記憶を呼び覚ます歌
「ワーッハッハッハッハ!」
夜の山に笑い声が響き渡る。まるで熊の雄叫びのようだ。耳の奥が痺れていくけれど、ジザグはそんなことには気付かないままに瓶の中身を飲みながら叫び続ける。
「飲め飲め飲め飲めお前も飲め! もちろん姐さんも、な!」
太い腕でカウカウの肉を直接掴み、大きな口で頬張る彼の顔は酒により真っ赤に染まっている。熟しすぎたロイゼユの実のようだ。
「もうとっくに飲んでますよウヘヘヘヘ。飲まなきゃやってられねぇですよウヘヘヘヘへへ」
ハシュの顔はジザグのそれ以上に赤い。先程までの冷静さが見る影もないほどに笑い続けている。頭はぐるぐると回っているし、視線もどこへ向いているのかもわからない。このまま酔いつぶれるのも、時間の問題だろう。
「ふぅ、なかなかいいもんじゃないか。よくこんな上物を持ってたね」
「このジザグ様のとっておきってやつよ! 遠慮しないでガーンガン飲んでくれ!」
香辛料で味付けされたカウカウと、酒の相性がよくてついつい飲みすぎてしまう。酒を飲むのは本当に久しぶりではあるが、味は格段に良くなっている。こうやって口にしているカウカウの肉の調理方法と同じだ。人々の研鑽は、私が歩いているうちに確実に、そしてずっと続いていくのだ。
酒に酔っていたのだろう。口が軽くなっていくのを抑えていたつもりではあったが、言葉は私の口からするり、と零れ落ちてしまう。
「……二人はいい奴だね。死神なんて呼ばれてた私に、こうやって肉や酒を振舞ってくれる。こうやって、隣で笑ってくれる。久しく忘れていたよ」
眉を少しだけ上にあげたジザグは、記憶を辿るように顎に手を当てて暫しの間、思考する。騒がしかった山が元々の静寂を僅かの間ではあるが取り戻す。
「あー、確かに紅い髪をした女の死神の伝承なんていくらでもあるよなぁ。でもなぁ、俺らの住んでたところでは死神なんかじゃなくて富を齎す存在って言われてたんだ。だからな、気にするもんじゃねぇよ姐さん! たかが髪が紅いだけ、そんだけじゃねぇか!」
焚き火に照らされた私の髪の毛は、きっと炎と一体化したかのように紅く揺らめいているだろう。それを見ることなく、ジザグは豪快に笑う。
たとえ気休めで言っていたとしても、酒で感情の楔を外されかけている今ではとても助かるような気がした。
「ここには何もねぇ! 何もねぇんだよ!」
彼の言葉を噛み締めている間に、ジザグは同じ話を何度も繰り返していた。それにハシュは突っ込むことなく、気持ちの悪い笑みをずっと浮かべている。あまりの異様な光景に先ほどまで抱いていた感謝の念はあっという間に夜の闇に吸い込まれていく。
「肉は狩るしか、酒は近くの村で働いた報酬として頂くぐらいしか手に入らねぇ! ここにはコッパと野草ぐらいしかねぇからよ、とにかく金が欲しくてなぁ……!」
「コッパ?」
「えーと、あの肉にまぶしてあったヤツだよ。保存が効いたり味が良くなったりするけど、単体で食うもんじゃねぇ。辛ぇし腹にも溜まらねぇからな」
あの香辛料か。そう思いながらカウカウの肉を頬張る。本当にこの香辛料……コッパとの相性は抜群だ。しかし、これを売り捌けば、かなりの富になるのではないだろうか。それに彼らは気づいていないのだ。あくまでただの木の実や野草の延長でしか捉えられていない。
「これ、売らないのかい?」
「馬ァ鹿言っちゃいけねぇよ、こんなん売れるわけねぇだろ。腹膨れねぇんだぞ」
やはりか。彼らはこの香辛料の値打ちに気づいていないのだ。もう珍しいカウカウの肉に大量に振りかけられたコッパ。この料理の価値に。
「ジザグ、西に行くといい。ずっと、ずっと西だ。西に行けば行くほどにその手の香辛料は高く売れる。それこそ、同じ重さの宝石ぐらいにね」
「は? 同じ重さの宝石? この山だけで引くほど」
「食料の保存や香に使うんだと。そこでは富の象徴って言われるほどみたいだよ」
西の大地は暖気が強いし日が長い。動物の肉なんて、すぐに腐ってしまう。それを少しでも長持ちさせるように香辛料を振りかけたり、干した肉に味付けをする等の目的で使われる。
