聞こえてきた声
「お礼……?」
「そう。長いこと私を愉しませてくれたお礼だよ」
口角を大きく吊り上げながら、左手を私に向ける観測者は、私を心底見下しているように思える。
いや、見下すとかそういう概念など恐らく存在すらしていないのだろう。例えるならば芸をしたペットに餌をあげるような感覚なのかもしれない。
ペットと飼い主には信頼や愛情が存在するけれど、今の私たちにはそのようなものはない。急にいきなりやってきて、一方的にお礼だの言われたところで喜びなど感じるはずもない。
「あなたは祈り続けたヒト達に何もしなかった。私はあなたのことをずっと信じなかったけれど、ね」
流石に皮肉も言いたくなるものだ。神が目の前の存在だとしたならば、余りにも虚しすぎる。目の前で口角を大きく上げて微笑う存在を見ていると、キュレイがかつて住んでいた、リアーロの民を思い出す。彼らは天に幸福と繁栄、そして勝利を祈り続けていた。だがそれは届くことなく、あっけなく滅びを迎えた。きっと彼らは、最後の最後まで天に助けを求め続けたに違いない。人に祈るという概念すら持ちえなかったのだから。
そんなリアーロの人々が祈って祈って祈り続けても、神は彼らに力を貸すことはなかった。存在し、私の目を通して見ていたのならば、あまりにも酷ではないのか。
「それはお門違いだよスアルデュミ。私は与え続けたじゃあないか。ヒトがヒトとして、生物が生物として生きていられる環境を。当たり前を当たり前として受け入れなくなった瞬間から、滅びは始まるのさ」
瞬間ごとに姿かたちを変えながらも、下卑た笑みは消えることはなかった。諭すような口調をしていても、目の奥にある傲慢さのようなものは隠しきれていない。
こんなものが神であるものか。この宇宙の創造主で私という存在を作り出した、ある意味で私の親だとしても、それだけは認めることは出来なかった。
歯の奥がぎりり、と鳴る。当然目の前の創造主には聞こえているだろう。しかし気にする素振りもなく、長い髪をかきあげながら小さく息を吐く。
「スルアデュミ、何かひとつ望みを言ってみてほしい。なんでもだ。なんでも叶えてあげようじゃないか」
あまりにも傲慢な提案。あくまで自分自身が絶対的なものであり、創造主にとってはこの世界、宇宙は巨大なアクアリウムでしかない。ただそれだけなのだろう。魚を増やしたり、減らしたりすることなどは管理するものにとっては容易いことなのだから。
六、七歳ほどの少女の姿に変わっていた観測者は私の隣の虚空に指を差す。電子音に似た音がすぐ近くで聞こえると同時に、音がした場所の周りの空間がほんの少しだけ歪んで見えたような気がした。真っ白な空間のなかで、様々な色が浮かんでは消えていく。この場所に来て初めて目にする『ヒトガタ以外の色』は、とても鮮やかで美しいものに見えた。
「例えばだな、そうだ。キミが望むヒトを一人、この場に蘇らせるっていうのはどうだい?」
片目を見開き、人差し指を立てながら放たれた観測者の言葉は、私の心臓を一瞬止めるのに充分すぎる衝撃を与えた。
「そ、そんな馬鹿なことは――」
「出来るさ。キミの記憶からデータを抜き出し出力すれば、それぐらいの芸当は出来る。観測者の権限ってヤツさ。いよいよもって、神のようだろう?」
私の否定を遮るのは、自尊心に満ちた観測者の笑み。
「どうだい? 二人で新たな人類を作り出すというのは。オマケでキミに生殖機能をアップデートしてあげてもいい」
この瞬間になってはじめて理解ができた。今までの二十万年という長い長い日々の中、男と身体を重ねた回数なんて数えきれないぐらいにある。一度も命を宿すことがなかった私の身体に違和感はあったが、疑問に感じる事はなかった。
私にそういう『機能』が与えられていなかった、ただそれだけの話。あまりにも呆気ない理由に、驚く気も起きない。それよりも――
「それでまた、殺すの?」
ヒトは生きている限り、いつかは死が訪れるものだ。ヒトがヒトである以上、それは避けては通れない宿命。
死ぬためにヒトは生きる。それまでに何を成すか、どう生きるか。それがヒトがヒトである所以なのだから。
「当たり前じゃないか。そして、どう生きるか、どう死ぬか。また楽しい催しを見させておくれ、スアルデュミ」
観測者のエゴで生き返らされた者は、観測者のエゴによって生きていくしかなくなる。つまりは目の前で下卑た笑みを浮かべている存在に殺されるために生きるようなものだ。そんなこと、認めるわけにはいかない。
「――うん、望みは決まったかな」
「やっと決まったか。じゃあ、誰を甦らせるんだい?」
私は、エドナ。 エドナ・ラメセト。
二十万年、歩き続けてきた。
長く険しい旅路の中で、沢山のヒトと出会い、生き、そして別れていった。
ツカルジのように勇敢で、
カレトのように儚くて、
バルカのように雄々しくて、
ナーリアのように繊細で、
ハドのように優しくて、
バラナシオのように誰かを救い、
キュレイのように理知的で、
ジザグのように豪快で、
ジァンのように靱やかで、
ウィリアムのように許しを求め、
アーロンのように温かい――
そんなヒトと共に歩いてきた。共に生きてきた。
良いことより悪いことの方が多かっただろう。化け物を見るような眼で見られたり、町を追い出されたり、危害を加えられたことも何度もあった。
