そして、ヒトになる
覚悟はしているつもりだった。ヒトはいつか死ぬのだから。
覚悟はしているつもりだった。彼は重く深い病に冒されていたのだから。
覚悟はしているつもりだった。『死』はいつも私のすぐ隣にいたのだから。
「まだ死ぬんじゃない! お医者様がもうすぐ来るんだから......! だから、だから耐えるんだよ、アーロン!」
だけど、ヒトが死ぬという事実に慣れることはない。二十万年も生きてきたというのに。握りしめる夫の右手の温もりがまもなく失われることへの恐怖が、私の胸の中で渦巻いていく。
「エド、ナ」
ベットに横たわるアーロンは、命の火が今にも尽きそうだ。息は浅く、目は虚ろで焦点が合っていない。
しかし、彼の眼は戸棚へと向けられていた。見えているかもわからないけれど、そこにある何かに誘導されるように、何処かに無くさないようにとずっとポケットに入れていた鍵を手に取り、歩いていく。
引き出しに備え付けられていた鍵穴に銀色の小さな鍵を差し込み、回す。かちり、という解錠を示す音を聞いた瞬間に勢いよく取っ手を引いた。
中に収められていたものを見て、思わず眼を見開く。入っていたのは、真っ黒な回転式の拳銃だった。その昔、ウィリアムとジャネットが持っていたものと同じ構造のものであり、引き金を引くだけならば誰にでもできる簡素なものだ。明らかに私に撃たせるためだけに、私に夫を殺させるために用意されたヒトを殺すための兵器。
『病に殺されたくはない。愛する妻に殺されたい』
そう殴り書かれたメモが、銃のすぐ隣に置かれていた。しっかりとした筆跡は、ほとんど失われてしまったアーロンの生命力の名残そのものであり、それを目にするだけでも涙が込み上げてくる。
銃にはしっかりと六発の弾丸が込められていた。アーロンの願いは炸薬と鉛玉と一緒になってしまっている。
また私に、ヒトを殺せというのか。はじめは激しい炎のような怒りのままにヒトを殺した。我が身や周りの命を護る為にやむを得ず、という形の正当防衛もあったけれど、結果として二十八人ものヒトを殺した私は紛れもない獣だった。何年も何年もかけて、殺した数以上に救えば、ヒトに戻れるかもしれない。バラナシオに言われた言葉を胸の奥に秘めながら、ずっとずっと生きてきた。
視界の隅にたくさんの男たちが見える。私が殺してきたヒトたちは、こうやって意識した時に現れやすくなる。彼らは何も言わず、無表情で私のことをじっと見つめている。彼らの視線を浴びれば浴びるほど、私は何処までいってもヒト殺しの獣でしかないことを自覚してしまう。
「ほ、本当に、本当にやらないと駄目なのかい、アーロン」
何度も逡巡しながら、拳銃の安全装置を解除し撃鉄を起こす。あとは引き金を引くだけで、夫の願いが叶う。叶ってしまう。
両手で構え、銃口を夫へと向ける。それが彼の望みであるならば、妻の私がやらなければならない。それでも、拳銃を持つ右手の人差し指は動くことはなかった。まるで切り取られてしまったのかのように感覚がなくなったのは、途方もないほどの躊躇い。
「はぁ――ッ……! はぁ――ッ……!」
どうしていいのかわからない。苦しむアーロンを楽にしてやりたいという気持ちと、彼を失いたくないという気持ちが激しくぶつかり合う。呼吸が上手くできず、酸素が脳へと届かない。ぐるぐると視界が回っていく。
戸惑い躊躇っている時間などないことはわかっている。こうしている間に、アーロンは死ぬ。全身を病魔に侵されて、苦しんで。それだけは絶対に避けなければならないことも理解していた。
銃を構えたまま動けない私を見て、アーロンは目を閉じ、口角を少しだけ上げる。
「た、の……む」
そして、初めて見せた彼の目に浮かぶ涙が、消え失せていた右手の人差し指に感覚を取り戻させる。躊躇はある。撃ってしまったならば、私はずっと後悔するだろう。それこそ、人類が滅びて私が一人ぼっちになったとしても。
