それでも僕らは
吹き荒ぶ雪があらゆるものを凍てつかせながらも、ヒトの命が紡がれはじめた時代があった。
踏み固められた雪の上で、穂先が石で造られた槍を持った男が巨大な獣と戦っている。獣は大きく鋭い爪を振り回して抵抗を続けているが、陽炎のようにゆらりゆらりと避けながら的確に攻撃を続ける男により徐々に体力を奪われていく。
「ふざけンな、早く死ね……!」
毒づきながらも男の動きは止まることはない。雪でぬかるんだ大地をしっかりと踏みしめながら槍を振るい、熱い毛皮で覆われた獣の肉を着実に削っていく。
獣は逃げることも叶わない。動きを完全に読まれていて、移動する方向に先回りをされる。そうなってしまえば、そう時間はかからなかった。
「―――……」
断末魔の咆哮を上げながら、血まみれの獣はゆっくりと大地に倒れ込む。それを見た男は、大きく息を吐き、近くの森に向かって小さく手を挙げた。
「ツカルジ兄さん!」
木々の間から駆けてくるのは、年端も行かない少女だった。ツカルジと呼ばれた男と同じ、黒い髪は太陽の光を吸い込み、鈍く輝いている。
「これで父さん達も安心して大地に還れるね」
「そうだな、エドナ」
ツカルジは妹を見下ろしながら、優しげに微笑む。
いつの間にか太陽は傾きはじめている。
・・・
分厚い氷が溶け、大地を覆っていた雪が消え失せた。晒された大地からは草木が生い茂り、豊かな緑が目立ちはじめた時代があった。
少年が草むらの上で寝転んでいる。暖かな風が彼の身体をすり抜けていくと、瞼が加速度的に重くなっていく。
そのまま夢の世界へと入り込もうとしたとき――
「カレト」
彼を呼ぶ声が、少年の意識を現実へと引っ張り戻した。目を見開いた少年――カレトが目を開くと、心配そうに見つめる同年代の少女が彼の顔を覗き込んでいた。
「んむ……なんだラユッラかぁ」
目を擦りながら上半身を起こすカレトを見て、ラユッラは腕を組み、眉を吊り上げた。
「なんだとは何よ。こんなところで寝てたら身体を壊すよ」
「大丈夫だよ、ここで横になってるととっても気持ちがいいの」
のんびりとした口調で話すカレトの言葉を、ラユッラはよく理解できなかった。眠りにつくのは空が暗くなってからだ。こんな真っ昼間に眠るなんて、考えたこともない。どうせ夜になれば眠ることぐらいしかやることがないのだ。それを先回しにするなんて、あまりにも無駄が過ぎるのではないか。
「ふぅん、変なの」
結局のところ、ラユッラの疑念はその一言に尽きた。一体どこでそんな事を知り、実践する気になったのか。真似をする気にもならない行動をするカレトを見て、ただただ首を傾げるだけだった。
「知らないの? ヒルネ」
「聞いたことないわよ……誰に聞いたの?」
初めて耳にする『ヒルネ』という単語に問いかけた至極真っ当な質問に、今度はカレトが首を傾げる。
「……誰だっけ?」
顎に手を当て、考え込むカレトを見て、ラユッラは大きな溜息をつく。
「もしかして自分で思いついたの?」
「そんなことないと思うんだけどなぁ……」
唸りながら記憶を辿り続けるカレトの表情は真剣そのもので、嘘や出鱈目を言っているものではないということはラユッラにも理解できた。
「変なカレト」
だからこそ、どうして覚えていないのか。少女には、それがわからなかった。
・・・
実りが増え、活用の方法が増え、ヒトは様々な模索を続けていく。狩猟を続け、獲物を求めて移動を続けてきたヒトが農耕をすることにより定住を始めた時代があった。
ヒトと営みを収束していく集落はだんだんと大きくなり、いつしか村になる。村ができたのならば、それを纏めるヒトが出てくる。
「よっしゃ、今帰ったぞー!」
髭を蓄えた大男が大きな声で笑いながら村を歩く。それを見てたくさんの村人が彼の元へ駆け寄っていく。
「おかえりバルカ!」
「おう、これは土産だ。たーくさん食ってデカくなれよ! がはははははは!」
一番最初に大男――バルカに向かって声をかけてきた少年に、手に持っていた包みを渡す。子供には少し重かったのだろうか、少しよろめきながら受け取った少年は、満面の笑みで返答しながら何処かへと駆けていった。
「で、どうだったんだ? ミティスの奴らは……?」
ぬらり、といつの間にかバルカの隣に立っていた痩せ気味の男が問い掛ける。少し離れたところで様子を伺っている子どもたちに不安を与えない為か、囁くような声量だった。