それでも歩みを止めることがなかったのは、その日々を、限りある時間を懸命に生きるヒトを慈しみ、愛していたのだ。
だから。
「誰も甦らせない」
「なに?」
だから。
「その代わり、観測者を私に引き継がせて欲しい」
こんな奴が決定権を持つ宇宙など、認められない。
「はははははは! そうきたか! ははははははは、はははははは!」
高い声で馬鹿笑いをする観測者を、射殺すように睨み付ける。いつの間にか、目の前に立つ存在に対する畏怖の念は完全に消え失せていた。
「スアルデュミ――キミの脳の容量では、まず確実に無理だと言っていい。そういう風に造られていないからね。物理的に脳が破裂するほどの情報量を詰め込まれて、恐らく一瞬でキミの意識はオーバーフローを起こし、機能停止するだろう」
一頻り笑い転げたあと、すぐに余裕を取り戻した観測者は
「――それでもいいのかい? その場合はただの無駄死にでしかないが」
「構うもんか。やってみなければわからないだろう」
私の言葉に、観測者がなにを思ったのかを察することは出来なかった。先程まで姿を変え続けてきた観測者は、【表情がなかった】からだ。目も鼻も口も存在しない、完全なフェイスレス。何もない輪郭に紅い髪が付いているだけの、異様な光景。
「いいだろう……他ならぬキミの願いだからね。丁度この宇宙にも飽きてきたところだし。でもね――」
大袈裟に肩を竦めた観測者は、一拍置いてため息をつく。
「キミはもっと賢明な判断ができると思ったんだけどね――さよならだ、スアルデュミ」
それでも口のあったところから声は聞こえてくる。先程までとはまるで違う、抑揚を感じさせない声。それが黒く長い腕を伸ばすと、掌から何かどろり、とした半透明のものがゆっくりと私の脳に入り込んできた。
「ぐ、が、がガがが――!?」
脳が急速に膨張していくような感覚。シナプスを焼き尽くすようにごうごうと流れていく情報の乱流は、世界が終わる声にしか聞こえない。真っ黒な宇宙が眼の奥で亜光速で拡大していく。無数の孔に意識が、私が私である為に必要な決定的な何かが吸い込まれていく。
私は――
何だ?
『―—ナ』
何処からか聞こえてくる声が私の意識を辛うじて繋ぎとめたが、またすぐにナニカが私を埋め尽くしていく。私が私でなくなっていく。
真っ白だった空間が大きな音を立てて罅割れていく。
「こレハ、moう駄目駄ね」
すぐ近くで聞こえるのは、ノイズまみれの誰かの声。距離感どころか、どこが前で後ろなのかすらわからない。
全ての内臓が裏返り、また裏返って元に戻る。
指紋の溝と溝の間にAm7の和音が流れる。
血管が凍り付き、一瞬で茹で上がる。
全ての歯が分速千二百回転で右に廻転する。
骨と骨の隙間が完全に消え失せ、金繊維が一本ずつ弾け飛んでいく。
心臓を中心に半径十二.五四一一キロメートルが消し飛ぶような感覚。
濁声でがなり立てる七百七十四億五千四百十二万千六百四十八羽のカナリアの鳴き声。
ひたひたと歩く向日葵の種。
過去。未来。
そして、現在。
『エドナ』
ずっと探していた声が聞こえた。二十万年の追憶、そのきっかけが。
『エドナ』
その声は誰のものでもなかった。いくら思い出しても見つけられる筈がなかった。この声は、この世界の全ての声だったんだ。私が歩き続けてきた世界。生き続けてきた世界。その大地で生きてきた全ての者たちの声が、私に声をかけてきていたのだ。
それを理解した瞬間、脳の
頭の中からあらゆるノイズが消え、なにもかも鮮明になる。透き通った視界の中に、明らかに狼狽えている観測者がいた。先程と変わらぬフェイスレスだったが、今は何を考えているか容易に理解できる。
『馬鹿な、そんなことなんて有り得ない』と。
現に私はこうやって、力を行使できる。行使すべき力がある。自身の愉しみの為に私の二十万を弄んだのならば、然るべき報いを受けてもらう。それが私を創り出した存在だとしても。
指を観測者へと突きつけ、一言だけ呟く。
「消えろ」
「は?」
観測者が最後に口にしたのは、間抜けがすぎる言葉だった。音もなく、最初からいなかったかのように。先程まで私の前でふんぞり返っていた『神だったもの』は一瞬で消え失せた。
「なるほど……そういうことか」
これが観測者の持つ力か。目を凝らせば宇宙の隅から隅まで見ることが出来るし、指先に意識を向ければ小さな星が新しく生まれる。まさしく全能そのものだ。
そして、私に出来ることはもう限られているということにも気付く。確かに
「さて、と」
不思議と恐怖は感じなかった。自分が無へと消えることへの恐れよりも、やっと自分の旅路の果てが見えたことへの安堵の方が大きいのかもしれない。
最後の生の実感を確かめるように、何度も手を握ったり閉じたりしてみる。まだ私は生きている。エドナ・ラメセトとして生きている。
残り時間は少ない。やる事は一つだけだ。
「いくよ、みんな――」
目を閉じ、意識を集中させる。死ぬのははじめてだけれど、きっとなんとかなるだろう。二十万年の歩みの中で、誰もがやってきたことなのだから。
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