流されて、触れられて

 ああ、死ぬことすら出来なかったのか。意識を薄ぼんやりと保ったまま、そんな事を漠然と考えていた。


「――――い」


 いつの間にか私は陸に打ち上げられていた。身体は冷えきっていて、動かすことは叶わなかったが、まだ私の命は尽きてはいなかった。


 海の底に沈み、岩肌に何度もぶつかっても、傷ついた身体はすぐに癒えてしまう。口の中は海水に満たされ、長い長い時間の中で息を吸うことも吐くこともできない。ただただ続く苦しみの中で、いっそ狂ってしまえば楽になれたのかもしれない。それでも、私をじっと見つめる血濡れの男たちの視線が、私を理性が支配する現実に引っ張り戻すのだ。何があっても、私が何度もヒトを殺したという事実は消えることがない。それを、私自身が許していないのだ。


 私は私でしかない。何度繰り返したかもわからない問答と、自己満足でしかない結論。それでも、今の私には現実の方が余程恐ろしいものだ。もしかしたら、首を落とされても、全身を引き裂かれても死ぬ事がないのだろうか。私が死ぬことは、あるのだろうか。


「――――――おい!」


 波の音に紛れて微かに声がする。聞いた事のない男の声。少しだけバルカに似ているような気がした。徐々に意識が覚醒していく。凍りついていた瞼をゆっくりと開くと、まず視界に入ったのは眩いばかりの陽の光だった。これだけ激しく照りつけてくる太陽など、なかなか見たことがない。


 そして次に捉えたのは、黒い髪を短く刈り上げた小柄な男だった。幼げな印象を隠すような顎髭が奇妙な均衡を保っている。日に焼けた浅黒い肌が、体型と相反するような力強さを感じた。


「おい! 生きてるか! おい! 生きてるならナントカ言えよ!」


 男の必死な呼び掛けにどうにか声を出そうにも、口の中から出てくるのは砂の交じった海水だけだった。噎せるように吐き出される大量の塩水を見て、男は青ざめながら私の手を強く握る。


「頑張れ、死ぬんじゃねぇよ……!」


 肺も胃腸も、海水で満たされていた。あらゆる穴から痙攣しながら海水を撒き散らす私は、得体の知れないバケモノにしか見えないだろう。普通こうなるよりずっと先に、ヒトは死ぬ。


 男は涙を流しながら私の手を握り続けている。それは恐怖によるものではなく、悲しみや不安によるものだった。彼はバケモノでなくヒトとして私を見ていた。苦しみ呻く私を救おうと、手を差し伸べてくれていたのだ。私の手に伝わる彼の手の硬さと熱さがなんだかとても嬉しくて、胸の奥が微かに熱を持つのを感じた。


「いいか、絶対死ぬんじゃねぇぞーー!」


 男は両腕を私の腕と腰にまわし、一気に抱き上げた。身体は相変わらずピクリとも動かない。言葉を発しようとしても、肺の奥に沈んだ泥のせいで掠れきった喘鳴のような息をするのがやっとだ。空気すら碌に取り込むことが出来ない。ぐったりとした私をしっかりと手に持ちながら、男は凄い速度で砂浜を駆け抜けた。


 まるで鳥が飛ぶように走る。ヒトがここまで早く動けるとは思えないような速さだが、しっかりと丁寧に持ち上げられていたからか視界は意外にも鮮明だった。相変わらず息は出来ないしお腹の奥から砂が口の中へと無尽蔵に逆流してくるが、余計な振動もそこまで感じない。


 走り続けている間にも男はずっと泣きながら私に声をかけ続けていた。死ぬな、生きろと。彼の涙は止まることなく流れ続けていく。頬から零れた雫が私のお腹に何滴も落ちていった。


 砂浜を抜け、坂を駆け上り、近くの森への入口にある小さな小屋にあっという間にたどり着く。木を積み重ねて作り上げた様式の小屋は、今まで見たことのない複雑なものであった。


 すぐ近くで座りながら何か作業をしていた髪の長い女が、私を抱えて駆け寄ってくる男を見て怪訝そうな顔をする。吊り目の女は小柄な男とまるで正反対で、見るからに筋肉が発達している。今まで見てきたどんな女よりも、大柄で力強さを感じるものだった。


「そんなに慌ててどうしたのさバラナシオ、というかそのヒトは――」


「ニッティ! このままだとこの人が死んじまう! 早く、早く手当てをしてくれ!」


 ニッティと呼ばれた女が泣きながら叫ぶ男――バラナシオの剣幕に驚いたのは一瞬だけだった。すぐに状況を把握したのか、手に持っていたナイフを遠くへ放り出して立ち上がる。


「うわわわわわ、こりゃ大変だ!」


 彼女が慌てた声を出したのはそれだけだった。私に何があったかなど、バラナシオに一つも聞くこともなかった。小屋へ入り、寝具の上に私を横たわらせるように指示をする。それに従いバラナシオは焦りながら私を寝具に乗せた。


 未だに穴という穴から流れ出ていく海水で敷かれている布が濡れていく。他人の寝床を汚してしまった罪悪感よりも、口の中で強まっていく不快感のほうが遥かに大きかった。


「まるで冬の海じゃないか! 早く温めてやらないと!」


 私の身体に軽く触れたあとのニッティの行動は迅速だった。身体に絡み付いているだけになっていた衣服はすぐに剥ぎ取られ、瞬く間に一糸纏わぬ姿にされてしまう。このような状況においては何も身に着けていない方が幾分かはマシになるのだが、それを知ったのはだいぶ後の事だった。


「なに見てるんだい! 急いで火を焚いてきな!」


 呆然とした表情をしながら棒立ちでこちらを見ていたバラナシオにニッティの怒鳴り声が響く。バラナシオはびくりと飛び跳ねながら外へと駆けていった。


「いいかい、諦めるんじゃないよ。生きるんだ。何があっても」


 私の手を握るニッティの両手は、バラナシオのものと同じぐらいに熱かった。

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