「やはり、どうにもならなさそうだ。このままだと一戦交えることになるだろうなぁ」
そんな彼の配慮などいざ知らず。バルカは腕を組みながら、さも当然のように語る。彼の言葉は村の言葉だ。
「俺たちが生き残る為には、致し方ないことだ。でもな――」
バルカの言葉の続きを、村人たちは固唾を呑んで見守る。戦うしか、ないのか。殺すしか、ないのか。彼らには覚悟があった。自分たちが生きていくためには、他者の命を蹴落とさなくてはならない。そんな選択肢など、よくある話なのだから。自分の血を濡らしてまでも、村に生きる家族や仲間を護りたい。ただ、それだけなのだ。
暫くの間のあと、バルカは遠くの方を見る。何人かが彼の視線を追って同じ方向を向くが、そこには何もない。ただ蒼い空が広がっているだけ。太陽が昇り沈むまでの間に必ず目にする、なんでもない光景だった。
「それは一番最後にやることだ。一度に沢山の人が死んだらよ、死神があまりの忙しさに文句を言うだろうし、な」
にかり、と笑う彼の言う死神がどんな顔をして、姿をしているのか。それは誰も見たことがないので答えようはない。しかし、多数の死者が出た時、あの紅い髪をした死神は絶対に悲しい顔をするだろう。バルカだけは、それを確信していた。
・・・
ヒトとヒトが集まり、村になった。村は段々と大きくなり、国になった。集合化した技術と効率が高まっていくにつれ、加速度的にヒトの数が増えていった時代があった。あくまで小規模であった村同士の争いと、規模がどんどん大きくなっていく。結局のところ、ヒトがヒトである以上、血が流れ、人が死ぬことは必然なのかもしれない。
そして、そういった争いを避けて通ること。ささやかな平穏を生きること。それが出来るのならばそうしたいと願う者が大多数だろう。
「アイツら、もう近くまで来てる!」
「早く逃げるんだよ! 急げ! みんな死んじまうぞ!」
村人たちが騒ぎながら右往左往している。そこは村とも言えぬ小さな集落であり、三十ほどの人間が集まって慎ましく生きていたのだが、北方からの侵略者がこちらの方向に向かってやってきているという情報を聞き付け、対応に追われていた。
「みんな、準備はいい?」
少女が人々に声をかける。凛とした声の少女の腰には鞘に収められた青銅製のツルギが下げられている。ツルギの握りは手垢や汚れなどがひとつも存在していない。満足に振るわれた事もない、誰の血も浴びていない無垢な刃が収められているのだろう。
「や、やるしかないのか……」
怯えた顔の男が、少女を見上げている。彼の右手にも、真新しいツルギが握られている。彼だけではない。戦う意思のあるもの全てがツルギを持ち、間も無くやってくる闘争に備えていた。
「私だって嫌だよ。でも、みんなで生き延びる為には、アイツらをやっつけないといけないんだ」
「そうだ、そうだよな、ナーリア」
いつの間にかナーリアを囲うように男たちが立っていた。その数は少女も加えて、僅かに九人。全員がここで命を落とすということはわかっていた。しかし、彼らは死を畏れていなかった。自分たちが盾になり、残りの誰かの命を繋ぐ。その違いが、震える足をここに繋ぎ止めていた。
「来たぞ! 戦うときだ!」
数も練度も圧倒的にあちらの方が上。だからといって、退くわけにはいかない。守るべき者のために。愛すべき人々のために。ナーリアはツルギを握り締める。孤独だった自分を育ててくれたこの集落に報いる為にツルギを鋳出し、研ぎ、皆へ配った。そして、戦うのだ。
「仙女様、力を貸して――!」
伝承の仙女は、様々なものを周りの人々に齎したという。人が人として生きていくための知恵だけでなく、強いものへと立ち向かうための勇気。それらを口伝で広められていった数多の物語が、ナーリアの根本を支えていた。
出来たばかりのツルギを握りしめ、少女と男たちは駆け出す。ある者は恋人の名、ある者は我が子の名、或いは意味のない声を上げながら。
この戦いに勝利者は居なかった。
名もない集落は滅び、侵略にきた国もすぐに絶えて歴史書の一文にもならなかったのだ。
それでも、その戦いに意味はあった。ほんの僅かではあったが、救われた命があったのだから。
・・・
争いは耐えることなく続いていく。さらなる繁栄か、それとも隣人への敵意か。何もかもが曖昧になりながらも、数百年もの小競り合いを続けるような時代があった。
