第九章 ジァン
聖人と行き倒れ
私が歩いているうちに、文明はどんどん進歩していく。荒野は少しずつ平らになり、人やウマが安全に歩けるように整備されていく。
「便利な世の中になったもんだねぇ」
小刻みに揺れる馬車の中で、私は小さく息を吐く。よほど大きな都市の周辺でなければ、このような馬車は通ることは出来なかった。たくさんの荷物を抱えて長距離を移動するには、こういったものが重宝される。
いつものように一人で歩いていたところ、偶然にも目的地の方面が同じだという馬車の主が好意で乗せてくれた。時折行われる荷物の出し入れを手伝いながら、こうして進んでいるという訳だ。
「マッキローまではまだまだ時間がかかるぞー、疲れたなら寝てたらどうだね?」
二頭のウマを器用に操る小太りの男の声は、とても朗らかなものだ。先程立ち寄った村での取引がうまくいったらしい。実際に私が横になっている荷台の中には沢山の品物が収められていた。
「ありがとう、そうさせてもらうよトルナイさん」
マッキローの街へはこの馬車でも10日はかかるだろう。道中で様々なものを仕入れながら、目的地に向かうのだ。トルナイの言うとおり、疲労を溜めたまま進むには道は長すぎる。
私たちを見下ろす青空は、雲一つ存在していなかった。大きな荷台の中にも、穏やかで優しい風が私の身体を通り抜けていった。こういう時こそ、ゆっくりと眠りにつくのが一番の贅沢なのかもしれない。小刻みにゆれる馬車の振動が、私を眠りに誘っていく。
徐々に重くなっていく瞼。遠くなっていく意識。『死』を得ることがないまま生きてきた私だけれど、眠りにつく時に時折思う。夜に寝て朝に起きるまでの意識が完全になくなっている時間――それが永遠に続くのが『死』なのではないのか。考えることも感じることもできずに、ただただ深い闇へと沈んでいく。
それはとても恐ろしいものだ。そして、ヒトが生きている限り、必ず訪れる……訪れてしまう『死』は、私にだけはやってこない。それに関して疑問に思うことは、もうとっくにやめている。考えても答えが出ないならば、考えるだけ無駄なのだから。いつか遠い未来に、その時の私が答えを得るだろう。
意識は殆ど落ちていた。瞼は完全に塞がっていたし、寝息すら立てていたかもしれない。
「うおぉ!?」
それでもトルナイの驚いた声とウマの嘶きは耳に入った。まさか賊でも現れたのか。木のツルギが納められた鞘を手に取って荷台から飛び出すと、少し進んだ先の道の真ん中で倒れているヒトの姿があった。ここから見る限り生きているのか死んでいるのかはわからないが、見捨てるつもりはない。
「大丈夫かい⁉︎」
鉄の錆のような色の外套を深く被った行き倒れの肩を抱く。どうやら息はあるようだ。細身ながらもがっしりとした体型からして、どうやら男のようだが、今まで触ったことのない不思議な感触に片眉を上げる。筋肉を誇る男なら何人も見たことがあるし、その肉体に触ってみたこともある。それとは比較にならないほど、男の細い身体には高密度の筋肉が纏われていた。
こんな屈強な男が、どうしてこんな場所で倒れているのだろうか。なにか病気とかなのかもしれないが、躊躇うつもりもない。
「どうしたどうしたどうしたどうした、生きてるか!?」
思案する私に続き、トルナイもドタドタと土煙を上げながら行き倒れの元へと駆けていく。
「おいおいおいおいおい! 平気かね!?」
耳元で叫ぶのはよろしくないと思うのだが、冷静さを失っている彼にそこまで言うのは酷だろう。それでも、彼の大声は行き倒れの意識を取り戻させる効果があったようだ。
「た、助かった……!」
呻き声とともに、吐き出された言葉は東方の訛りが強いものだった。ウマなどの姿が見えないということは、まさかあの辺りから歩いてきたのか。普通に歩いて100日は余裕でかかる。私でなければ、大いに躊躇うような旅路だ。
「水、飲むかね……? 少なくて申し訳ないが」
「す、すまない……!」
トルナイに手渡された水筒を受け取った男は、躊躇うことなく中身を一気に飲み干す。摂取した水分を身体中に染み渡らせるように大きく息を吐いた後、私たちに向かって大きく頭を下げた。
「本当に助かり申した。ところでリマナはどちらの方向だろうか?」
「リマナ? あぁ、ずっと西の方向だが」
「なるほど、感謝致す」
男はトルナイの答えに再び頭を下げ、飛び跳ねるように立ち上がる。そしてそのまま歩いていこうとするが、足元が覚束無い。なにかにつまずいてもう一度倒れてしまった。何事も無かったかのようにゆっくりと立ち上がるが、その歩き方に違和感を覚える。
「もしかして、目が良くないのかい?」
頷く男の瞳は白く濁っていた。まるで陸に打ち上げられたまま腐ってしまった魚のような瞳だ。後ろに纏められている夜の闇のような彼の黒髪と相まって、一層白く見える。しかし、彼の瞳はしっかりと前のほうを見つめている。逆に彼は世界の何もかも見通しているようにすら思えてしまうほどに。
「見えるものが全てではないのでな、前など見えなくても問題はない」
「だったら尚更無理はしない方が――」
「無理などしていない。一刻も早くリマナに行かなければならないのだ」
私の声を一蹴し、再び西へと歩いていく男を追いかけようと足に力を入れる。
「あぁもう待ちたまえ!」
呼び止めるのはトルナイの叫び。温厚そのものである彼であったが、その声はほとんど怒号のようなものだった。びくり、と身体を震わせてしまうのは私だけではない。目が見えない分、聴覚が発達しているのか男は驚いた顔で声の方へと顔を向けていた。
「ちょうどそちらの方向に行くんだよ!乗っていくといい!」
「いや、あいにく手持ちが――」
「そんなものは必要ない!出来る限り私の仕事を手伝って、自分が食べるものは自分で確保してくれればいいから!」
ヒトは神を作り出し、その奇跡と恩恵を受けたものを聖人といった。聖人はその御業で数多のヒト達を救い導いたといわれているが、今まで神を見たことがない私はそれを信じていない。それでも、こうやって素性の知れない私や男の事を考えて行動することのできるトルナイのような男が、聖人と呼ばれるべきだ。
目の前のヒトを救うことがどれだけ難しいのか、わからない者は多いのだから。
「……ジァンだ。この恩は必ず、必ず返す」
姿勢を正し、強く握られた彼の右の拳を左手が包み込む。それは東方の敬礼を示すものであったが、トルナイにはよくわからなかったようで、首を傾げている。それでも彼の志は理解したのか、心底から安心したような笑みを浮かべていた。
少し後ろで退屈したようなウマの鳴き声が聞こえる。街道はまだまだ続いていく。
西への旅路はまだ、始まったばかりなのだ。
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