身分の高い者たちは、食に拘りを持っていることが多い。香辛料は味に深みを与えるのに手っ取り早い食材だ。地域によっては塩も手に入りにくいところならば、尚更だ。そして、西の大地はまさにそういった風土だ。そこならば、コッパを育て、売り捌くだけで大儲けは間違いないだろう。
「――行くか?」
炎をじっと見つめながら、思案げな表情で放たれたジザグの呟きに、いつの間にかハシュが後ろからぬるり、と顔を出した。年老いた犬かと思えば、爬虫類のようにも動けるのか。
「行っちまいましょうよ、ホラーソの財産がなかったんだ。これで一山当てられるなら、それでいいじゃないですか、ウヘヘヘヘ」
「行っちまうか! そうと決まれば! アレ持ってこいアレ! 今夜は騒ぐぞ!」
ジザグの叫びを聞くよりも早く、待ってましたとばかりにハシュが懐から持ってきたのは細く長い笛だった。
見覚えがあるカタチ。それを見た瞬間に、頭の奥から記憶が大波のように私の中を駆け巡った。まさか、バド。君なのか。
そう思うよりも早く、ハシュは笛に息を吹き込んでいた。はっきりとした旋律が、空気を震わせて私の耳の中に入り込むのと同時に、バドの野太い歌声も同時に聞こえてきた。
「あ――」
それは、旅人の歌だった。朝日が昇っても、日が沈んでも、歩いて歩いて歩いて歩いて、ただひたすらに旅を続けていく。そんな旅人の足の向かう先の平穏を、そしてなにより、旅人に永遠の祝福を与えるような歌だった。
ハシュの笛の音も正直なところ下手だし、ジザグの野太い歌声もあって、不協和音になる一歩手前といったところだ。形態は似ているものの、バドとラスーが演奏していたものとはまるで違う。リズムも音階も、曲調すらも異なるもの。それでも、確かに感じるのだ。砂漠で出会い、ほんの一瞬だけではあるが共に生きた彼らの声を。彼らの生きた証を。
笛を吹き、歌っている彼らにもわからないのだろう。この歌は、私に向けられているものだ。これは自惚れではなく、紛れもない確信。
『だから、約束してほしい。何度もキミの事を歌おう。キミの歌を、この大地の果てまで届けよう。もし遠いどこかで、キミがその歌を聴くことができたならば、その時はどうか、どうか――あの舞っている時のキミのように、前を向いてほしい』
ハドの言葉がはっきりと頭の奥から聞こえてきたことに気が付くと同時に、何か頭の奥でかちり、と音が聞こえた気がした。
ヒトの形をしたケモノを何匹も何匹も殺してきた私は、それ以上の数のヒトを救う為に生きてきた。ヒトを救うといっても、所詮はただの自己満足でしかない。やることが仇になったことや、救えたはずの命を取りこぼしたことなど、一度や二度ではない。その度に、後悔を繰り返して、いつの間にか足元や後ろばかり見ていた。
前を向いて、いいのかな。自分自身への呟きは、どこにも吸い込まれることなく、夜の闇へと消えていく。
宴は続いていく。私も酒を煽りながら、陽気に歌い、笛を吹いている二人に向かって手拍子で応えたり、合いの手を入れたりした。久しぶりの騒がしく、そして楽しい時間はあっという間に過ぎ去っていく。
気がつけば夜は明けていて、ジザグ達は折り重なるように睡眠を貪っていた。鼾の二重奏が、昨晩の演奏より断然調和していて、つい笑みがこぼれた。
「ありがとう、私も、前を向いてみるよ」
私に『惚れた』と言ってくれたジザグの気持ちに応えることはできない。賭けに出る男には、女など必要ないからだ。男にとっての女、女にとっての男は強みにもなるが、弱みにもなる。負ける要素は、少しでも彼の目の前から消し去っておきたかった。それでも彼らから受け取った分の、私からの祝福ぐらいは。
髭だらけの頬に軽く口づけを残し、静かに身支度を整え、山を下っていく。優しい風に背中を押されて、足取りは軽い。視界が広い。今の私なら、どこまでも歩いていけそうだ。
突き抜けていく青空に、二つの月が薄らと浮かんでいた。双眼に見下ろされながら、力強く足を踏み込み、歩いていく。何処へ行くかは、歩きながら考えることにした。
その後、『胡椒王』と呼ばれる豪商となったジザグの成功を街中で聞き、彼の使者に追いかけられることになるのは、また別の記憶だったりする。
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