国と国の争いは最大の浪費活動である。人々の命、国と国として必要な国力や資源の磨り潰しあう。最早、遺伝子情報や魂そのものに闘争を義務付けられている因子でも刻まれているのか。そう思えるほどの数多の争いは、そこに生きる人々を急速に疲弊させていった。
しかし、争いが齎したのは破壊や死だけではなかった。より早く前線に物資を運ぶためのルートが作られ、そこで必要なものを売り捌く商人たちが命をかけて渡り歩く。様々な生業が生まれ、急速に発展していくのも、争いがあったからなのかもしれない。
「も、もうすぐ、ケルススをぬ、抜ける、な」
「あぁ。でもまだ気を抜くなよ、ラスー」
二人の男と一匹のウシが夜の砂漠をのたのたと歩いている。一つだけの月が照らす銀色の光が、彼らの輪郭だけを浮かび上がらせていた。
「ハド、あ、あと、どれぐらい位で、着く、んだろうな」
腹の肉を揺らしながら、たどたどしい口調で喋るラスー。夜の砂漠は冷えるというのに、彼の額には汗が滲み、砂が張り付いていた。
「このペースだと明後日ぐらいには着くかもなぁ。早いところ安心して休みたいよ。お腹も減ったし」
そんなラスーとは対照的に、ハドの声は飄々としたものだった。
「セプタはどんなところだろうなぁ。時折不安になるよ。俺たちの芸が通じるのか、そもそもそこまで生きていけるのか」
「不安に、さ、されないで、く、くれよ」
軽口のような口調でも、相棒の語尾が微かに弱まっていることをラスーは聞き逃さない。振り切るように大きめに返答を返したつもりであったが、何時も以上に吃ってしまう。
砂漠の乾いた冷たい風が旅人たちを通り過ぎていく。足音は細かい砂に掻き消されるが、荷車の上の荷物が奏でる協奏曲だけが砂漠に流れていた。
「夢を見たんだ。俺たちの歌に合わせて、踊る女がいた。見たこともない、美しい舞だった。言葉で表現することが出来ないぐらいに。せめて、いつか、そういう出会いがあるまで、旅を続けていたいな」
輝く月の方向ではない。星が存在しない西の空を見上げながら、ハドは小さく呟く。弱音にも聞き取れるその声を、ラスーは目を見開き驚愕の表情で見ていた。
「俺も見た」
ラスーの言葉を聞き、今度はハドが驚く番がやってきた。
「ホントか? そんな偶然――」
「あるだろ。そういうのも。こうして生きてるんだからさ」
歌っている時ぐらいしか聞くことの出来ないラスーのしっかりとした口調に、ラスーはゆっくりと頷く。暗闇での中で相棒がどのような表情を見せていたか、お互いは認識はできていない。
だが、二人は全く同じ種類の笑みを浮かべていた。
「そうか、そうかもな……会いたいな、いつか」
「うん」
それから夜が開けるまで、二人は会話をすることはなかった。内に秘める旋律を、どのようなカタチで表現するか。夢に見たあの女には、いつ会えるだろうか。ただそれを、考え続けていた。
・・・
血は大河に流れ込み、肉体は大地に還る。敗者の遺体を踏み越えた勝者もすぐに死に絶える。そして更なる遺体を踏み慣らしながら、人の歴史は続いていく。それを憂いた聖人が奇跡を起こし、救いの礎になろうとした時代があった。
それでも、聖人だとしてもヒトはヒトだ。彼の手の届く範囲でしか救う事は出来ない。彼の思想に共感した者たちも教えを広め続けたが、届かないところには届かない。
例えば、人の手が殆ど入っていない小島がそうだ。流れ着いた者が行き着くようなそこには、聖人の想いなど届くはずもない。そこで生きるものは、人々を救おうとした人間のことなど知りはしない。
それでも、生きていた。
島の中で一つしかない小屋の中で、泣き声が聞こえる。ひとつの命がこの世界に産まれ落ちた時に聞こえる声。それが何に対して泣いているのかは、誰にも分からない。
「あぁ、ああ――」
しかし、その産声を間近で聞いた男は声にならない声を出しながら、大粒の涙を流し続けた。彼の胸の中にあるのは、この世に産まれたことへの祝福と感謝。
「なーんでアンタも泣いてんのさ」
産まれたばかりの命を手に取り、咽び泣き続ける男
を見て女は笑う。宿した命の欠片を育み、産み落とした大仕事を終えたというのに、どこか余裕すら感じるその姿は堂々とした『母』そのものであった。
「いや、だって……だって、なぁ、うぅ、ニッティ、うぅ……!」
「こんなんじゃ先が思いやられるね……シャキッとしなよバラナシオ! 父親になったんだからさ!」
