死を運ぶ船

 潮の流れに従ってゆらりゆらりと揺れながらこちらに向かってくる大きな船を見た瞬間、全てを察する。あそこからは、『死』の気配しか感じない。


 まるで船自体が大きな死体のようだ。命の気配を感じさせぬままに流れ着いた木造の船は、私がここに流れ着く前に乗っていた船よりずっと多い。この中にどれだけの『死』が詰め込まれているのか。想像するだけで背中の骨に冷気が伝わってくるようだ。


 それでも、バラナシオは止まることはなかった。磯の香りを打ち消してしまうほどの異臭が潮風に乗ってやってきても、屈することなく飛ぶように船に乗り移る。


「おーい! 誰か生きてないか!?」


 やや遅れてニッティが私を追い抜いて船へと取り付く。船体の構造上、生まれる僅かな段差に指や足を引っ掛けて軽やかに登っていく。バラナシオもそうだが、片手に長い棒を持っているとは思えないほどに無駄のない動きだった。


 あっという間に甲板へと到達したニッティは身体を乗り出しながら私に向かって棒を伸ばしながら声をかける。


「エドナ、手伝ってくれるかい!?」


 自分の意思を伝えるように大きく頷く。私も、二人のように命を救いたい。近づけば近づくほど濃くなっていく『死』の気配を振り払うように棒にしがみつく。ニッティの助けを得ながらなんとか船に乗り込んだ。


 船上は異様な光景だった。辺りに開けられた樽が転がっている。中身はほとんど残っていないが、果実が腐ったような香りだけが残っている。帆も見るも無惨なほどに朽ち果てていて、よくここまで来れたものだと感心するほどだ。


 ニッティは何も言わず、身の丈よりも長い棒を槍のように構えながら滑るように進んでいた。辺りを観察している状況でもないことを実感した私は慌てて彼女の後ろに駆け寄る。傷んだ木材を軋ませながら居住スペースに近づけば近づくほどに、異臭と『死』の気配は強くなっていく。


 どこもかしこも『死』の気配が漂っている。まるで私たちがとっくに死んでしまったのかと錯覚してしまう程に、この船の中は異様な雰囲気に包まれていた。


 戸を開くと男か女かさえ分からないほどに腐敗した死体が横たわっていた。暖かな気候が腐食を早めたのだろう。細かな虫たちが肉を食い尽くすよりも早く、身体が腐りきったのだろう。吐き気を催すような異臭は至る所から漂ってきていて、鼻が捻じ切れそうだ。


 どの部屋を開けても、死体があった。寝具に横たわるようなものもあれば、折り重なるように倒れているものある。誰も彼もがもがき苦しんだ末に命を落としたような、苦痛の色が濃い死に顔をしていた。安らかな顔で眠っている死体など、ただのひとつも無い。


「行こう」


 小さく呟く。まるで返事のように、ぎりり、と前から歯を食いしばる音が聞こえた。背中を向けたニッティがどんな顔をしているのかはわからない。それでも、私たちは毛先ほどの望みを捨ててはいけないのだ。


 不思議なことに、奥へ進めば進むほど死体の腐敗の進み方が遅いような気がした。最奥にほど近いこの部屋においては、死体の損傷はほとんど見られない。まるで数日前に息を引き取ったように見える。だからこそ、苦悶に満ちた表情や辺りに撒き散らされた嘔吐物、痩せ細った身体。そして、黒ずんだ指先。


 これは。


 まさか。


 このような症状で死んでいった者たちを何人も何人も見たことがある。罹ったらまず助かることのない恐ろしい流行病だ。死ぬことのない私はともかく、二人が危ない。とにかくここから待避させなければ。


「――――い……!」


 微かにバラナシオの声が聞こえる。奥の方で何かを見つけたようだ。


「あっちか! 急ぐよ、エドナ!」


 私が静止の声をかけるよりも早くニッティは手に持った棒を放り出して走り出す。同じ木材の上を駆けているというのに、彼女が足を踏み締めても床は全く軋まない。まるで空気すらも味方につけているようだ。


「ここか!」


 開かれたドアを通り抜けようとしたところ、バラナシオが一人の男を背負って出ようとしたところだった。痩せこけた頬と落ち込んだ眼窩を隠すように、くすんだ赤毛がだらりと垂れ下がっている。口の端からは涎と嘔吐物が混じったものが零れていて、今にもその命を散らしてしまいそうだった。


「生きてるのは、コイツだけだ……!」


 苦しそうな呟きは一言だけだった。


「だから、生かすぞ。何があっても」


 まっすぐ口を結んだバラナシオの声は、すぐいつもの調子に戻る。どんな命も救うことを誓った男は、出口を力強く睨みつける。


 何度も見ても彼の目は何人もヒトを殺した獣のものには見えない。全力で現在を生き抜こうとする、ヒトそのものの目にしか見えなかった。


「しに、がみ……?」


 そんなバラナシオとは対照的なほどに弱りきった男は私を見て、生気の抜けきった目を見開きながら怯えていた。高熱で顔は真っ赤になっているというのに、まるで真冬の湖から這い上がってきた直後のように震えている。


「死神なんかじゃない。この子は幸運の象徴だよ」


「あかい、あかい……かみ。おれを、つれて、いく、のか……」


 ニッティの声も届いていない。歯の根が合わないまま、うわ言を続けていく。彼は私のことを悍ましい死神にしか見えていないようだった。死の淵にあるものは、私が通り抜けてきた途方もない数の『死』を感じ取ってしまうのではないかとすら思えてくる。


「急ぐぞ!」


 バラナシオの声で我に返る。今はとにかく船の外に早急に出なければ。既に駆け出していた二人を追いかける。相変わらずバラナシオは男を抱えているとは思えないほどの速度だ。あっという間に外へ飛び出していく。


 兎に角にも今はただ、男の命が尽きないことを祈るばかりだ。ただでさえこの場は流行病の温床だ。一刻も早く出ることに越したことはない。ニッティと少し遅れて私も、いつの間にか岸へと流れ着いていた船から降りて砂浜へと降り立つ。


 砂浜と大地の境目あたりで、バラナシオは男を背負ったまま立ち尽くしていた。砂浜に刻まれた足跡は深く鋭いもので、つい先程まで彼が全力で足を踏み締めていたことが伺える。


 それでも、彼は足を止めた。理由などただ一つしか思い浮かばなかった。


「……クソっ! 結局俺たちは、なにも出来ないのか!?」


 彼が背負っていた男は、もう息をしていなかった。


 悔しげに吐き出されたバラナシオの叫びだけが、砂浜に遺されていた。

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