スルアデュミ

 瞬きする間に景色が切り替わっていた。見渡す限り真っ白な、現実感の欠片もない光景。照明の類は見つからないが、まるで真昼のようだ。手のひらから赤い血が床面へと零れ落ちていくが、白い床が汚れることはない。最初から血液などなかったかのように、完璧な白が変化することはなかった。


「どうだい、⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎。なかなかに退屈なところだろう?」


 人類の滅亡を告げた、私を呼び続けた声の主が楽しそうにこちらを覗き込んでいる。先程から、恐らく私のことを指す名詞らしきものを口にしているが、そこだけはあらゆる全ての理から拒絶されているように、砂嵐のようなノイズで掻き消されていく。


 そして夜の闇から抜け出した為か光を放っていたその声の主姿は幾分か見やすくなっていた。


 だからこそ気付く……気付かざるを得ない事象も存在する。声の主は先程まで中性的な子供の姿をしていたはずなのに、瞬間ごとにその姿を変えていく。ある瞬間は老婆のように見えたかと思えば、ある瞬間は年端もない少年のように見える時もある。見る度に印象どころか声や服装、気配すらもが変わり続けていてはいるけれど、紅い眼だけは変わることはない。


 ヒトの命の象徴でもある血液のようにぬらりと光るその眼に見られるだけで、目の前の『存在』に対する恐怖に近い感情がぞわり、臍のあたりから湧き上がってくる。


 だけど、それ以上に。


 あの姿を見ていると、無条件で平伏してしまいそうになるのだ。抗うという選択肢が浮かばないほどに、絶対的な圧力を放っている。全身の毛穴が開き、喉が渇く。心臓が異様なほどに早く脈打っている。目を逸らしたいけれど、眼球の動きを制限されてしまったかのように焦点は目の前の対象に固定されてしまっていた。


「ここはね、宇宙の裏側さ」


 真っ白な空間をゆっくりと歩きながら、東方の着物を何枚も羽織った中年の男性の姿に切り替わった『存在』はわざとらしく両の手を拡げる。歌劇の振り付けのようなの動きは冷静になって見てみればわざとらしく、それでいて陳腐なものなのだろう。


 だが今の私の目には目の前で繰り広げられている行動一つ一つがどうしようもなく荘厳に見える。催眠術の類かなにかで認識を弄り回されているのか、それとも別の何かが私の頭の中で蠢いているのか。


「キミがいたこの宇宙はね、暇を持て余した観測者が創ったんだ」


 銀色の全身鎧の姿に変わり、金属の擦れる音を奏でながら『存在』はとてつもない事を口にする。私が生きてきた世界どころか宇宙すらも作り物なんてこと、信じるわけにはいかない。言うこと全てを信じてしまいそうになる『存在』の言葉が重圧のように伸し掛るけれど、全身全霊を以て抵抗を試みる。


「そ、そんな、そんな馬鹿なこと、が……」


 首を振りながら否定の言葉を口にするけれど、最後のほうは消え入るような声量になっていた。


 私のあまりにも弱々しい声を聞いて、鉄兜に隠された相貌がどのような表情を浮かべたのかは知る由もない。


「いいや、キミには理解出来ているはずだ。ただ認めたくないだけだろう?」


 しかし、その声は自信に満ちたものだった。まるで自分の言葉が揺るぎない事実というか、口にしたことが事実になってしまうような暴風のような威圧感。


「その観測者はね、キミがいた星だけでなく沢山の天体を無作為に創り出し、それが滅んだり発展したりするのを眺めるんだ。どれだけの時間があっても飽きない、最高に楽しいシミュレーションさ」


 楽団を指揮するような動きをしながら、私と同じ紅い髪をなびかせた『存在』は私の周りをゆっくりと歩き続ける。


 確信がある。いつの間にか長いコートを靡かせ、真っ黒なブーツを履き、わざわざ高い靴音を奏でているこの『存在』こそが、まさしく観測者だ。この宇宙、私が歩いてきた星、そこで生きてきたヒトたちを創り出し、最後は私をこんな場所に連れてきた者。安っぽい言葉で例えてしまうと――神であるということを。


