第六章 バラナシオ

沈む諦観と後悔

 海はあまり好きではない。何もかも全てを受け入れて、飲み込んでしまいそうだから。世界でただ一人だけ死ぬ事が出来ずに彷徨い続け、幾多の死が絡み付いている私でさえも、許してしまいそうだから。


 無意識に救いを求めていたのかもしれない。気付けば私は大きな船の上にいた。話によれば水平線の彼方に浮かぶツファの島へと向かうのだという。二人が乗るのに限界だった舟はいつの間にかその何十倍の人数を載せて大海原を進んでいく。またしても私の気づかないところで、ヒトの持つ技術は急速に発展していた。そう遠くもないうちに、鳥のように空も飛んでしまうのではないだろうかと思えるほどに。


 大きく帆を広げた船は風に乗り、海の上を滑るように進んでいく。先程までは私を含めた全員が慌ただしく動いていたのだが、順当に風を掴むことが出来たからか、一息つく意味もあり各々が休憩しながら好きなことをしていた。


 だからといっても私自身は特にやりたいこともなく、船の隅で腰掛けながら目を閉じて身体を休めていた。燦々と輝く太陽の熱が、私の身体をじりじりと焼いていく。潮の香りは鼻の奥にこびり付いていて、とっくに感じなくなっていた。永遠に続いていきそうな波のうねりの反復を感じながら、目を閉じる。


 真っ暗に閉ざされた視界の中でも、血濡れの男たちが私のことを言葉を発することなく、ただじっと見ていた。その視線が何を意味しているのか、どれだけ考えても答えは出ない。彼らのことを見ないようにしながら、出来る限り身体を休められるように意識するのも、もう慣れたことだった。


 この船が向かうツファの島がどれぐらいの大きさなのか、実際のところ私は知らなかった。どれだけ進んでも一向にその全貌を窺い知ることは出来ない。そもそも無事に辿り着けるのかさえもわからなかった。この船を仕切る白髪が目立つ男――船長と呼ばれていた彼はツファへと三回も行ったことがあると豪快に笑っていた。問題は実に九回も船の破損や難破などで航海に失敗しているということだが。それほどの数を失敗して生き残っていることの方が余程凄い気がするのは、気のせいだろうか。


「紅い髪の嬢ちゃん、調子はどうだァ? ツファへはまだまだ時間がかかる。まだまだやることがあるからな、今のうちに休んどけよ?」


 浅黒く彫りが深い貌から、白い歯が覗く。


「幾らアンタが別嬪さんでもサボってたら海に放り出すからな! ブハハハハ!」


 笑い声だけ残して奥のほうへと大股で歩いていく。この船を自分自身の領土だと思い込んでいるような、そんな足取りだった。


 不安定に動き続ける領土の上で、私たちは揺蕩っていた。海の上という環境は、陸の上とは勝手がまるで違う。この場所においてはヒトという生き物は余りにも無力だ。目まぐるしく変わる風や波や空模様はあまりにも無慈悲に牙を剥く。例え年月や世代を積み重ねてきたとしても、それから逃れる術を未だ持っていなかった。


 進行方向からこちらを待ち伏せていたように現れた黒く分厚い雲はどこからどう見ても嵐を巻き起こすものだ。船員が慌てて軌道を修正しようとしていたが、風を背負って進んでいく船の構造上、直ぐにどうにかなるものではなかった。吹き荒れる生温い湿気た風が、もう私たちに逃げ場など存在しないことを告げていた。


 案の定、ぽつりぽつりと落ちてきた大きな雨粒はすぐに瓶をひっくり返したような大雨へと変わる。風も吹き荒れ、波も高く激しくなっていく。あれよあれよという間に私たちが乗る船は大嵐の中に放り込まれていた。


「おいおいおいおい、このままじゃやべぇぞ!」


 船員の悲鳴が嵐の中から聞こえてきた。 雨と風と波の音で慌てふためく皆が何を言っているかよくわからないが、かすかに聞こえる怒号は恐怖と混乱に溢れていた。実際に私の頭の中も『このまま船が沈んでしまったらどうなってしまうんだろうか』という考えで埋まってしまっている。


 こんな大海原のど真ん中に置き去りにされてしまったならば、普通のヒトならばまず助かることはない。背筋に流れる冷たいものは、身体を容赦なく濡らしていく雨粒だけではなかった。


 抉り込むような高波に曝される度、船の一番重要な部位である竜骨が軋んでいく。この船が粉々になるのも、時間の問題だ。


「この程度なんてこたァねぇや! 3回目の方がもっとやばかったからなぁブハハハハ!」


 不敵に笑う船長であったが、その顔は真っ青で悲壮感に塗れていた。明らかに雨ではない大量の脂汗が額どころか顔中に張り付いている。その表情を見て、ほんの僅かではあるが冷静さを取り戻すことに成功した私は、どうにか振り落とされないように柵にしがみつこうと手を伸ばした瞬間に、一際大きな波が船に襲いかかった。


「あ」


「嬢ちゃん!」


 船長の叫びも虚しく、一瞬の浮遊感の後に耳の奥に入り込む軽い音が、私が海に落ちてしまったことを自覚させた。回転する視界が黒く染まり、一拍置いて全身を突き刺すような冷たさが襲いかかる。


 目に、鼻に、口に海水が容赦なく入り込む。幾ら手足を動かしても崩された体勢が元に戻ることはない。藻掻いても足掻いても好転することのない現状に完全に恐慌状態に陥ってしまった。


 落ち着くことなど不可能だ。何故なら息を吸うことも吐くことも出来ない。目が開けられない。身体が重く動かない。力がだんだん抜けていく。足が攣る。このままでは為す術もなく海の底へと沈んでいく。


 私は幾ら切り刻まれても、殴られても蹴られても、骨と皮だけに痩せ細るほどに飢えても、死ぬほど苦しいし痛いが実際に死ぬことはない。だが今回はどうだ。傷口が塞がったところで、穴という穴に入り込んでいる海水が出て行くわけではない。水の中で息ができるようになるわけではない。空気を取り込むことが出来なければ、あらゆる陸の生き物は生きていけないのだ。初めて感じる生命の危機により極限まで引き伸ばれていく感覚は、ただ苦しむ時間が増えていくだけだった。


 そもそも根本的に、私は身体のどこに力を入れれば水の上で活動できるのか、まるで理解出来ていないのだ。言ってしまえば、泳ぎ方を知らない。泳ぐことが出来ないのだ。


 やはり海に近づくべきではなかった。泳げないのに、こんなところまで行くものでもなかった。あの船長の言葉を信じてはいけなかった。様々な後悔が胸の中を暴れ回るが、すぐにどうでも良くなっていく。


 もしかしたら、この辺りが潮時なのかもしれない。数えることなんてとっくに辞めているほどの長い年月を生きて生きて生きて生きて、歩いて歩いて歩いて歩いて歩いて歩いて。私の隣を通り過ぎていった命の数もそれだけ増えていく。数え切れないほどの命の火が消える瞬間を見てきたし、その火を私自身が消すこともあった。死の螺旋の中心で、私はただ立ち尽くすことしかできない。あまりの無力さに、私の心は磨り減り続けていた。


 だから、もう、いいんじゃないか?


 一度思ってしまえば、あとは一瞬だった。力を入れることを放棄した私の身体は、潮の流れに従って海の底へとゆっくり沈んでいく。このような状況になっても、どんなに苦しくても、意識を失うことのできない自分自身が本当に嫌になる。眠れない夜のように、強引に瞳を閉じる。


 血に濡れた男たちの姿は、それでも消えてくれない。

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