懺悔の叫び
できるだけ早く、この場を出ようと思っていた。体が動けるようになってから、辺りを歩き回るようになってからその考えはだんだん強くなって言ったが、バラナシオとニッティの二人の笑顔を見ていると、後ろ髪を引かれてしまうのも、また事実なのだ。
着ていた服はボロボロになってしまった為、今はニッティのお古を着せてもらっていた。大柄で筋肉質でありながら肉感的でもある彼女が着ていた衣服は私にとってあらゆる場所が少し……いや、かなり大きい。ずっと海の中で沈んでいたせいで身体がうまく動かないのは服のせいではない筈だと思うことにした。
今、私が歩いているのは住居からそれほど遠くない森の中だ。じっとりとした湿気が多い気候だからか、今までいた大地とは似ているようで違うような気がする。照りつける太陽の光を少しでも多く受け止められるように、葉が大きく多い。地面に垂直に突き刺さっている幹も太く硬い。加工は大変そうだが、これだけ硬ければあの住居のような複雑な構造も可能になるのだろう。
それにしても、この森には人の気配がまるでしない。森自体がそれほど広くないからかもしれないが、この森からは人の手が入ったような形跡が余りにも少なすぎる。それこそ、バラナシオとニッティの二人しかこの森の周りで生活をしていないようだ。あとは海と砂浜しかない。あっという間に一周できてしまうような、小さな孤島に私は流れ着いたのだ。
散策を終え、住居に戻ってきたところ、バラナシオが焚かれた火の近くで佇んでいた。私の視線に気づいたバラナシオは頭を掻きながらゆっくりと口を開く。
「大丈夫か? あまり無理はしないでくれよ、どこかに行ってしまったら、なんていうか、その……困る」
目を逸らしながら話す言葉の最後の方は消え入りそうな声だった。まるで私がここを出たがっていることを知っているかの口ぶりに心臓が飛び跳ねるが、表情を崩すことはない。
私たちの間を生温い風が流れていく。頭上には何処までも続いていきそうな青空が広がっていて、真っ白な鳥が心地よさそうに飛び回っている。どこか気の抜けるような鳴き声とは対照的に、バラナシオの声は真剣そのものだった。
「今更こんなことを聞くのもなんていうか、その、よくないことかもしれないんだが、エドナ。アンタ、海から来たんだよな――海の底には、何があった?」
「……何もないよ。目を閉じても開いても、見えるものは一緒だった」
「真っ暗だったってことか?」
途方もないほどの深淵としか例えられない、右も左も上も下もないところでも、血に濡れた男たちが見ていたことは言えなかった。私の頷きにバラナシオは顎髭を撫でながら遠くを見つめていた。
「そうか……俺が言えたようなことじゃねぇけどさ、こうやって生きてるってことは何か意味があるんじゃないかなって思うんだよな」
「私に?」
生きる意味。死ぬことの出来ない私の生きる意味。歩き続ける意味。気の遠くなるほどの春と冬を過ごしても、どれだけの時間をかけてもわからなかったこと。いつしか、考えることを放棄したこと。それが今、私が生きていることによって見つかるかもしれない。そんな都合のいいことが、有り得るのだろうか。
「そうなのかな。正直なところ、よくわかんないよ」
ありのまま、思ったことを口にする。「だろうなぁ」と返したバラナシオは、視線を海の方へと向ける。眉を顰めながら目を細めるのは、海面に反射する太陽の光によるものには見えなかった。
「俺たちはな、逃げてきたんだよ。死にたくなくて、さ。エドナは知らないと思うけどな、俺たちはタラプス――隣の島に住んでたんだ。あそこにあるだろ、大きな大きな島だ」
彼の指さす方向……海と空の繋がるところ辺りに島があるのが確かに見える。言われないと気づかないような大きさであったが、彼が言うならば実際には大きな島なのだろう。そんなことを考えている間にも、バラナシオは話を続けていく。
「そこで大きな戦いがあったんだ。どうして起こったかはよくわからない。とにかく血で血を洗い流すような凄惨なものだよ。俺とニッティはそこで戦っていたんだ。それこそ数えるのを辞めるぐらいに何人も何人も斬って、突いて、殺したよ。上の指示通りに、な」
バラナシオは手のひらを握ったり開いたりしている。自分の記憶を辿りながら語る彼の表情からは、激しい後悔が感じられた。まるで、こうやって言葉にすることで自身の罪の告白をしているようだった。ずっと優しい笑顔を浮かべていた彼の初めてみる表情に、胸の奥が締め付けられるような感覚を覚えた。
彼らも、私と同じくヒトを殺してしまったのか。戦いの果てにヒトを殺して回る。それは仕方のないことなのかもしれない。殺さなければ殺される。そういったことがこの世界の中で確かにあるのは事実だ。それでも、彼はそれを悔いていた。嘆いていた。悲しんでいた。
「でもな、途中で嫌になっちゃったんだよ。殺して殺して殺して殺して、何になる? 美味い飯を多く食えるわけでもない。偉くなれる訳でもない。殺せば殺すだけ、俺の後ろについて回る気配は多くなるってのに。殺したくて殺したことなんて一度もない。誰だって生きてきた道のりがある。それを途中で終わらせることがどれだけいけないことかもわかってるさ。でも、でもだ。殺されてしまえば、この重みを誰かに押し付けることになる。だからさ。逃げたんだよ。殺し殺される堂々巡りから。自分がやったことは許されることではないさ。でもさ、好き好んでやったことじゃない。真正面から受け止めてたら、マトモじゃいられねぇ。だからさ、馬鹿になることにした」