伸ばした顎髭がなければ少年にも見えるバラナシオの泣き顔をまじまじと見たニッティは、大きな声で一喝する。その声にびくり、と身体を震わせた新たな父親は、涙に濡れた眼球を母と子に向ける。
「そう、そうだよな……! 俺が、父親になったんだ……!」
言葉にするだけで、実感がバラナシオの胸にじわりじわりと込み上げてきている。
「そうさ。可愛い女の子じゃあないか――しかし、こうして産まれてくれると感慨深いものがあるねぇ。私たちが、私たちがだよ。まさか子を産むなんてね」
ニッティはしみじみと呟きながら、窓の外の海を見ている。寄せては返す海原はどこまでも広がっていて、命の繋がりを連想させた。
「この子には、俺たちみたいな血なまぐさい目には合わせないようにしないとな」
我が子に視線を外せぬまま、バラナシオは呟く。彼らは闘いから逃げてきたのだ。戦場にて相手に対して数え切れないほどの死を齎すことは、名誉だの誉れだの呼ばれて称賛される。
槍を持ち、ひたすらに殺して殺して殺して殺して。屍の山を築いていった彼らであったが、先が見えない殺し合いの螺旋に疲れ果ててしまったのだ。殺し続けたところで、いつか殺されるだけなのだから。
だから二人は、何もかも放り出してここに来たのだ。命を奪い続けてきた二人であったが、命を繋ぐことを咎めることなど出来はしない。
それが祝福されて産まれてきたならば、尚更のことだ。
「言うねぇ」
我が子を抱く母は、父の祈りにも似た決意を笑顔で返す。
「それより名前を決めないと。女の子だったらアンタが決めるって約束だったろ?」
ニッティの表情は晴れやかであった。目の前の男のことだ。どうせもう決まっているだろう。『わかっているぞ』と言うかどうか悩みながら、頷くバラナシオの言葉をじっと待つ。
「あぁ。この子の名は――」
強まった泣き声がバラナシオの言葉を上書きする。付けられようとした名に対して喜んでいるのか、拒んでいるのか。それは彼女を優しく見つめる二人にしか、わからない。
・・・
聖者の生きた時間など、人類史からしてみれば瞬きよりも短い、ほんの僅かな時間にすぎない。それでも一歩一歩ではあるが文明は進歩していくし、聖者の考えは世界中にじわりじわりと広がっていく。その道程のなかで土着していた信仰と混じり合い、独特の文化を形成するような状況も出てきたりと、まるで様々な絵の具を混ぜ合わせるような混沌とした思想が生まれ始めた時代が存在した。
とある国では人々は天の使いに祈りを捧げていた。天の使いとは啓示によって民に繁栄と恵と勝利を齎す神の代行者とされていて、その国の権力の全てを握っている。
民はある意味で歪な構造をしている国に何の疑問を抱くこともなく、ただただ祈り続けた。雨の日も晴れの日も、我が子が産まれたときも、親が息を引き取るときも。
「……」
キュレティステネスは怒っていた。リアーロという国に。なにも考えずに天に祈るばかりの民衆に。そして、この国を変えるどころか、出て行くこともできない自分自身に。
自分以外に誰か一人でも、気づくことが出来れば。それだけを願ってキュレティステネスは筆を動かし続ける。
一心不乱に書き連なる文字と文字は文となり、意味を持つ。ただそれだけでは、誰の心も動かすことはできない。故にキュレティステネスは文字に吹き込む。自分の思想を。自分自身の命そのものを。
「届け」
太陽の光、月の光。強い光と弱い光。そのいずれも跳ね返すようなキュレティステネスの長い銀の髪が、隙間風に吹かれて揺れている。昼も夜も関係なく、手を動かし続けていく哲学者の表情は鬼気迫るものがあった。
物が乱雑に散らかる部屋の中、筆が紙をなぞる音だけが流れていく。
「届け」
キュレティステネスの頭の中には、一人の女性がいた。一度も会ったこともない、夢にも見たことのない、幻想よりも儚く不確かなビジョン。
それでも、確かに認識している。『彼女』の記憶――というよりも、魂とでも例えるべきか。いつの間にか脳の奥の奥に刻まれていたもの。
名前も分からない。顔も分からない。髪の色も、目の色も、肌の色も分からない。
『キュレイ』
時折、自分の名前を呼ぶだけの影。ただの妄想でしかないとわかっているはずなのに、キュレティステネスはそれを割り切ることが出来なかった。何をしている時も、その影のことが気になってしょうがない。
