想いと誓い

 なぜ私は死なないのだろう。


 なぜ私以外のヒトは皆、死んでしまうのだろう。


 誰かひとりでも、私の隣をずっと歩いてくれればいいのに。そう思うのは、私が臆病だからだろうか。


 いつからか誰かの命が失われていくのを見るのが怖くて、心に蓋をするようになったけれど、その蓋は壊れていて、時折中身を覗かせる。怖くても、怖くても、ヒトの命の輝きというものは、私にとってとても美しいものに見えてしまうのだ。


 長くて数十年、短くて数日もない。私が歩いてきた道のりからすれば、瞬きにすら届かないような短い時間。何人もヒトを殺した私は、その輝きを求めてはいけない。ずっとずっと長い間、そう思っていた。


「ニッティは、どう、した」


 寝具の上に横たわるバラナシオに、『死』が近づいてきている。何もしなくても汗ばむほどに気温が高いというのに、真冬の砂漠に裸で放り出されたかのように青ざめ、歯の根が合わず震えている。いくら毛皮や布をかけたところで、彼の震えが止まることはなかった。


 あの船が流れ着いてから、10日も経っていない。バラナシオの背で息を引き取った男を埋葬してからすぐに、彼とニッティの二人は急に高熱を出した。呼吸がうまくいかなくなる様子は、あの船の死体たちが罹った流行病と同じ症状だ。こうなってしまうと、もう殆ど助かることはない。旅路の中で何度も彼らのようになって死んだヒトを見てきた。希望を持ちたいが持つことが出来ない。そう思えるほどに、バラナシオの容態は悪いものだった。


 具体的な対処法はまだ存在していない、存在していたとしてもわからない。ほんの僅かだとしても、命を長く保たせようと努めることしか出来ない現状に、歯噛みするしか出来ない。長く生きてきたところで、私の手から命が溢れていくのを止められない。言葉にできないほどの無力感に苛まれていく。


「隣で寝ているよ」


 せめて彼が出来るだけ安らかに逝けるように、嘘をついた。昨晩、ニッティは苦しみと闘いぬき、とうとう力尽きてしまった。鍛え抜かれた筋肉を全身に纏っていた彼女ですら、あの病には勝てなかった。誰も、この『死』そのものから逃れることはできない。


『どうせだったらバラナシオに抱かれてりゃよかった。アイツの子どもを産んでから、死にたかったな』


 丸太で造られた薄い壁の向こうを見つめながら、ニッティは小さく呟いていた。刃物で何度も傷つけられた痕が残る彼女の両腕は、数日前とは比べ物にならないほどに弱々しいものだった。


『――これも、罰なのかねぇ』


 ニッティはそう言って、深く息を吐く。それが、彼女の最後の言葉だった。ヒトを殺した数よりも、ヒトを救おうとしていた二人。そんな彼女たちに罪はあったのだろうか。与える罰は、あったのだろうか。


 バラナシオをどうにか寝かせた後、夜中のうちに彼女を土の中に埋めた。彼女の亡骸に土をかけながら、もうすぐもう一人がこの大地の中で眠ることになるという現実に、私の頭の中に後悔が浮かぶ。


「そう、か」


 私の嘘にバラナシオは小さく頷く。首を小さく動かすことすら、今の彼にはうまく出来ないようだった。苦痛に顔を顰めながら、息も絶え絶えになりながら声を出し続ける。


「いいから何も喋らないでよ。体力を使うもんじゃない」


 誤魔化すように、震えるバラナシオの身体に新たな布をかぶせていく。私の目をじっと見つめる彼の視線は数日前のあの時と同じだ。ヒトに戻れと叫んでいた時と、同じ目をしていた。


「嘘が、下手、だな……エド、ナ」


 胸の奥がどきり、と飛び跳ねた。


「――死ん、じまった、か、ニッティ」


 一緒に戦い、この島で暮らしていたと彼女との間にどういった関係性があったのか、それを窺い知ることはもう出来ないが、小さく呟いたバラナシオの声からはあらゆる感情がごちゃ混ぜになったようなものを感じた。それが戦友に対するものなのか、異性に対するものなのか。または肉親に対するものなのかわからないが、おそらく全てに対するものなのだろう。


