いきなりの

 時折ふらつくアーロンの背中を支えながら道を歩いていると、どろりとした視線が背中に刺さることがある。土着信仰の影響がそれなりに残るこの地では、紅い髪の女に関しての伝承が存在する。数多の死を看取り、死とともに生きてきた死神の話だ。この辺りに住んでいたことはなかった筈だが、どうやら何処からか口伝で私の噂に背鰭や尾鰭が付いて伝わったのだろう。こういったことも、よくある話だ。


 恐らくは御伽噺のように浸透していた伝承でしかなかったのだが、この地の住民から良くない眼で見られるには十分すぎるようだ。特に、この終わっていく世界の中では怪物に近いものに見えてしまうのだろう。それ程までに、この世界に生きる者たちの心は磨り減っていた。


 荒廃し閉塞した世界のなかで、私たちは生きている。殺し殺される凄惨な日々を抜け出したとしても、ヒトは本質から抜け出すことはできない。自分たちと違うものを排斥する、集団としての防衛本能。


 紅い髪の女もそうだが、戦場帰りの大男であるアーロンも排斥の対象になるらしい。戦火を体験していない者など誰一人いないこの時代だが、実際に戦い、帰ってきたものは少なかった。あらゆる『生命』を平等に殺していく炎から、生き延びることはとても難しかった。戦いにてヒトを殺すことは仕方のないことかもしれない。祖国を守り、自分を守る為に銃を撃ち、相手を物言わぬ躯に変えていく。それが許されるというか、仕方のない『現実』に置き換えるのが戦場なのだ。ヒトを殺した獣である私が、その行為を悪と言うことなど、出来るはずなどできない。


「人殺しと死神か。お似合いだよ、全く」


 悪意にまみれた声のほうを振り向くが、ヒトの姿は見えず、原風景に近い光景が広がっているだけだった。ただの気のせいだと思いながらアーロンと歩き続ける。


 向かった先は小さな診療所だ。この集落にただ一人存在する医者は真っ当な価値観の持ち主のようで、私たちをあのような目で見ることはない。年季の入った医師独特の、慈愛を持ちながらも僅かに悲しみの混じった瞳でアーロンの診察をしていく。


 彼の通院に付き添うのは何度かあったが、こうして彼の診察を間近で見るのは初めてのことだった。普段は診察室に近づくことはなかったが、今日に限って彼を奥へと連れていった時に呼び止められたのだ。なぜ私がアーロンの隣に座っているのか。なぜこうして医者の話を聞いているのか。たくさんの疑問が浮かび上がるが、二人の放つ雰囲気というか空気感に圧倒されてしまいそれを口にすることはできなかった。


「ふむ……」


 息が詰まっている私に構うことなく、医者は暫くのあいだ診察を続けていく。パネルに貼られたレントゲン写真の数々は、医療に関して全く知識もない私でも違和感にまみれているのがわかる。明らかに存在しない『何か』が大量に存在している。それを見るだけで、彼がとんでもない地獄の底で藻掻いていたということを改めて実感した。


 私の小さく息を吐く医師の表情は固いものだった。口元に蓄えた白い髭では、なにも隠せずにいる。


「ここまでよく歩いて来れたな、というのが本音ですな」


 吐き出すように放たれた医者の言葉は、なんとも現実味のないものだった。だって、彼はいつものように元気で、自分の足で立って、歩いているんだから。最近はたまに足に力が入らないと言っていたけれど、戦場のダメージが残っているからだとずっと思っていたのだ。内臓も骨もボロボロだと、本人も言っていたけれど、本業の医師から直接伝えられると、衝撃の度合いがまるで違う。


「何度レントゲンを見ても震えますよ……数多の戦場を渡ってきたのでしょう? 摘出できていない銃弾や破片、そして大量の放射線による悪性腫瘍が複数――それもかなりの重篤だ」


 冷や汗をかきながらも淡々と話す医者の言葉が、なんだか遠くに聞こえた。それを見ているアーロンの表情は変わらない。いつものように口をまっすぐ結んでいるだけだ。何も言わず、当然のように自分の身体の内側を映した写真をじっと見ていた。


「正直、いつ何が起きてもおかしくはありません。明日どころか、今夜かもしれない。奥様と残りの日々をどうするか話し合うべきですな。もはやどうにもできませんので……」


 その言葉を以って診察は終わることになった。処方されたのは大量の痛み止めだ。物資も殆どなくなっているこの現状であるが、この医師は出来るだけのことをしてくれている。その優しさが尚更、アーロンの『死』の近さを改めて感じさせるのだ。


 薬を貰い、様々な手続きを済ませて病院を出る。こんな時代になっても、太陽は上り、沈んでいく。毎日毎日ずっと繰り返されていくサイクルのなかで、ヒトは生きて、死んでいく。それをできるだけ長く続けて欲しいと願うのは、傲慢なのだろうか。


 私は生きていかなければならない。数多の『死』を乗り越えて、ここにいる。アーロンもその一つになる。口にするだけ、考えるだけなら簡単なことだ。


 だけど、何度繰り返しても。すぐ近くに生きている、生きてきた命が消える瞬間は胸が引き裂かれるような感覚を覚えるのだ。今でもそれは、慣れることはない。きっと、慣れてはいけないものだろう。


 隣を歩くアーロンが私の方をちらり、と見たあとに小さく呟く。


「気にするな、痛いのは慣れてる」


 彼の言葉には力強さがまだ残っていた。こんなところで死んでたまるか、とでも叫ぶような彼の足取りは、一歩一歩の幅が広い。失われた左腕が収められるはずだったシャツの袖が大きく揺れている様を見て、慌てて彼を追いかける。


「無理はしてないよね……?」

「痛いし苦しいが、あの時よりはずっとマシだ」


 あの時――彼の話を聞くだけでも、身の毛がよだつ思いをしたものだ。先程まで笑っていた友人が一瞬で死ぬ。腕を組み、瞳を閉じて埋めることの出来るような原型を留めているなら運がいいほうで、何もかも残らずに血煙となって消えた仲間や、焼け焦げて誰だったか分からなくなるほどになってしまった部下、そして自分の放った銃弾でなぎ倒されていく敵兵の瞳。本当に、戦場は地獄そのものだったのだろう。


 考えるだけで胸の奥が痛くなってくる。このままではお互いの気が滅入るだけだ。とにかく話題を変えなければ。


「そ、それにしても奥様だってさ……あのお医者さん、な、なんか勘違いしてたのかな、はは」


 乾いた笑いは風に乗ってどこかへと消えていくが、彼の反応は殆ど変わらない。聞いていたのかどうかわからない。あの時はなぜ私も診察室に一緒に呼ばれたのかわからなかったが、今では何となく理解できる。よく考えてみれば、私とアーロンがずっと一緒にいることは集落に住む者の殆どが知っている。ただ単に、彼の容態が芳しくないことを知った医者が、空気を読んだだけなのだろう。


 そう結論付けてはいたが、いつもと同じと思っていたアーロンの表情はなかなか見た事のないものだった。いつもの真顔に近いが、なにか躊躇うような、言い淀むような、そんな表情だ。


 アーロンが何を言うのか、疑問に思いながら彼が口を開くのを待つ。暫しの間を置いて、右手で後頭部を掻きながら私の方を振り向く。


「折角だ。なるか? 本当の夫婦に」


 不意打ちそのものの形で隣を歩く男の口から放たれたとんでもない言葉は、返事をすることすら許さないほどの衝撃だった。


「……カヘッ」


 なにか言おうとして出てきたのは、空気を取り込めなかった間抜けな呼吸音だった。

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