顔を上げると、バラナシオはいつも通りの笑顔をしていた。幼げすら残る白い歯を見せたその表情は、どこか物悲しいものに見えた。
「これからは、どんな奴も見逃さないようにした。一人救えば、一人分だけ許される。そう思い込むんだ。自己満足だってのはわかってる。でもよ、自分で自分を殺したり、それを引きずって生き続けているより、それを受け止めて、生きていかなきゃいけないってな」
一瞬の静寂。鳥の鳴き声が、やけにはっきりと聞こえる。ほんの僅かな躊躇いのあと、バラナシオは私にしっかりと視線を向けた。
「だから、エドナ――あんたが生きていてくれて、俺たちも救われたんだよ。ありがとな」
生きていたことを感謝することはあっても、されることなど今までなかった。胸の奥がぐるぐると掻き回されてばかりだ。私なんて、感謝されてはいけないのに。視界の隅で私をじっと見ている男たちが、それを許さない。それでも、バラナシオの言葉に縋り付きたくなってしまったのだ。
「……私も、バラナシオと同じようにたくさんの人を殺したんだ。そんな私でも、生きていてよかったのかな?」
「当たり前のことを言うなよ。アンタは人を殺したことを悔いていないのか?」
目の奥が熱くなる。そんな事はない。否定の念はそのままに喉の奥から飛び出していた。
「そんなわけないだろう!」
自分でもこんなに大きな声が出るとは思ってもいなかった。一度声に出してしまえば、もう止まることはなかった。
「彼らは 産まれたことを祝福されて! 笑って! 生きてきたんだよ! それを私は! 28人も殺したんだ! 長く生きていても、短くても、命は命なんだ!」
感情が溢れるままに叫び続ける。身体の中の空気を全て吐き出しても、次から次へと飛び出してくる言葉たち。それを制御する術など、私は持っていない。
「間違っていたんだ!ヒトを殺す為に殺すヒトは獣だってずっと思っていた! そんなもの、ただの正当化だ! 私が、私が獣だったんだ!」
「なら、何がなんでも生き続けろよ! 獣だったっていうんなら、ヒトに戻れよ!」
返されるバラナシオの大きな声に身体がびくりと跳ねる。それは驚きでも恐怖によるものでもなく、ただひたすらに、駄々をこねるような私の叫びをバラナシオはただ受け止めてくれた。そして、力強く返してくれた。
「それで、殺した以上の人を救えばいい。殺すために生きてきたワケじゃないんだろう? ならこれから、命を繋ぎ止める為に生きろよ。たとえ自己満足だとしても、俺たちが出来ることって、それぐらいだろ」
声を落として、バラナシオは静かに笑う。優しげな声に、私もつい声を小さくして答えてしまう。
「生きていて、いいのかな」
ナーリアのツルギは海の底に沈んでしまっていた。今私の腰にぶら下がっているのは、自作した革製の鞘だけだった。柄に触れれば鮮明に思い出せたあの夜の怒りと憎しみは、彼女の無念と共に手の届くことのないところへと沈んでしまっていた。
彼女が生きてきた証そのものが沈んでも、私の記憶の中のナーリアは全く薄れることはない。彼女の最期を思い出す度に、頭の芯が冷たくなってしまう。だがそれ以上に、あの眩い笑顔が、私に歩き続けろと語りかけるのだ。それこそバラナシオの言う通り、ただの自己満足だ。都合のいい解釈でしかない。それでも、私はそれを信じたくなってしまったのだ。
「違うよエドナ。むしろ、生きていかなきゃならないんだよ。どんなに辛くても、苦しくても。殺してしまった人たちの分まで、腹いっぱい食い物を食って、たくさん笑って。それで生きて生きて生きた先に、何か有るような気がするんだ。だから、だからよ。あんまり気負いすぎるなよ。せ、せっかくの美人が台無しだ」
「……そういうのはニッティに言ってやりなよ」
「あ、アイツにはそういう言葉は似合わねぇっていうか、なんていうか――!」
急に耳と鼻から熱気を吹き出しそうなほどに顔を赤く染めたバラナシオは両手をわたわたと動かしながら叫ぶ。それがなんだか可笑しくて、つい笑みが溢れた。
「ふふっ」
「なんだ、笑えるじゃねぇか」
ほんの僅かな時間だけバラナシオは驚いた顔をしたが、すぐに冷静さを取り戻す。
それにしても、笑顔を自覚したのはずいぶん久しぶりだ。ナーリアが殺されてから、何度春と冬を往復していくうちに笑い方すら忘れてしまったと思っていた。まるで刃のない刃で貫かれたように、お腹の奥が熱くなっていく。
「バラナシオ! エドナ!」
喜びのような驚きを自覚した次の瞬間に、ニッティの叫び声が遠くから聞こえる。私がここに流れ着いたときから聞くことのなかった切羽詰まったような声の方向に振り向くと、真っ黒な身の丈より長い木の棒を両手に持った彼女がこちらに向かって駆けてくる。
「タラプスの船がこちらに来ている! でもなんだか様子が変なんだ! 流れ着いて来ているのか、アレは!?」
ニッティから棒を受け取ったバラナシオは口を真っ直ぐに結んで私に向かって無言で頷く。放たれた一本の矢のように二ッティの視線の方向――私が流れ着いた砂浜へと駆けていった。
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