「ごめんね、アーロン」
覚悟なんてできていない。それでも、引き金を引かざるを得なかった。
途轍もなく重い引き金。長い遊び。しかし、確実に動いていく人差し指。
そして、『その時』はすぐにやってくる。私が、夫を手にかける、その、瞬間が。
「ありがとう」
火薬の炸裂音とともに銃弾が放たれる直前に聞こえたのは、アーロンの最後の言葉。最後の最後ではっきりとした口調で呟かれた感謝が更に私の胸を押し潰していく。
ろくに狙いなど定めなかったけれど、刹那の閃光と共に放たれた銃弾は、アーロンの胸の中央――心臓の周辺に命中したようだ。弱りきった身体への銃撃のダメージは耐えきれるはずもなく、消えかけていたアーロンの命の火は一瞬のうちに消え失せた。彼の表情は、苦痛に染め上げられていたとは思うないほどに穏やかなものだったが、そんなことはなんの慰めにもならない。
「あ、あ、ああああ……!!」
私が殺した。私が殺した。私が殺した。私が殺した。私が殺した。私が殺した。私が殺した。私が殺した。私が殺した。私が殺した……!!
私が殺したんだ。こんな私のことを愛してくれた人を。それだけが紛れもない事実だ。
部屋に広がる火薬の匂いと、じわじわとベッドのシーツを染めていくアーロンの血。これが夢であったならどれだけよかったのか。まさしく悪夢と思いたくなるような光景ではあったが、自分のしたことに目を背けることだけはあってはならない。それが、今の私に出来る唯一のことなのだから。
居なくなってしまってから気付く。愛していた。愛していたのだ。私も、夫のことを。アーロンのことを。私が生きてきた年月に比べてしまえばほんの短い時間だったけれど、一緒に過ごした日々は、私の中で掛け替えのないものになっていた。結局のところ、二十万年生きてきたとしてもヒトを愛することが出来ていなかったのだ。自分と違う時間を生きていると無意識に思っていた。
ヒトを殺して獣になり、ヒトを救うことでヒトに戻ろうとしていた。長い長い時の果てで、愛していたヒトを手にかけたことにより、私は今、ヒトになった。
喪失を自覚すればするほどに感情が溢れかえり、涙が止まらなくなっていく。
衝動的に拳銃の銃口を側頭部に当て、撃鉄を上げる。がちゃり、という金属音が頭蓋骨を伝わり、脳に直接響いていく。こんなことをしてもアーロンは喜ばない。「そんなことをさせるためにコイツを渡したわけではないぞ」と眉間に皺を寄せて言うに決まっている。
「でもね、アーロン」
自分で自分を罰したいという念もある。だけど。
愛する人のところに行きたくなるのは、仕方のないことじゃないか。
夫を撃つ時よりも遥かに、引き金は軽かった。頭全体に伝わる途轍もない衝撃と、脳をぐずぐずに破壊していく吐き気のような不快感が、食道付近で暴れ回る。
それでも、悲しみはなくなることはなかった。血液と脳漿を部屋に撒き散らしてしまうけれど、私の命が尽きることはない。数秒の間を置いてしまえば、何事もなかったかのように私の頭は元のカタチに戻っていく。
何故、私は死なないのだろう。
何故、私は死ねないのだろう。
「う、うぅ、アーロン、アーロン……!」
愛する人と共に歩けないのが、ヒトであることがこんなに苦しいなんて思ってもいなかった。二十万年の重みが、一気に私に襲い掛かってくる。
生きていかなければいけないのか。歩き続けなければならないのか。
何度も撃鉄を起こし、自分に向けて引き金を引いても結果は変わらない。いくら涙を流しても、夫の骸は何も答えることはない。空になった弾倉を撃鉄が弾く金属音が、部屋の中で何度も響いていた。
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