いつしかキュレティステネスは渇望するようになった。存在するはずのない誰かに、自分自身を届けたい。カタチにすることが出来れば、いつかきっと届く。ただそれだけを願いながら、埃まみれの部屋の中で文字を書き進めていく。
「届け」
届け。
届け。
ただ、それだけを願って。
・・・
聖者の考えは歪さを見せながら広がり続けていた。
いつの間にか一部の人間の私腹を肥やすため、侵略の大義名分になる。聖者の望んでいなかった形になり、救うはずだった命は奪われていく。それを憂うことはない。信じないことは罪なのだから。信じないことによって受けるあらゆる不条理は罰なのだから。
しかし、聖者の考えだけではヒトは生きていられない。彼の生まれる前から存在していた教えや、他の宗教なども存在する上に、そもそもそういったモノを信じない――自分だけを信じるような無頼の者もいる。道標もなく歩く者を愚かと笑うのか、勇気のあるものと賞賛するのか。それとも、ただ何も分かっていないだけなのか。それは誰にも分からない。
そんな平穏とは思えない世界の中で、人は生きている。歩いている。
「こ、この煽ち風のジザグ様がこんな苦労をする羽目になるなんてよ……!」
暗く深い森の中、二人の男が歩いていた。一人はこの地と時期に相応しい厚着をしていたが、もう一人……ジザグは上半身に動物の毛皮を羽織った姿をしていた。瘦せ我慢をしているのだろう。唇は紫色になり、時折かちかちと歯を震わせていた。
「だーから、こんなことはやめましょうって言ったんですよ兄者ァ」
ジザグのすぐ後ろを歩く弟分は頭の後ろに手を回しながら、のんびりとした口調で文句を垂れる。寒さに震えるジザグのことなど、知ったことのないようだ。上着の一枚も貸し渡す気など、彼には存在しない。
「
ジザグの裏返った怒号に、鳥が二匹ほど驚いて飛び立っていく。その様子に更に驚いた二人は同時に足を止め、同時に深い溜息を吐いた。
「……まさかキンベの野郎の屋敷がハリボテだったなんて思ってもなかったっすね」
「あのウソツキジジイめ……今度会ったら承知しねぇ」
彼らは盗人になろうとしていた。自らを『王族の血筋で、国が三つほど買えるほどのお宝を持っている』『とんでもない豪邸に住んでいる』と自慢げにホラ話をしていたキンベ・ホラーソという老人の言葉を信じ込んでしまったジザグは弟分を引き連れて彼の館に忍び込んで、そのお宝を頂戴して一山当てようとしていたのだ。
実際は館はハリボテで小さなあばら家があっただけで、当然ながら宝など存在しなかった。しかも、寝床にはそのキンベの遺体まであった為に、ちょっとした騒ぎになってしまったのだ。なんとかして疑いを晴らした二人は、這う這うの体で山奥の隠れ家まで戻っている最中であった。
「もう死んじゃってるじゃないですか」
「さっきからうるっせぇんだよハシュ!」
振り返りながらジザグが放った拳骨が、ぽかりと軽い音を立てて弟分――ハシュの頭に突き刺さる。あまりにも間抜けな音であったが、それでもハシュには堪えたようで、頭を押さえて蹲る。
「うーむ……このままじゃあよくて五日後には飢え死にだぞ……」
弟分を無視して歩きながらも、ジザグは頭を抱えていた。現に二人の腹からは空腹を告げる虫が騒ぎ続けている。近くに群生している木の実を食べてどうにか食いつないでいる状況であったが、それも時間の問題だった。
「死ぬほど生ってるコレに食い出があればいいんだが」
膝あたりに生っている、緑や赤の小さな粒が連なった植物。それを持ち上げながら、ジザグは一際大きな溜息をつく。味は食べられなくもないという程度だが、種子を取って乾燥させれば辛味のある味わいになり、砕いて肉に振りかけると旨みが段違いになる。
だが単体で食べるにはあまりにも寂しいうえに、なによりそれだけでは力が出ない。腹もたまらない上に下す、喉を痛めるなど散々な木の実である。肉を買うことも狩ることも難しい彼らにとって、この『胡椒の実』は心細すぎる食料以下の存在であった。
「……コレ、なんか売れる気がするんだが、気のせいじゃないよな?」
ジザグはふと思い立つ。自分たちが肉にかけて美味いものを使えないなら、肉を買える奴らに渡せばいいのではないか。雷に打たれたような天啓が、彼の身体中を走り回る。
もしかして、さっきみたいにケチな泥棒をしなくてもコレを売るだけで大金持ちになるんじゃないか……?
