拳士の行き先
かの胡椒王は莫大な資産を用いて、全ての旅人の為に道という道を整備した。ある道は砂利や砂を踏み固め、ある道は乱系の石を敷き詰めていく。馬車も余裕を持って走れるようになり、大規模な商団を組むことなく、一台の馬車で商売を行うことも容易い時代になっていた。
だからこそ、それを狙う輩も多数存在する。実際に私たちが乗っている馬車へと向かってウマに乗った四人の男たちがツルギを剥き出しにして駆けてきていた。まるでこちらを威嚇するように蹄を激しく打ち付けながら風のようにやってくる彼らから逃げる為に手綱を握りしめるトルナイのすぐ後ろで、錆色の外套がぬらりと揺らめく。縁を掴んでいなければ立ってもいられないほどに激しく揺れる荷台であったが、ジァンが大地の上かと錯覚してしまうほどに、ごく自然体で立ち上がっていた。
「烏合か」
濁った瞳は何も映さない。それきり何も言わず、杖も持たずにすらりと荷台から飛び降りたジァンに向かって賊たちは雄叫びを上げて殺到していく。
「ちょっと!」
加勢しなければとツルギを掴み、どうやって荷台から降りたものかと四苦八苦している間に、事態はほぼ収束していた。
「おがががが……」
「い、痛てぇ……!」
「……折れ、折れてるッ!?」
賊たちはみなウマから投げ出され、痛々しく地面に転がっていた。顔を強かに打ち付けたのか鼻と口から血が吹き出ていたり、腕があらぬ方向へと折れ曲がったりしている。
「オィ、どんな手品を使いやがった!? えぇ!?」
残る男はなんとか着地に成功したのだろう。抜き身のツルギを翻し、ジァンに向けている。その先端が向けられていることに、彼が気づいているかは分からない。男の放つ殺気も、ジァンはまるで動じない。
「何もしておらぬ。ただ転ばせた、それだけよ」
「舐めた口利きやがって……!」
男は口の端から涎を撒き散らしながら、ツルギを大きく振り上げる。重量と速度が合わさった力任せの一撃は、ヒトの身体に致命傷を与えることなど造作もないだろう。身体から臓物を撒き散らしながら倒れる盲目の男の姿が頭の中に過る。
「ジァン!」
私の叫びが届いたのかどうかわからないが、ジァンの口角が微かに上がって見えた。それは恐怖に引き攣ったようには見えず、まるで獲物を見つけた狩人のような、ある種の余裕さすら感じられるものであった。
「おるああああああああああッ!」
結局雄叫びと共に振るわれたその一撃はジァンに届くことはなかった。それだけではなく、男が幾らツルギを振り回しても、その刃がジァンに触れることはない。ジザグのように勝手に外れているわけではない。確かな殺気が込められた鋭い刃を、川の上の木の葉のようにゆらりゆらりとすり抜けるように避けていく。
ただ避けるだけではない。本当に、手品というよりも舞踊だった。どうやったらそのように身体が動くのか、理解が追いつかない。ジァンの一対の腕、一対の脚がまるで別の生き物のように動き回り、男の全身を的確に打ちのめしていく。
「ふ、ふ、ふざ、ふざけるんじャねぇぞ――!」
たたらを踏む男もやられてばかりではいない。顔や腕は腫れ上がり、ところどころから血を流しながらも果敢にツルギを振るっていく。もし私がそのツルギを受け止めていたならば、とっくに私の身体はバラバラになっているだろう。そんな剣撃も、ジァンには通じない。目が見えているとは思えないほどに軽やかな動きで、切っ先を避け、蹴りを躱し、反撃を続けていく。
ジァンの左の手の甲が男の頬を叩いたと思えば、右の爪先が足の甲を踏み抜き、右肘が鳩尾に突き刺さる。そんな動作と動作の組み合わせが幾重にも重なりあうその光景は、ヒトが痛めつけられているにも関わらず、何故か荘厳さすら感じるものだった。
「ごふぅぁッ」
口から胃の内容物を吐き出しながら折れ曲がり下がる男の顎に向かってジァンは掌底を叩き込む。
「嚇啊ッ!」
骨が粉々に砕ける嫌な音とともに跳ね上がる男の身体に向かって、鼓膜を激しく震わせる獣の咆哮と共に両の正拳を打ち抜く。ヒトの肉体によるものとは思えない轟音と共に、吹き飛んだ男はそのまま立ち上がることはなかった。
それ以上、ジァンは追撃を加えることはなかった。外套の砂埃を軽く払い、荷台へと向かってよたよたと歩いていく。慌てて彼の手を取り、先導していると先ほどの動きがまるで嘘のように思えてしまう。彼が歩く時は杖が必要だが、杖さえあれば足取りはしっかりとしたものだ。障害物も段差も、見えているかのようにすいすいと進んでいく。逆に言えば、杖がないとこのような足取りになるのだろう。
