死神の夫の独白
教会も寺院もこの近くにはないし、牧師もいない。結婚の儀式もする気はなかったし、呼ぶ人もいなかったから、それでいいのだけれど。
私が妻になったという証明など、私と夫――アーロンの二人だけにしか出来ない。私はただ、彼の『夫婦になろう』という提案に首を縦に振っただけなのだから。
一つ変わったことを問われて、それを答えたとするならば、ただのエドナだった私に『ラメセト』という苗字がついたことだ。今までは苗字を聞かれた時は適当に答えていたのだが、世界が終わりに近づいているこんな時に、こんなところでようやくしっかりとしたものを得るとは思ってもいなかった。
朝は目覚めたら二人で朝食を済ませ、そのままずっと家の中で本を読んだり、他愛のない話をする。時折、外に出ることが難しくなったアーロンの代わりに買い出しなどの雑務をこなしたりするが、基本的に私たち夫婦が離れている時間は少なかった。夜になればお互い裸になりひとつのベッドで横になる。特に何もすることもなく、そのまま二人で眠りにつくだけだったが、そっと抱き寄せてくる彼の太い右腕にそっと触れているだけで、私の胸の奥がじんわりと満たされていく。
このまま時間が止まってしまえばいいのに。そうとさえ思えてしまうほどに、私の胸の中は安心感と幸福感で包まれていた。人類を滅ぼす凄惨な戦いの直後とは思えないほどに、今の私は満たされている。この気持ちはもしかしたら、死にゆくアーロンに対しての情でしかないのかもしれない。それでも、生きて生きて生き抜いてきた彼の命の輝きが、私には眩しく愛おしく感じるのだ。
「エドナ」
「どうしたんだい?」
カーテンの隙間から月の光だけが差し込む暗がりの中で、小さな声で夫が囁く。耳元に感じる彼の吐息がくすぐったく感じるけれど、不快感は微塵も感じない。彼に求婚されるまでは、こんな距離で彼の声を聞くことはなかった。きっと自分が思っている以上に、彼が私を伴侶として想ってくれていたのだろう。
「お前は、死神なのか?」
「そう呼ぶ人もいるね」
否定はしなかった。できなかった。私が歩いてきた道程の中で、数えきれないほどの『死』が通り過ぎていった。老い、病や飢餓、戦いだけでなく、つまづいて転ぶ、馬に蹴られるといった――他人からしてみれば軽率なアクシデントでさえヒトは簡単にその命を散らしていく。なぜ私は彼らのように死ぬことなく生き続けてるのだろう。わからないまま、それを誰にも話せないまま歩き続けて、とうとう二十万年が経とうとしている。
そしてこうして、また一つ目の前の命の輝きが消えようとしているのを眺めていることしか出来ないのが、私の無力さをどうしようもなく認識させるのだ。本当に私は死神なのかもしれない。それも無意識で全方位に死をばら撒くことしかできない厄災のような存在。
もしかしたら、この状況も私が生み出したものだったなら、どうすればいいのだろう。答えのない自問が私の胸の中でぐるぐると渦巻いていく。
「俺はもうすぐ死ぬんだろう」
そんなナンセンスな苦悩を隠したまま、もうすぐ旅立つ夫に不安を与えないように微笑う死神に向けてアーロンはぽつりと呟いた。私が抱きしめている右腕は力が入る様子はない。ただ自然体のまま、アーロンは言葉を続けていく。
「戦っていたときは、簡単に割りきれたよ。殺さなければ、殺される。だから殺したよ。何人も、何十人も。相手が同じように俺を殺したとしても、仕方ないと思っていた。主義主張なんて関係ない。お互いがお互いを仕方なく殺しあう。それがあの戦争だった。割り切らないと、頭がどうにかなってしまう」
囁くような呟きは、だんだんと声量を増していく。暗闇のなかで彼がどんな表情をしているのかは、わからない。いつものように真顔でいるのだろうか。それとも、苦悩に歪んでいるのだろうか。
死がひたひたと近づいてきているアーロンは、一瞬だけではあるが、とても悲しそうな顔をすることがある。それを見なかったことにするのは、胸が締め付けられるようになる。もしかしたら、今の彼はそんな顔をしているのかもしれない。
「そんな俺が生き延びて、こうして妻と呼べる人を得た。あまりにも幸福だ。あの日々からしてみれば、本当に、本当に夢のようだ。でもな、思い出してしまったんだ」
ゆっくりと、絞り出すように続けていく夫の独白。それを
「――いや、蓋をしていたのだろう。あの地獄の底からずっと考えないようにしていたことが今になって溢れてきた。怖いんだよ、死ぬのが。割り切ることなんて、出来やしなかったんだ……!」
いつの間にかアーロンの声は絞り出すような絶叫に変わっていた。慟哭にも似た彼の嘆きを少しでも和らげてあげたくて、彼の手をぎゅっと握りしめる。彼の熱い手がじんわりと手を温めるとともに、この温もりが確実に、そして近いうちに失われるのがとても恐ろしく感じた。
私のすぐ近くで命を散らせたヒトは数多くいるけれど、命を散らせる夫はアーロンただ一人なのだ。それが失われてしまうと想像するだけで、私の内側にヒビが入ったような感覚に陥る。彼の胸の中で眠ることの多幸感は、麻薬のように私の脳に刻まれてしまっているのだから。
「エドナ、もし俺が本当に駄目になりそうだったら、あの戸棚を開けてくれないか」
いつの間にか小さな鍵が私の手の中に握られていた。今私たちが眠っているベッドのすぐ隣に小さな戸棚があり、そこに鍵が掛けられている小さな引き出しがあることを思い出す。そこに何が入っているのかなんて、考えたこともなかった。
「お前にしか頼めないんだ」
「......わかったよ」
しばしの沈黙と共に、彼の依頼を承諾する。引き出しの中に何が入っているのか分からないけれど、すぐ近くで震えている夫を宥める為には、首を縦に振るしかなかった。
その数日後に、安易な同意をしてしまったことを後悔することになるとは、今の私は思ってもいなかった。
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