「なんかどっかで聞いた気がするんですよね。西に持ってけばクッソ高く売れるとか」
思わず口角が上がるジザグのすぐ後ろで、空気を全く読まないハシュの言葉。淡々とした弟分の口調に、大男の頭の中が一瞬で茹で上がるのは当然のことであった。
「だからそういうことは早く言えっつってんだろ腐れ脳みそォ!」
「確証がないから黙ってたんですよ……キンベ爺さんの件みたいに嘘っぱちだったら洒落にならないじゃないですか!」
怒号に返される開き直りは、二人にとっていつもの日常である。そして――
「どうせこのままだと二人そろって野垂れ死にだ! 行くぞ、コレを持てるだけ持って! 西へ!」
兄貴分の思いつきで動くのも、いつもの日常であった。
だが、今回はとても長い旅路になるということを、二人はまだ知らない。
・・・
世界は争いを止めることはないが、争いが起きれば起きるほど技術や効率は発展していく。食糧事情や衛生観念などの向上は、世界に生きる人の数を加速度的に増やしていく。
生きる者が増えるということは、死にゆく者も増えるということだ。折り重なる死体と死体は、いつしか珍しくもない光景へと変わっていく。
そんな時代の中、踏み慣らされた街道を一人の男が歩いていた。鉄錆色の外套を羽織り、右手で杖をつきながら足元を確かめるように歩く男の瞳は白く濁っている。光を認識することが出来なくとも、しっかりとした足取りで歩く男――ジァンはただ当てもなく彷徨っていた。
「足りぬ……足りぬ……」
月の光も届かない夜の深い山の中でこの男を見かけることがあれば、亡霊や悪鬼の類に見えるだろう。何も見えない瞳をぐりぐりと動かしながら、ジァンは何かを探していた。
彼の後ろには多数の死体が転がっていた。何れも何か硬いもので身体中を徹底的に破壊されている。顎は砕け、顔は歪み、目は潰れ、四肢はあらぬ方向に曲がりくねっていて、まるで大型の獣が食い荒らしたかのようであった。
盲目であるジァンは、野盗の類からは格好の的に見えるのだろう。襲いかかる者たちを返り討ちにしていくうちに、黒い感情が彼の胸の中に芽生えてしまった。ヒトを効率的に倒すことから、効率的に殺すことへの変化。それによる恐怖や逡巡はすぐに消えてなくなり、すぐに無へと切り替わっていく。
ジァンの外套からは血や胃液の香りが染み付いている。その鉄錆の色は、返り血によって染め上げられたものだ。数多の人を屠り続けて磨かれた拳は、いつの間にか誰にも到達できないような境地へと到達していた。
「拙は、拙は、なにをすればいい。何をすれば満たされるのだ……」
いつしかジァンは願ってしまったのだ。ヒトを超えたものへの対峙。獣などではない、正真正銘の怪物に自分の拳は通じるのか。答えのない問答を胸に秘めたまま、亡霊は彷徨い続ける。
ジァンは確信していた。ヒトを超えたものは、存在する。世界の何処かに、それは確かに『いる』筈なのだ。修羅と化した亡霊の瞼の裏側、何も見えない視界の中でナニカが揺らめいている。それを追っていけば、いつか巡り会える。それだけを願って、襲いかかる者、強き者を屠っていく。
「誰か、拙を止めてくれ……!」
彼の歩く先には、これからも死体が積み上がり続けるだろう。練り上げられた技は人を救い導くことでもなく、自身の強さを証明することではなく、ただ誰かを傷つける為だけに。
いるはずのないものを打ち倒す為に、亡霊は前へ前へと進み続ける。幻想が示し続ける道を、ただ歩き続けていくのだ。
・・・
人は海を越えて、何処までも進んでいく。新たな大陸を見つけた偉人、開拓に進む人々、虐げられる原住民。元をたどれば同じ人類だというのに、人は人を選別し、自分と違うものを排他する。肌の色、文化の違い、言葉の違い、なんだっていい。毛嫌いから差別へと変わるのは、一瞬のことなのだから。
膨らみ続ける殺意と、進み続ける技術は効率化を続け、か弱い女や子供すらも人を殺せるようになっていく。いつになっても、どこへ行っても血は流れていく。大地に染み込んだ血液は、何処へ向かうのか。それは神にすらわからないことだ。
「クソッタレ」
ウィリアム・エイシーは独りごちる。首元に巻かれた赤いスカーフは夕焼けの色か、それとも血の色か。彼の腰には銀色に光る銃が吊るされている。この時代を象徴する、暴力と自衛の為に造られた『人を殺すためのもの』である回転式拳銃だ。