思い返してみれば、剣撃を避けているときのジァンの足はそこまで動いていなかった。上半身の動きだけで、あそこまで翻弄できるとは、翻弄する型があるとは知らなかった。己の体を武器にするという発想自体が思い浮かばなかったのだ。
再び動き出した馬車は、何事も無かったかのように街道を進んでいく。ジァンは荷台に背もたれたまま、ずっと瞳を閉じていた。話しかければきちんと応えてくれるし、聞く姿勢もきちんとしていている。それでも、彼が自分から口を開くことはない。
「あれは少しやりすぎだったんじゃないかい?」
だから、必然と私から話しかけることになる。痛めつけられた男は、顔だけではなく全身が腫れ上がっていて、痛々しいものだった。死ぬことはないとは思うが、無力化するだけでよかったのではないのだろうかと思ってしまうほどに、彼らは打ちのめされていたのだ。
「彼奴らは我々を殺して荷物を奪うつもりだったのだろう?」
「そ、それはそうだけど」
それを忘れてはならない、と確認するようにジァンの見えていないはずの眼球が私を見据える。白く濁った瞳は、私の姿をどう捉えているのだろうか。
「拙の国では盗みを働いたものは殺すか、両手両足を斬り落とす。更には親族にまで責任が取られることさえもある。硬いものが食えなくなったぐらいで済んだならば、十分温情的ではないのか」
これ以上話すことはないとでもいうように、ジァンは目を閉じ腕を組む。揺れる荷台の中で沈黙が私たちの間を通り抜けていく。
「それでも、人が死なないだけで十分だよ。荷物も守れたことだしね」
トルナイがこちらを向いて笑いかけている。当たり前の話ではあるが、聖人のような彼でも、自分に刃を向けた相手は別のようだ。むしろ神の使いの伝承のように、それすらも赦せる者など、この大地に存在するか怪しい。ヒトは食べるものが奪われたならば飢えて死ぬ。ツルギで斬られれば血を流して死ぬのだ。命を脅かしてきた者に対して施しを与えるようなヒトは、とっくに土の中でそのことを後悔しているだろう。
冷静になって考えてみると、やりすぎに見えるジァンの仕打ちではあったが、それはあくまで互いの力量に明確な差があったからだ。仮に私が相手をしたならば、絶対に状況は酷いものになっていた。だからこそ、『あの程度』で済んだならばお互いにとってよかったのかもしれない。
「それにしても本当に強いね。ジァン、キミはリマナにはやっぱり――」
「……左様だ。身を立てる為に」
身を立てるという意味がわからず、首を傾げてしまう。恐らく素っ頓狂な顔をしていただろうが、前を向いているトルナイと、目が見えないジァン。二人にそれを見られていないのがせめてもの救いだった。気を改めて小さく咳払いをする。
「……どういうこと?」
「リマナはね、闘いを求める国なんだ」
リマナという国のことを何も知らない私にトルナイがまとめてくれた話は簡潔で分かり易かった。リマナは小国で、更には枯れた土地にある。数十年前までは領民は飢えに絶えず襲われ続け、王でさえ質素な生活を強いられるほどだったという。
それでも、リマナの男達は屈強であった。いつしかリマナの兵たちは、他の国の兵の代わりに戦場に出た。矢の降り注ぐ死地に命を貸し出し、恨んでもいない国の兵たちを殺す代わりに、幾ばくかの金を手に入れる。それを繰り返し、繁栄していった国なのだ。何も持っていなかった一兵卒が数多の戦場を駆け抜けて血を浴び続けた結果、高い地位を得ることも多々あり、いつの間にかこの国は腕に自信のある者たちが集う戦士たちの希望郷になっていた。
「なるほど、つまりはリマナには仕官の為に行きたいんだね」
「少し違う。あと十日ほどで、中心地で一番強い者を決める催しがある。そこで勝ち上がれば、大陸一の戦士の栄誉が得られるのだ」
ジァンは目を閉じたまま、右の手を開いたり閉じたりしている。大陸一の戦士がどうだとか、正直なところあまり興味はない。しかし盲目の拳士がどこまでいけるか、それは大いに気になるものだった。
「拙は、この拳で何処まで行けるか、試したい。ただ、それだけだ」
ぐっと力強く握りしめられたジァンの拳は、この大地の何よりも硬そうで、何もかも砕いてしまいそうな威圧感があった。
「あと十日!? 急がないととても間に合わないよ⁉︎」
トルナイの悲痛な声が、街道の空に吸い込まれていく。ジァンの表情は決意に満ちたものから全く変わらないが、額から冷や汗が一筋垂れるのを見逃せなかった。
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