第一章 ツカルジ
追いかけるもの
吹き荒ぶ風の中を、ひたすらに歩いていた。私に目的など何もなかった。私自身が何者であるかどうかなど、本人ですらわからないが、歩くことだけはできる。歩くことしかできない。どんなに冷たい風が自分を突き抜けても、どれだけ長い間に食べ物を口に入れなくても、私の身体が動かなくなることはなかった。
時折、他の民が集まって暮らしている集落にたどり着くことがあった。流れ着いた余所者の私のことを歓迎してくれるところはあまり無かった。他の人とは違う、紅い髪の毛が見るものを不安にさせるのだろう。ふとした油断で誰も彼も死んでしまうこの世界において、ありとあらゆる不安の種を潰したいと思うことは、当たり前の考えであることは理解している。
立ち寄った集落で矢を放たれたこともある。何本も何本も矢が突き刺さる感覚は、いつになっても慣れることはなかった。それで死なない私を見て、あからさまに忌まわしい目で見られるならばまだいい。恐怖を隠した怯えた目、それが私にとっては一番堪えるものであり、その目を見たくないという一心で逃げるように集落を出るのは、一度や二度ではなかった。
それでも、私は彼らを恨むことが出来なかった。ひたすらに歩き続ける為に、私はいつも1人でいた。ふとした拍子に出会う彼らの存在が、私のお腹の中で膨れ上がる孤独感を打ち消してくれる。例え蔑まれても、石を投げられても、愛情に近い感情は消えることはなかった。
いくら歩いても、どこへ歩いても、私に向かって吹き荒ぶ雪で視界は真っ白で、突き刺さるほどに冷たい風が突き抜けていく。それでも、私は脚を止めるわけにはいかなかった。歩いて歩いて歩いて歩いていく、そんな終わりの見えない旅を続けているうちに、とある男に出会うことになった。
私たちが出会った切っ掛けなど些細なものだ。手に持った槍を杖代わりにして、私と同じ方向にひたすら歩く男がいた。これも縁と思って声を掛けた。ただ、それだけ。
最初は無視をし続けてきた男だったが、何も食べずに少し後ろを歩き続ける私を不憫に思ったのか、彼に向かって声を出し続ける私に根負けしたのかわからないが、懐から何個か木の実を差し出してきた。それが、私と男……ツカルジとの邂逅であった。
『追いかけるもの』という意味だというツカルジは不思議な男だった。頬はげっそりと痩せこけ、乱雑に伸ばした黒い髪を後ろでまとめたその風体はまるで髪の毛が生えた髑髏のようだが、空洞であるはずの眼球は生命力に溢れ爛々と輝いている。その瞳の輝きが、なんとなく私を惹き付けたのだ。普段はあまり口を開くことはなかったが、夜が明ける少し前だけは饒舌になった。
普段は夜を照らす二つの月は、分厚い雲に覆い隠されている。日の光によって妨げられることのなくなった雪と風は容赦なく二人に襲いかかる。きめ細やかで暖かいカウカウの毛皮でもこの寒さに気を抜くと凍りついてしまいそうだ。震える自身の身体を抱きしめながら、夜が通り過ぎるのをじっと待つ。
私たちの姿は闇に溶けていて、すぐ近くにいるであろうお互いの顔を見ることも出来ない。だからこそ、ツカルジという男はこの瞬間にだけ、何かを話したくなるのだろう。凍えるような夜の闇というものは、存外に人を不安にするのだから。
「殺したいやつがいる」
そう呟くツカルジの声は、聞いた事のないほどに絶望と怒りに塗れたものだった。それが彼の眼の光を作り上げているのだと、気づくのにはそう時間はかからなかった。
「お前にも、そういうやつはいるのか? 自分の全てをな投げ捨てても、腹の中身を全て引き摺りだしてやりたいようなやつが」
彼の問いに沈黙で応える。たまに拒絶されて悲しくなる時もあるが、私は目に見えるあらゆるもの全てを愛していた。殺したくなる存在など、思い浮かばなかった。ツカルジは私のそういうところを理解していた上で、このような意地の悪い問いかけをしたのだろう。「だろうな」という声は、どこか寂しげなものだった。