彼の視線の先には、野晒しにされ風化しはじめている遺体があった。荒野に吹く熱く乾いた風により腐臭を放つそれは、禿鷹や鴉たちの格好の食料になっている。
かつて人だったものを見て、男は顔を顰める。人は理不尽にも不条理にも死ぬ。満足して死ぬことのできる幸福な人間など、それこそ数えるほどしかいないのではないか。
真っ当な死など、普通に生きているだけでは訪れない。後悔にまみれて苦しみのたうち回りながら、命を落とす。ウィリアムは短い人生の中で、そう結論付けていた。
幼い頃、彼の両親は無法者によって辱められ、殺され、切り刻まれて捨てられた。カネを奪われた上に住んでいた牧場も炎に包まれ、住んでいたところも灰と燃え滓だけになった。愛をもって育ててくれた両親と、暖かい住処。何もかも一夜にして何もかも消え失せた彼は、あとは惨たらしく死ぬだけのように思えた。
しかし、彼には残されたものがあった。
「お兄ちゃん」
ウィリアムの背後で声がする。振り返らなくても、彼はその声の主が誰であるか理解している。
「ジャネット、来るんじゃないって言っただろ」
「うぅ、ごめんなさい。でも心配で……」
妹のジャネットだ。近くで買い出しをしていたので彼らは生き残ることが出来た。彼女がいるから、ウィリアムは今日までこの世界を生き抜けている。
奪われたものを奪い返す――両親を殺した無法者のように、暴力を以て事を成す選択肢を取ることを考えなかったわけではない。それでも、ジャネットの声を聞くだけでウィリアムは踏み外しそうな道をなんとか留まることが出来るのだ。
「まぁいい、さっさと帰るぞ」
ウィリアムは振り向き、ぶっきらぼうに答えながらジャネットを追い越して足早に街へと向かう。彼女が慌てて自身の背中を追いかけてくることもわかっている。だからこそ、出来るだけ急いで歩くのだ。妹が着ているグレーの簡素なドレスに、腐臭が付かないように。
力など、あったとしてもそれ以上の力に押し潰されるだけだ。妹が笑ってくれるなら、もう他に何もいらない。両親が死んでから、ウィリアムはそれだけを願って生きている。ジャネットの幸せこそが、自身の幸せなのだ。彼女が悲しい顔をすることは、絶対にしないし、させない。それが兄であるウィリアムの行動原理であった。
「今日は良いお肉が手に入ったの」
「へぇ、そりゃ珍しいな」
「ふふ、沢山食べてね」
久々の肉の味を口の中で思い出し、口の中に唾液が溜まってくるのを堪えながら、ウィリアムは歩いていく。いつの間にか、追いついたジャネットが彼の隣を歩いていた。
太陽が沈もうとしている。伸びていく影を従えて、兄妹は荒野を歩いていく。不幸せかもしれない二人でも、他愛もない会話をしながら歩く二人は、確かに幸福であった。
・・・
二度の大きな戦争があった。世界中を巻き込んだそれは、数え切れないほどの銃弾や爆薬により、数多の死体を作り出していく。戦場は例外なく地獄になり、毎分毎秒兵士が屍になっていく。日進月歩で進歩していく技術は、闘争においても通じていくものであり、一人が一度に殺すことのできる人の数が増えれば増えるほど、被害者の数を増大させていった。
近代化により沢山の屍を生み出した戦争は、世界中の殆どが害を被り、ほんの一部の国が利益を得ただけだ。人々は恐怖し、これ以上の惨劇を生み出してはならないと自戒の日々を送った。
それでも、国家間のいざこざは消えることはなかった。数年にわたる闘争は定期的に訪れるが、幸か不幸か二度の大戦のような、世界中で起きるような大規模な戦争は起きることはなかった。
おそらく、世界の人々は確信していたのだろう。同じことがもう一度起こるようであれば、確実に人類という種族は終焉を迎えるということを。
「何故、人は死ぬんだろうな」
場末のダイナーのカウンター席で、白人の男――アーロン・ラメセトが小さな声で呟いた。
「いやに哲学的な問いだね」
店主はその呟きを聞き逃さない。グラスに注がれた麦酒を受け取ったアーロンは、興味の無さそうな店主に向かって片眉を上げる。
「食って寝て、女を抱いて、老いるから死ぬ。人の一生なんざそんなもんじゃないか?」
「そう単純な話だといいんだがな」
