微笑う死神の追憶 -幾億の夜を抱えて-

木村竜史

プロローグ『エドナ』

思い出せない声

 空は二つの月を除いて、途方もないほどの闇が拡がっている。


 思えば遠くまで来たものだ。中身が殆ど尽きてしまった水筒の中身に口をつけながら、瓦礫に腰をかけた女は夜空を見上げていた。彼女の視線の先には形が微妙に違う二つの月が銀と金に輝き、地上のあらゆる全てを見下ろしている。まるで、また孤独になってしまった自分自身を見守ってくれる宇宙の眼球のようだ。女が自嘲気味に口角を上げても、それを認識する存在はひとつもなかった。彼女の周りには生命の気配など何一つ存在していなかったし、彼女の耳に入る音は風の音と自身の息遣いだけであった。


 朽ち果てて今にも崩れ落ちそうな建物と建物の間を吹き抜ける砂埃を多分に含んだ乾いた風が、静かに燃え続けるような紅い髪を揺らしていく。髪と髪の間に砂塵が入り込む不快感に、彼女の細い眉が眉間に寄せられた。


 髪と同じ紅い瞳に入り込んだ砂粒を拭う女の掌は浅黒い。まるで燃えるような紅い髪もそうだが、彼女の肌の色はこの地域では珍しい色をしていた。陽の光に焼かれたものとは少し違うそれは、ボロボロのレザージャケットを羽織った薄手の白いシャツと動きやすそうなズボンという服装もあり、廃墟よりも地平線が見れるほどの草原や荒野が似合うような姿だった。その腰には小振りな刀剣の鞘がぶら下げてある。ファッションのアクセサリーにしては主張が強すぎたが、それを咎める者はいなかった。


 女は空から見下ろしている二つの眼球から逃れるように視線を足元に移す。何度見たかなど、数えることすら放棄するほどに様々な夜空を見上げてきた。繰り返される夜空と夜空の間に、たくさんの人が産まれては生きて、そして死んでいった。


 家族を失った者、家族を置いていく者。

 夢を叶えた者、夢に殺された者。

 欲望のままに生きた者、夢のために生きた者。

 何もかも失った者、何かを手に入れた者。


 ありとあらゆる命たちが、女のすぐ横を通り抜けていった。長い長い年月を生きてきた彼女にとって、それは当たり前の日常であったが、それを忘れるほどには愚かではなかった。彼女と同じ世界に生きる全ての人を、命を、彼女は愛していたのだ。


 予め集めておいていた木材を適当に組み上げ、火をつける。二つの月が照らしていただけの闇から、灯りが一つ追加された。炎の温もりが、孤独に慣れている彼女の胸の中をほんの僅かに満たしていく。


『エドナ』


 女は辺りを見回す。それは炎と風の音によって生み出された空耳かもしれないが彼女の脳を震わせた、自身の名前を呼ぶ声はどこか聞き覚えのあるものだったが、誰のものであるかはすぐには出てこなかった。長い足取りの中でエドナがはっきりとした孤独を感じたのは一度や二度では無かったが、まさか頭の中の声でそれを感じることになるとは思っていなかった為に、彼女は誰に向けた訳でもない乾いた笑いをあげることしか出来なかった。


「まったく、慣れたと思ったんだけどなぁ」


 コントラルトの声とともに、エドナは完全に中身が尽きてしまった水筒を放り投げる。彼女が思ったよりも遠くまで飛んでいった水筒は、荒びきった舗装路に落ちて間抜けな音を立てた。


「これで手持ちの食料は空っぽかぁ」


 小さく息を吐き、一瞬だけ名残惜しそうな目を水筒の方向へと向けたエドナは目を閉じ、思考に耽る。頭の中で聞こえてきた声は未だに誰のものかわからなかったが、懐かしいものであったことだけは事実だ。今の彼女にとっては、何も無くなってしまった食料も重要ではあったが、誰のものか思い出せない声の方が余程問題であった。歯と歯の間にものが挟まったかのような不快感は、エドナの中で徐々に大きくなっていく。


 途方のない年月を生きてきた彼女において『記憶』というものは何よりもかけがえのないものだが、その全てが美しく彩られたものではない。それでも永劫ともいえる長い時間を生きてきたエドナにとっては、何もかもが愛すべきものなのだ。それが彼女が生きてきた証であると同時に、幾万の命が紡がれてきたことの証明であるからだ。


「まぁ、どうにかなるでしょ。今までどうにかなってきたことだし」


 エドナは不快感と不安を拭い去るように大きく伸びをして、鞄からコンパスを取り出す。非常に年季の入った外側が歪んだものだったが、針はまだ北を指している。


「さてと」


 誰に言うつもりでもなく、エドナは足元に転がっていた薪に使うつもりだった細く短い棒切れを地面に立て、ゆっくりと離した。重力に従って棒は倒れ、乾いた音を奏でる。それはこれから行くべき方向を示す単音。彼女が行く道を決める時、決まって行うルーティンであった。


「西、だね。それじゃあ気ままに行きますか」


 ゆっくりと立ち上がり、未だ燃え続けている炎をそのままにエドナは西に向かって歩き出す。もうすぐ寒気がくる。炎の暖かさに包まれていれば幾らか気は紛れたかもしれない。それでも、彼女にとっては足を進めることが重要だったのだ。


 歩き続けること。生き続けること。それを止めてはいけない。強迫観念にも似た感情に包まれたエドナは、微笑みながら1歩1歩確実に進み続ける。


 彼女には、そうした生き方しか出来ない。この世界において『ヒト』と呼ばれる種族が生まれてから、殆どが滅びてしまった現在までのおよそ九千万日。それまでのありとあらゆる歴史をエドナの瞳は見てきたのだ。見るもの、聞くものといった感じるもの全てを自身の魂に刻みつけてきたのだ。


「そういえば、1番寒かったのはあの時だったっけな」


エドナは歩きながら記憶を辿ることにする。思い出すことの出来ない脳の奥底にしまい込んだ声が誰のものなのか、一番古い記憶から順番に思い出すことにしたのだ。


幸い、彼女には時間はひたすらにあるのだ。それこそ、この世界が急に終焉を迎えない限りには。長い旅路がいつ終わるかなど、誰にも分からないのだから。


一面の銀世界が、エドナの頭の中で拡がっていく。『ヒト』そのものの記憶と例えても差し支えないほどの膨大な数の思い出をゆっくりと引き出していくと、彼女の脳内で一面の銀世界が広がった。

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