 例えカタチのない形骸だったとしても、ヒトは神に救いを求めるのをやめなかった。どんなに祈りを込めても、願っても、縋っても、実質的には何も得られず、結局は一時の精神的充足に過ぎない。


 存在しないのであれば、応えられない。それなら、まだ理解出来る。

 だけど。

 今になって。


 私が二十万年もの間、信じず、願わずに生きてきた存在。それが今、目の前にある。ヒトが生きている間には姿を見せず、よりによってこんな時に、のこのこと馬鹿にするかのように現れたのか。やはり神というのは傲慢で倨傲で、驕慢で、我儘だ。


「それで、なぜ私を呼んだの?」


 怒りが胃の下のほうからじわじわと滲み出てくるけれど、私の頭の中は未だに畏れで染まっている。それでも、反抗の意志だけは捨ててはいけない。完全に折れてしまったならば、きっともう、立ち直れない。目の前の存在に平伏すだけになってしまう。精一杯に強がりながら、なんとか声を出す。


「いやなに、礼を言おうと思ってね。⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎、キミが与えてくれた情報はとても愉しかったよ。二十万年の旅路は見ていて飽きなかった」


『存在』の言葉の一部は口角を大きく上げながらけらけらと愉しそうに嗤う。瞬間瞬間ごとに姿形が変わるけれど、その笑みだけは変わることはない。靴音がどんどん大きくなる。踊るような動きがどんどん激しくなる。まるで何もない空間と情熱的なダンスを踊っているようだ。


 どうにも拭うことのできない違和感。今までの私ならば一蹴したはずの動きだ。どうして眼を逸らすことが出来ないのか。どうして瞬間ごとに見た目が変わる、バケモノともとれるいい観測者に対して、これ程までに畏敬の念を抱くのか。疑問符を塗りつぶしてしまいそうなほどの圧力に耐えることしかできない。


「宇宙創造から百四十億年近く。それに比べればキミが見ていた時間など、ほんの0.001428571パーセントだ。だとしても、人間と共に生きるキミはとてもとても愉しかった……!」

「なにを、言ってる……?」

「いやしかし、『数』という概念は素晴らしいね。当たり前のことを客観的に見る事ができる」


 心から愉しげといった様子で観測者は言葉を続けていく。私の疑問の問い掛けなど、耳に入っていない……というか、情報として認識していないようですら感じる。


 観測者はいつの間にかTシャツと半ズボンのラフな格好をした老婆の姿に変わっていたけれど、仰々しい動きは何一つ変わらない。むしろ枯れ木のような手足で先程までの動きをしている方が、余程異様な光景だ。


 私の周りをぐるぐると歩き、四周目に入ったところでその靴音を止める。ぐるり、と首だけこちらに向けながら浮かべる下卑た笑みは、何故かどんなものよりも純粋で純真で無垢なものに見えた。


「キミの見てきた世界、ヒト、文明。すべての記憶視覚聴覚触覚味覚聴覚感情は、観測者のもとへと収束される。キミは、ボクが創り出した『モノ』、観測用ユニット・スルアデュミ――それがキミの本当の名前」


 心臓を直接握り潰されたような衝撃が胸の中心から全身の末端まで一瞬で広がっていく。そんなこと、そんなことは認めてはならない。

 だけど。

 頭のどこかで。

 納得してしまっている自分がいるのだ。二十万年の間、老いることや死ぬことがなかった日々。そのなかで疲弊しない精神。どんなに傷ついてもすぐに修復される肉体。


 それでも。


「私はエドナだ。エドナ・ラメセトだ! 人間だ……!」


 自分自身に向けて吐き出された叫びに対してわざとらしく肩をすくめ、余裕綽綽といった表情で受け流す様を見て、お腹の奥ではじめて『存在』に対する敵意がじりじりと浮き上がっていく。強がりではない、本当の敵意。左手の痛みは、いつの間にか感じなくなっていた。


「キミが自分をどう認識しようが、なにも関係がない――それよりも、本題に入ろうか」


 狂気を多分に帯びた『神』の貌は、私がはじめて殺した男にとても良く似ていた。


「お礼がしたいんだよ、愛しいスルアデュミ」


 娘(ナーリア)を殺した、あの醜く肥え太った獣に。

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