「それで、俺も、もう……駄目なんだ、ろ?」


「そんなこと、言わないでよ。たくさんヒトを救うんだろ?」


 思わず彼の手を握る。絡み付いた指先は、嘘のように冷たかった。まるで、凍りついてしまったかのようだ。それでも、バラナシオはまだ生きている。その命を絞り切るように、彼は呼吸を――言葉を続けていく。


「自分の、身体だ。それぐらい、分かる……それで、言っとく、が、な。あの船で、手を伸ばしたことに、悔いは、ないぞ」


 私の手を握り返してくる氷の手から、生気は一切感じられない。紫色になった唇からは、もう掠れきった声しか出ていない。


 もうすぐバラナシオという男は死んでしまう。ヒトを救うために自らの命を投げ出した彼の言葉を、一字一句聞き漏らすことなど、あってはならないのだ。


「エドナ、俺たちの分まで、人を救ってくれ。命を……繋げてくれ」


 目が虚ろになっていく。呼吸が浅く早くなっていく。握られた手から力がどんどん抜けていく。彼の命が消えていく。弱々しくなっていく声を聞いているだけで、胸が締められるように痛む。溢れそうになる涙を堪えながら、手を強く握り、頷くことしか出来ない私は、何も出来ないただの女でしかなかった。


「エドナは、人だよ。ケモノでも、死神なんかでも……ない」


 そう言ってゆっくりと瞳を閉じたバラナシオは、それ以降瞼を開くことはなかった。


 また私のすぐ近くで命が消えていった。この瞬間だけは慣れないし、慣れてはいけないものだ。ヒトは死ぬ。当たり前のことだが、命は一人で一つしか持っていない。そのヒトが死ぬのは、一度きりなのだ。だから、命が消える瞬間だけは、忘れられない。忘れることができない。


 もう動かないバラナシオの身体を背負って外へ歩く。小柄な彼の遺体は、思ったより軽かった。ニッティのすぐ隣にバラナシオを埋める。隣で過ごしていた彼らを離れ離れにするのは、何か違う気がしたからだ。


 作業が一通り終わったあと、彼らが使っていた硬く長い木の棒を苦心しながらなんとか短く切り、彼らがいた印として大地に突き刺す。墓標にしてはあまりにも寂しいものではあるが、これでいいと思うことにした。


 棒に使われた木材は、寝床辺りに纏められていた。棒の形状を切るだけで相当な苦労したというのに、まるで鉄なのかと勘違いしてしまうほどに硬い。その硬度から、沈んでしまったツルギの代わりを作ろうと思い立ったのはいいが、納得のいくような出来栄えになるのに数日を要した。


 不格好なものではあるが、今の私にとってはヒトを殺すケモノ……ヒトを斬る為に振るっていたナーリアのツルギから、人を救うために振るう木製のツルギ。これ以上、誰も殺すことのないことを誓いながら、なんとか出来上がった木製のツルギを腰に差す。


 大地は繋がっている。海の底を伝って、どこまでもどこまでも、どこへ行っても、何があっても。


 力強いけれど包まれるような優しさを持った彼女と、誰かを救うことを諦めなかった彼が眠る大地の上を歩いていけるように。私が見送った、私が殺してしまった数多の命とともに、ヒトを救うための新たな旅路へと。


 命を救う。ヒトに戻る。私にそれが出来るかどうかなんて、わからない。血に濡れた手で何も救うことはできないとずっと思っていた。その考えは未だに拭い切れていない。私なんかがバラナシオとニッティのようになれるとは、到底思えない。それでも、一歩踏み出す勇気を、彼らは私に与えてくれたのだ。


「とりあえず、ここを出ないとなぁ」


 船なんて作ったことはないが、まぁなんとかなるだろう。何せ、時間はいくらでもあるのだから。遠い海の向こうを見ながら、誰もいない空に向かって呟いた。

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