間章 エドナ

誰もいない暗闇のなかで

 あの時期のヒトは『死』と隣り合わせで、一日一日を必死に生きていた。明日のことを考えることが出来た者など、ごく僅かだっただろう。


 だからこそ、短い時間の中で激しく燃え盛った彼らの命の輝きは余りにも眩しいものだった。大地を照らす太陽なんかよりも、ずっと、ずっと。


 私に名前を付けてくれたツカルジ。

 私に無力さを刻みつけたカレト。

 私に強さと結束を見せたバルカ。

 私に底知れぬ怒りを齎したナーリア。

 私に前を向くきっかけを与えてくれたハド。

 私に生きる道を教えてくれたバラナシオ。


 勿論、彼らだけではない。ありとあらゆる命が、私の隣を駆け抜けていった。その一つ一つが、私にとっては愛おしいものだ。誰も彼も煌めいていて、忘れることの出来ない思い出となって私の胸の中に収められている。


 ツルギを翻し、手を掛けた命もある。それから目を背けることは、奪った命に対する冒涜なのだ。幾ら言葉を並べたところで、いくら償ったところで、罪が洗い流されるものではない。


 だけれど、私は歩き続けなければならないのだ。微笑わらい続ければならないのだ。


 見渡す限りの瓦礫の上を歩く。足元のアスファルトだったものは抉れ、風化し、荒れ果てている。ゆっくりと踏みしめ、一歩一歩確実に進んでいく。ここ暫くは崩れた大地しか歩いていない。


 二つの月は相も変わらず私を見下ろしている。現在のこの辺りは夏季のようだ。湿気はそこまで感じない為に不快ではないが、陽の光が完全に隠れているにも関わらず、空気は熱を帯びている。


 これから、私はどこへ歩くのだろう。どこに辿り着くのだろう。それこそ数えることすらやめてしまう程に繰り返されてきた自身への問いかけだった。


 いつからか、この地上の全てに存在していたはずのヒトは、環境の変化、闘争、流行病などであっという間にその数を減らしていた。いつの間にか、歩く為に歩き、ヒトを救うために歩いてきた私の旅路はヒトを見つける為のものへと変わっていた。


 もう数年もヒトの姿を見ていない。あるのは文明があった名残である朽ち果てた残骸と、侵食するように根を伸ばしてきた草木と苔ぐらいだ。


 獣もいないので狩ることもできない。食べるものを手に入れることすら至難の業だった。建物だった瓦礫の中に残されていた保存食や、食べられる野草などを食べて過ごしていた。まさか石器を使っていた頃の知識がこんなところで活きるとは思ってもいなかった。生きている限り、無駄なことなんて存在しないのかもしれない。


 最近口にしたのは奇跡的に残っていた葡萄酒だ。瓶の中に収められた琥珀色の液体は酸化していて、はっきり言ってしまえばあまり美味しくはなかったけれど、濁った水に比べれば甘露のようなものだった。脳の中に入り込むアルコールも、足取りを少しだけ軽くしてくれる。


 また少しだけ、歩く気力を取り戻せたものの、きちんとした形の肉なんてもうずっと食べていない。幾億の調理方法を経ただけではなく、素材の質を高める為に血統すらも組み合わせるという、ヒトの文明が進めば進むほどに発達していった『食』への情熱が生み出した、ある種の狂気すら孕んだ叡智そのもの。大昔に食べたカウカウも美味しかったけれども、その比較にならないほどの旨みは初めて口に入れた瞬間に落雷を受けたような激しい衝撃を覚えたものだ。


 考えれば考えるほどに、記憶の中の美食が思い出を伴って私の胃袋を強く刺激していく。


「おぉ、考えるのはよそう……」


 空腹を主張しはじめた胃袋を意志の力でねじ伏せながら前を向く。ところどころに点在する街灯の光はとっくに消え失せていて、私を照らしているのは二つの月が放つ銀色の光だけだ。夜の闇が人工の光によって淘汰されたのは人類の歴史からしてみれば僅かな間だというのに、失われた光が恋しくてしょうがない。夜を吹き飛ばすあの輝きを知ってしまえば、何も見えない闇の恐ろしさを改めて痛感してしまう。


 微かに見えるものの輪郭だけを頼りに、確かめるように歩いていく。世界から取り残されてしまった自分自身の存在を確かめるように、瓦礫に手を触れながら足を進めていく。


 ふと手のひらが瓦礫のものとは少し違う粗い感触を捉える。目を凝らしてみると錆びつき風化しきった看板のようだった。月の光に照らされたそれは『よう……そクレ…リパ…』とだけ読めた。サビと汚れと瓦礫による傷もあったが、途方もないほどの高熱に曝されたのだろう。そうなるとやはり、ここ一帯のヒト達はみんな死んでしまったに違いない。


 無意識に吐き出された大きなため息と共に、崩れ落ちそうになった膝に力を込める。また歩いて歩いて歩いて歩いて、ヒトを探さなければ。救うべきヒトを、救わなければ。


 足音は一つだけ。動く影は一つだけ。


 それでも、それでも私は歩き続ける。生きてきた全ての命のために。ほんの僅かな間でも、私の隣にいた愛すべき者たちのために。


 いつか頭の中で響いた、私のことを呼ぶ声が誰のものなのかは、未だに分からなかった。いくら思い出しても、靄がかかったようにはっきりと思い出すことができない。


「まぁいいさ、時間はまだたくさんあるんだろうんしね」


 何代目になったかわからない、吊るされた腰の木剣の鞘を撫でながら呟く。殆ど飾りでしかない、ツルギの粗末なイミテーションではあったが、これを振るわなくなったのは、実に最近になってからのことだ。それこそ、街灯が道の至る所に据え付けられた時よりも後のことのような気さえした。


 鞣された革の独特の手触りを感じながら、頭の中の意識を遡っていく。確か、バラナシオの生きた時代から暫く経った辺りで、世界でなにか大きな動きがあったのだ。尤も、それを知ったのはだいぶ先のことになるのだが。その辺りから、再び記憶を呼び戻すことにする。


 浮かんだ光景は、大量の荘厳な石造りの建造物たちと、そこで不敵に笑う一人の男だった。

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