店主の人生観はあまりにも単純でありながら、誰しもが焦がれるようなものだった。どの時代になっても、平穏に生きて、平穏に死ぬことは難しい。二十万年経っても争いを止めることができない人間という種族は、これからも争いを続けるだろう。それこそ、最後の一人になるまで。
備え付けられたスピーカーから流れるジャズのドラムのリズムは乱雑でありながらピアノとサックスを巻き込んで、一つの世界を描いていく。
時に激しく、時に静かに。可憐だと思えば厳かに。からりからりと転調を続ける音色は混沌としているようで、一種の秩序のようなものを形づくっている。まるで焚き火がゆらゆらと燃えるようなその調べはアーロンが聴いたことのない曲であったが、彼にはそのメロディがどこか懐かしく感じられた。
グラスを傾けて麦酒を喉の奥に流し込み、瞳を閉じると浮かぶ女性の姿。時折瞼の裏にやってくる彼女は、出逢うどころか見たこともない――言ってしまえばアーロンの妄想の産物でしかない。
紅い髪に褐色の肌。世界中で伝えられている死神の姿によく似た女が自分に向かって微笑うその姿が、どうにも離れてくれない。
「全ては死神のみぞ知る、か」
命を刈り取る死神に魅入られた自分は、いつ何処で死ぬのだろうか。彼女が目の前に立った時、自分は悔いることなく生ききったと胸を張って言えるのだろうか。いつか魂になった自分が彼女の手を取って、どこまでも遠くに行けたのなら。そんなことを思ってしまうほどに、アーロンの頭の中は死神で埋め尽くされているのだ。
「さァてね」
この話題はこれで終わりだというように、店主は背を向け、調理を始める。
ベーコンの焼ける軽やかな音と香ばしい香りが、アーロンを現実に引っ張り戻していく。急速に取り戻される現実感に、アーロンは何度か首を振り、窓から外を見る。
完全に太陽が沈みきった空には、大きな満月が浮かんでいる。太陽の光を反射して白金に輝く衛星は澄んだ空気もあって見るもの全てを魅了するほどに美しい。
「エドナ」
無意識に口に出した名前のことなど、すぐに忘れてしまうほどに。
・・・
はじめに誰が言い出したかもわからない。
永遠の命を持つ死神が、様々な人間の命の終わりを看取る伝承。ある地域では神話として、ある地域では童歌として。内容に多少の差異はあるが、彼女の伝説は世界中に満遍なく広がっている。
神の子の聖人、彼の教えを信じる者と信じない者。そのどちらであろうとも、彼の姿を見た者はいない。しかし、誰もがその存在を認識している。それは死神も同じことであり、人類がこの世界に誕生してからの二十万年。紅い髪、紅い瞳をした死神の歩いてきた旅路は、それこそ無数に存在した。それを集団ごとに発生する文化のシンクロニシティと片付けてしまうには、あまりにも短絡的であるといっていい。
人々は日々を生きている。繁栄の中を過ごし、その命を次へ次へと繋いでいく。発展を続ける中で傲慢になった人類は、他の生物を喰い尽くしていく。星の全てに腕を回し、なにもかも手中に収めたと思われる人類が、まだ手を加えていない場所が存在していた。
いつの時代から存在するかわからない。とある山岳部の奥の奥にある、人の手が入り込むことのない、直径一メートル程度の苔むした小さな丸い岩。それに
そこにはとある人間が弔われている。二十万年という長い人類史からしてみればまるで流星が燃え尽きるような一瞬でしかない短い時間。それでも、生きて生きて生きて、生き抜いた末に力尽きた。
『彼女』は一日一日を悔いなく過ごした。まるで自分の命が有限であることを慈しむかのように。
『彼女』は出会った全ての人を愛した。まるで何もかももう一度やり直すかのように。
勇敢で、儚く、雄々しく、繊細で、優しく、誰かを救い、理知的で、豪快で、靱やかで、許しを求め、温かい。そんな人間らしさで溢れている人生だった。
そんな彼女は最期に何を思ったのか。何もかも受け入れることが出来たのか。それは誰にも分からない。人の手が入ることなく長い年月を経た名もなき女性の墓標は、今もゆっくりと時を刻んでいる。
「また、どこかで逢えるよ」
風に乗って聞こえてきたのは、どこか懐かしい声だった。
微笑う死神の追憶 -幾億の夜を抱えて- 木村竜史 @tanukiss
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