砂漠の夜の約束

 今、私の胸の中で渦巻いている感情を言葉にすることができない。表す言葉が見つからない。それでも、頭の中でぐるぐるとなにかが回り続けていることだけは理解できた。


 歓声と拍手に包まれながら、どこか他人事のように呆然と佇む。誰も彼も、皆同じように私たちを見て楽しそうに笑っている。馬鹿みたいな土産話をしたときとは違う、見ているこちらも嬉しくなるような笑顔だ。自分自身が息を切らしていることすら忘れるような光景に、ただ視線を泳がすことすら出来なかった。


 演奏が始まった頃には頭上にあった太陽は、微かに傾きはじめている。この時期はあっという間に夜になるからか、帰り支度をはじめている人達もちらほらと視界に入っていた。


「さぁさぁ今日はこれにてお終いだ! 聞き入ってくれた者は、なにか食べ物を! 」


 ラスーのよく通る声が、セプタの人々を動かした。どこから持ってきたのか、穀物から果実や木の実、果ては肉まで。様々な食料があっという間に積まれていく様に目を丸くしてしまう。受け取る二人の反応はとくに変わりはせず、嬉しそうに笑っている。彼らにとってはこれぐらいの量を渡されるのは珍しいことではないのだろうか。そう思えるほどに、私が無我夢中で行った踊りはともかく、二人の演奏は見事だった。十分に人を集める価値のあるものだし、あの歓声もある意味当然のものだ。


 それにしても、これだけの量の食べ物が置かれるということは、このセプタの国の人々にはそれなりの蓄えがあるということになる。それこそ、見ず知らずの演奏と踊りにこれだけの量を渡せるほどに。


 空っぽだった胃袋に食べ物を詰め込んでいたりして時間を浪費してしまったせいか、全てを受け取り終えた時には辺りは微かに暗くなりはじめていた。雲ひとつない空に二つの月が薄らとであるが再び現れていて、太陽が登っているときの喧騒が嘘のように静まり返っていた。


 ラスーの話によるとこのセプタでは太陽を最も尊重するものとしているようで、中央で眠る権力者たちもその化身とされているようだ。その為か、太陽が沈む頃には皆家に篭りじっと夜を過ごすそうだ。いつの間にか外にいるのは私たちだけになってしまっていた。


「お、お疲れ様だ、な」


 荷物の整頓がひと段落したラスーから黄色い果実を受け取り、一口齧る。強い酸味と仄かな苦味、それでいて確かに感じる瑞瑞しい甘味を味わいながら、二人の演奏を思い出す。二人の奏でる音は今まで聴いたことのないものだった。きっと彼らの生きてきた道のりそのものだったのだろう。


「は、初めて見る舞だった、なぁ。とにかくみ、見事だったよ」


 まだ演奏の余韻に浸っているのか、高揚を隠さないままに串焼きに齧り付くラスーと、彼と対照的に木の実を分けて袋に入れながらしみじみとハドが呟く。


「あぁ。本当に、本当に美しかった。そこで提案なんだが……エドナ、これからも俺たちと一緒に行かないかい? 君のあの舞を近くでもっともっと見たいんだ」


 まるで太陽が再び登ったような爽やかな笑みを浮かべながら、ハドは私に向かって手を伸ばす。差し伸べられたその手を取るわけにはいかなかった。伸びそうになる右手をもう片方の手で押さえながら、声を絞り出す。


「……ごめん、そういうワケにもいかないんだ」


 断られるとは思っていなかったのか、ここでハドが初めて驚きをはっきりと顔に出した。琥珀色の瞳に映る私の顔は、今にも泣きそうな顔をしていた。


「私は、本当はね。誰かを笑顔にしちゃいけないような存在なんだよ。何人も何人もヒトを殺している。ハド、ラスー。はじめは疑っていたんだよ。キミたちが誰かを殺すために活動していたら、と。もしそうだったら、躊躇いなく私は君たちを斬り殺していただろう。でも、でも。君たちはその逆をした。誰かを笑顔に、楽しませるために歌い、笛を吹いた」


 自分自身の顔を見ることが出来ず、血に濡れた手をじっと見つめる。血に濡れた道を歩いてきた私からすれば、二人が奏でた旋律はとてもとても眩しくて、遠いものだ。だからこそ、身体が動いたのだろう。もう手に入れることができない、憧れるような、焦がれるような音と音。私にとっては、それこそがセプタの人々にとっての太陽の光そのものなのだ。だから、だからこそ。


「私はね、怖いんだよ。踊っているときに、ふと忘れてしまったんだよ。たくさんのヒトの命を奪ったことを。彼らはヒトを殺す獣だった。それでも、ヒトだったんだ。ツルギで斬り殺した彼らが、ずっと私を見ている。今だってそうだ。それはきっと、私が獣にならない為に必要なことなんだ」