「『ダケラケ』。長く鋭い牙と爪、そして分厚い毛皮をもった、巨大な獣だ。そいつに俺は、家族を、全てを奪われた。奪われたなら、奪い返されたとしても文句は言われないだろうよ。だから俺は、ダケラケを見つけ出して、殺す。その為に、その為に生き続けているんだよ」
ツカルジが時折恐ろしい目をして積もった雪を掘り返して動物の死骸を拾い上げるのは、なにか手がかりを探している時なのだろう。もうダケラケの足跡は、とっくに雪に埋もれて見えなくなっている。食べ散らかしたであろう他のケモノや木の実も、この雪ではどこにあるか分からない。ここまでいくと最早闇雲に探し回るしかない。私と同じような当てのない旅を、彼は続けてきたのだ。
「俺の家族を殺したダケラケは、きっと強かったのだろう。アイツに殺された家族は、きっと弱かったのだろう」
ぎりり、と歯を噛み締める音が聞こえる。降りしきった雪が積もり周囲の音を吸い込んでいた為か、新しく作り出される音が嫌にはっきりと聞こえた。
ツカルジの声が夜の闇に乗って、私の耳腔に入り込む。彼の怒りが、空気をより一層張り詰めさせていくような気がした。言葉にすることによって、自分自身の歩く理由を再確認するように。自分の生きていく理由を思い返すように。
「力強い父の背中を覚えていた。しっかりとした母の手のひらを覚えていた。軽やかな妹の脚を覚えていた。しなやかな弟の腕を覚えていた。そんな家族が、死ぬなんて、有り得ないんだよ。不意を突かれたに決まっている。俺なんかよりも余程強く、狩りも上手かった彼らが弱かったから死んだなんて、認めてはいけないのだ。だからこそ、家族を殺したアイツを殺して、俺より強かった家族の力を証明しなければいけないんだ」
身体が震える夜の寒さとはまた違う、身体の中心に氷の塊を無理やりねじ込まれたかのよう何かを感じた私は思わず息を呑んでしまう。何も見えないはずの闇の向こうから、ツカルジの眼がぼんやりと光ったような気がしたからだ。一瞬後にはそれが気のせいであることに気づくのだが、純然たる敵意というものはここまで恐ろしいものなのか。それは私が今まで他人に向けられていたものとはまるで比べ物にならないものだった。
返す答えなどまるで期待していなかったのか、それとも言いたいことを言ったのか。或いは両方かもしれないが、話は終わりだと言わんばかりにツカルジは黙りこくってしまった。彼に向かって何かを言えるような雰囲気ではない。誰も何も話すことなく、そのまま夜は更けていく。
この世界においては、弱いものが死に、強いものが生きる。それだけが全てだ。強くないと食べるものを手に入れることが出来ないし、自分の食べ物を守ることすら出来ない。頭の中ではわかっていても、納得できるほどは大人になれていない。どこを見ていいのかわからないのか、私はただ何も無い闇を見つめることしかできなかった。
「そういえば、お前」
しばしの静寂を切り裂く、ツカルジの呟き。このまま次の夜まで何も言わないと思っていたのか、私は驚きのあまり身体が飛び跳ねてしまう。暗闇で相手の姿は見えない筈だったが、ツカルジの小さく鼻で笑うような声が微かに聞こえてきた。
「そういえば聞き忘れていた。お前には、名前が、あるのか? 俺のような、自分自身を表す記号だ」
ツカルジのような名前。自信が自身であることを表すもの。とても素晴らしいものだ。私にとってそれは、とても愛おしいものだ。例えどんなに時が経ったとしてもツカルジという名前は未来永劫に忘れることは無いだろうものだからだ。
「私の、名前かぁ――」
そんなもの、考えたこともなかった。『追いかけるもの』と違って、『私』はただの『私』だ。深い意味などない。ただそれだけだと私は思っていた。
「無いのか」
「無いね」
「そうか、ならいい」
何がいいんだろうか。釈然としない思いを抱えているうちに空がだんだん明るくなってきた。沈黙を再開したツカルジはゆっくりと立ち上がり、大きく伸びをする。私は再び歩く準備整えながら、ダケラケを追いかける彼の背中を見つめていた。
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