。周りの知人はいつもの気まぐれだと思ったみたい。

それでも出会った当初は夢中になった。秘密をたたえた目をした、寡黙な人だった。曖昧に微笑む笑顔が可愛いなんて思ってたんだから、まったく馬鹿だわ。


婚約した時、一番反対したのは母だった。今の私同様、離婚経験者だったから、この先どうなるかなんとなく分かったんだと思う。

「あなたは結婚に向かない」そうはっきり言われた。実は自分でもそう思っていたけれど、当時は新しい環境にどっぷり身を浸してみるのも悪くないなんて気軽に構えていた。


馬鹿な私に母も呆れたと思う。説得を諦めた彼女は最後に、「お父さんを思い出す?」と不思議な質問をした。正直なところ、顔も覚えてない。

まだ小さかった頃にいつの間にか家からいなくなっていた父。彼曰く、私は母親似らしい。


こうして振り返ってみると、私の人生の中で母だけが強い存在感を放っている。だからと言って好きかと言わるとそれはちょっと違う。尊敬はしているけど、そういうのとは違っていて、なんというか、個性的な人だったから。


母は滅多に笑う人じゃなかった。

日々の買い物以外で出かけることもなく、趣味といえば庭の手入れと家の掃除ぐらい。友人も少なかったと思う。ただ、不幸には見えなかった。

元から感情が気薄なのか、常に冷静で、両親が楽しげに会話している姿なんて見たことない。彼女には親からついだ財産があったから、実のことろ夫なんて必要なかったんだと思う。

今思えば、究極のミニマリストだった。


それでも幼い子供を一人で育てあげたんだから、生物学上の父なんかよりよっぽど立派な人だ。責任感があって、それなりに愛情もあったと思う。少なくとも虐待めいたことは一度もなかった。


そんな母と私はまったく似てない。見た目も性格も服の好みも喋り方もぜんぜん違う。母は『静』で、私は『動』だった。それでも同じように離婚したんだから似通ったところもあったんだろう。

まぁようするに、私たちは男にとって居心地のいい女ではないということなのね。


深い霧の向こう側を眺めながら、何をするでもなくただぼんやり突っ立っていると、私たちの元に二十代半ばの男性が数人の男女を連れてやってきた。


霧でよく見えないけれど、どうやら皆近くの人間同士でグループをつくりはじめているらしい。

思わずため息がもれた。不安な時に集まりたがるのは人間の性なんだろうけど、死んでからも人付き合いなんかしたくない。

私は話すのが億劫で、弁護士だという女性に対応を任せることにした。とりあえず成り行きを伺う。


しばらくそうやって自己紹介がわりに彼らの語る人生や後悔、今後の不安なんかをぼんやりと聞いていると、ふいにアナウンスが流れた。


それはアナウンスとしか言いようがない。

遥か上から降ってくるような、心に直接語りかけているかのような、不思議な声だった。

大勢の人間が一斉に驚くざわざわという声に被せて、暖かみのある優しげな、しかしどこか冷淡な声が淡々と告げた。


『皆さん、突然の事にさぞ驚きでしょう。お気付きの事とは思いますが、皆さんはすでに以前の人生をまっとうされております。しかしこちらに辿り着いたあなた方は肉体を離れてもなお生きる力を失っておりません』


なんだか嫌な予感がする。

声の主は私たちに何かをさせたいようだった。声は続けた。


『そこで今回に限りまして、今まで過ごされていた世界とはまた別の、少し過酷な世界で生きていただく事となりました。これは提案ではありません』

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