 言葉は止まらない。抑えていた想いが堰を切ったように溢れ出す。畝るような感情の奔流をぶつけられた男たちは、どんな顔をしているのか。それを確かめる勇気はなかった。


「エドナ、それは違う、違うよ」


 苦しそうな声に顔を上げると、ハドが何ともいえない表情を浮かべていた。苦しげなようにも見えるし、目の前のケモノを引き止めようとするような意図やヒトを殺し続けることになったケモノに対して憐憫の感情を持っているようには感じない。


 ハドは背負っていた槍を手に持ち、じっと見つめる。まだ二つの月の光は弱々しい。長槍の穂先は光を反射して煌めくことはない。ただ刃としてここにあるだけだ。


「俺やラスーだって、旅を続けているなかで何度も賊に襲われてる。とにかく逃げて逃げて逃げて、ひたすらに逃げて回ったから今こうして生きている。それでも、いつか立ち向かわなければいけないときがあるだろう。殺さないと殺されるなら、殺す。そして。躊躇わない。後悔しない。でないと、死ぬからだ」


 語気が強くなっていくハドの言葉は、覚悟の念をひしひしと感じるものだった。彼のような高潔な強さを持ち続けていけば、これからも二人は道を違えることはないだろう。


「強いね、ハドは」


 私はそうはなれない。なれなかった。途方もない年月を生きている癖に、私はずっと弱いままだ。いくら長い時間を過ごしたところで、私という本質が変わることはない。


 命が失われるということは全ての生き物にとって恐ろしいものであり、私以外の全てに備わった摂理だ。ヒトは限られた命の中で研ぎ澄まされ、一層強くなっていくが、私はどうだ。何も変わることがない『私』という存在は、ずっと鈍なままでいることしか出来ないのかもしれない。身体に纒わり付く数多の『死』が、私を前に進めるのを認めないでいた。


「もうずっと前の話だ。私にはね、娘みたいな子がいたんだ」


 前を見ることができなくても、後ろを振り返ることはできる。唐突に私の口から出てきた『娘』という言葉、そして『いた』という過去を示す言葉に、二人は怪訝そうな顔をしながら顔を見合せた。


「殺されたよ。胸をツルギで刺されて、呆気なく死んでしまった」


 確かに言われてみれば、彼らからしてみれば私が娘がいるような年齢には見えないかもしれない。説明をしたとしても、私が気の遠くなるような年月を歩き続け、あらゆるヒトの命と寄り添って生きてきたということを理解はしてもらえないだろう。


 目を見開いて驚くラスーと全く表情を変えないハド。相変わらず対照的な反応をする二人に、静かに昔話を続けていく。民衆を救うためではなく、ただ殺すために殺された女のことを。私の腰で揺れている、朽ち果てたツルギの持ち主のことを。


「最初は敵討ちのつもりだった。でも、たまに思うんだ。私がやっていることは、ただの自己満足じゃないかなって。幸せに生きて欲しかったナーリアが殺された怒りをただぶつけているだけでしかないような気がしているんだ。そんな私が、人が喜ぶような事をしてはいけないんだよ。わかってくれよ、ハド、ラスー」


 月の輝きが微かに強くなっていく。暫しの沈黙が私たちの間を通り抜けていく。


「……わかったよ」


「ハド!」


 沈黙を破ったハドの了承の言葉に、つい声が大きくなってしまうラスーの声。それを窘めるように何回か首を振るハドは、左下を見ながら小さく呟く。


「でも、忘れないでくれよ、エドナ。キミの舞は今まで見てきたもののなかで何より美しかった。そう思っている俺たちのことを。俺たちも忘れない。『歩き続けるもの』よ、キミのことを、きっと何度もしつこく思い出すよ」


 外れていた視線はいつの間にかまっすぐに進んでいた。琥珀色の瞳は揺れることなく、静かに私を見つめている。その視線を見ているだけでハドという男の強さを改めて実感できるし、自分の弱さも痛感してしまう。彼のようになれる時が、くるのだろうか。


「だから、約束してほしい。何度もキミの事を歌おう。キミの歌を、この大地の果てまで届けよう。もし遠いどこかで、キミがその歌を聴くことができたならば、その時はどうか、どうか――あの舞っている時のキミのように、前を向いてほしい」


 一方的な我儘にも聞こえるハドの懇願に何も応えることができないまま、セプタの外へと向かっていく。彼の言葉は約束でもなんでもない、ただの押し付けだ。そう思ってしまうことは容易いことだが、微かな希望にしては、悪くないようにも感じた。振り向くことなく、ゆっくりと進んでいく。


 砂漠から流れ着いた細かい砂を踏みしめる自身の足音しか聞こえていなかったが、不意に背後から細く高い笛の音が耳に入る。ずっと聴いていたくなるような甘い音が私の後ろ髪を引っ張るが、足元に絡みつく血に濡れた手が戻ることを許さない。


 だからせめて、この旋律だけは忘れないようにしよう。そう思いながら、足の裏に力を入れて一歩ずつ歩いていく。砂漠の夜の冷たい風をかき消すような音色を聴くのは、私と二つの月だけだった。

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