祈りの意味

「じゃあ、行ってくるよ。いつ戻るかは、わからないかな」


 それだけ言って、キュレティステネスは自宅を出ていく。脇に抱えた大きな包みの中身は、彼女がこの世界に存在した証だと言っていたものだ。それを半身のようにしっかりと保持しながら、強い目付きで前を向く。


 それ以上、彼女は何も喋らなかったし、振り返ることもなかった。様々な大きさの乱形石で敷き詰められたリアーロの路面を力強い歩調で進んでいく。


 人混みに紛れてどんどん見えなくなっていく彼女の背中で揺れる銀色の髪は、微かに太陽の光を反射して煌めいていた。


「さぁて、私もそろそろ出るとするかな」


 木製のツルギはもうすっかり私の身体の一部になっていた。バラナシオの住んでいた島の木は兎にも角にも頑丈だった。腐ることも朽ちることもなく、あれからずっと私の腰にぶら下がり続けている。不格好な柄を握れば、胸の奥が少しだけ落ち着くような気がした。


 自宅に戻り、簡単に身支度をする。キュレイの半身は恐らく、中央の施設に持っていかれるのだろう。そこには詩や叙事詩、歴史書などの多数の書物が収められているらしい事と、審査が通ればどんなものもそこに収められることが出来るという事を彼女から聞いた。審査にどれぐらい時間がかかるかはわからない。そういった意味でキュレイはいつ戻るか不明瞭だと言っていたのだろうが、いくらなんでも夜には戻るだろう。


 ならばせめて、半身を別のところに置いた彼女にとって、少しでも気晴らしになるなら。


「今日の晩くらいは豪勢にしよう」


 弓と矢筒を背負い、街の外へと進んでいく。キュレイと反対方向に進んでいくことになるが、どちらにせよ行き着く先は同じ、この家なのだ。


 鋭い鏃は獣だけでなく、ヒトの命すら容易く刈り取ることができる。ずっしりとした腰のツルギの重さが、忘れてはならないと呟いているような気がした。


 誰に見せる訳でもないが、小さく首を振る。とにかく彼女にお腹いっぱいの肉と肉を振る舞いたい。それだけなのだ。決して自分が食べたいからとか、そういうものではない。決して。


 私が好んで食べていたカウカウはこの時代には、もう姿を見せなくなっていた……というより、彼らの子孫は気候や地域によって様々なカタチに適応していった。この地域ではロークスと呼ばれる獣が、カウカウと同じような姿をしている。毛が長く、そして毛皮が分厚い。それでいて長く鋭い一対の角が特徴的だ。


 一匹でも狩ることが出来たのならば、私とキュレイの二人では数日は満腹になれるぐらいの量の肉が採れる。それでいて毛皮や骨もそれなりの値で売れるので、なにか他のものを買うことも出来る。まだ狩れてすらいない成果を想像して、頬が緩んだ。


 気を取り直してリアーロの外に出る。空はどこまでも突き抜けていきそうなほどに青い。微かにある雲は薄く、今にも消えてなくなってしまいそうだ。こんな空だからこそ、ヒトは天に向かって祈りを捧げるのかもしれない。そんなことを漠然と考えながら平原を歩いていく。


 この時代の人々は天の使いに対して祈る。豊穣を。恵みの雨を。そして、勝利を。


 天の使いというのはこの地域を収めている領主の一族、またはその祖先のことだ。どうやら彼らはヒトでありながら天の代弁者でもあるらしい。このリアーロの人々にとっては天というものは絶対的な象徴で、その口から出る言葉は天からの声そのものであり、それに背くことや否定することは重罪とされている。


 まったく、馬鹿馬鹿しい話だ。天の使いなんてものは存在しないし、その代弁者である領主はとんでもない大嘘つきだ。そんな高等な存在がいるのならば、世界はもっとマシになっているだろう。ヒトがヒトを殺したり、真っ当に生きてきたヒトが無残に殺されたり死んだりすることなんて起こりえる筈もない。


 私が祈るのは、大地に生まれ、育ち、死んでいく命そのものなのだから。


 弓の射程の外でゴーギがのんびりと草を食べている。弓をゆっくりと構え、気配と足音を殺して近づいていく。警戒心が強いゴーギの視界に入らないように姿勢を低くしたり草むらに隠れたりしながら近づき、矢を番える。


 狙いを定めて、指を離す。風を切って一直線に進む矢はゴーギの胴体に命中し、痛みにのたうち回りながら走り回る。次の矢、その次の矢を何度も番え、放つ。そのうちの何発かが当たる頃には、ゴーギは命を手放していた。私たちの血と肉になる為に、殺された。血と肉にするために、殺したのだ。


 そうやって私たちは、生きていくのだ。生きてきたのだ。これがこの世界だ。天の使いなんて、必要ない。

 リアーロに住むヒト達を否定する気は無い。彼らには彼らの文化がある。地域や文明によって、風習や考えることだけでなく、体型も肌の色も瞳の色も髪の色も違う。カウカウと同じようなものだ。リアーロの人間が聞いたら怒り狂いそうだが。


 熱中すればするほど、太陽は早く動いていく。ふたつの月が上がりはじめる気配を感じて、狩りを切り上げる。結局ロークスは現れなかったが、ゴーギは三匹も手に入れることが出来た。二人で食べる分には一匹で十分すぎる。残る二匹もそれなりの額で売れたので、高価な香辛料も買える。今夜は豪華な夕食になりそうだ。


 解体を終えたゴーギの肉を葉に包み、大事に抱えて街を歩く。昂る心を抑えながら自宅に向かっていると、人だかりが出来ていることに気付く。


「どうしたんだい?」


 後ろの方で背を伸ばしていた割腹のいい男の後ろ姿には見覚えがあった。近所に住むグイルだ。声を掛けると彼は小さく飛び跳ねながら驚く。流石にそこまで大袈裟に驚かれると複雑な気持ちになるけれど、軽く咳払いをして誤魔化すグイルに毒気は抜かれていく。


「おお、エドナか。喧嘩だぜ大喧嘩。あそこの家から……ってかあそこ、アンタの家じゃねぇか。エドナじゃないとしたら、あの、髪の長い女か。意外にデケェ声出すんだなぁ」


「え?」


 キュレイが中で大声を出している光景なんて、想像がつかなかった。気だるげに寝ていたかと思えば一心不乱に筆を走らせている。それでも彼女の所作はいつも静かで、どこか余裕があるものだった。例え飢え死ぬ前ですら微かな『死』の気配すらも感じさせないほどに。


「よくわからんが、さっき役人さん達が入ってからずっとこんな感じさ。天に逆らうような真似でもしたのかねぇ。怖い怖い」


 グイルの声がだんだん小さくなっていく。とにかく中に入って確かめなければ。


 まさか、キュレティステネス。彼女が書いていたものの中に良くないことがあったのではないか。ドアの向こうの彼女に、どう声をかけたらいいのだろう。ゴーギの食べ方など、頭の外に吹き飛んでしまっていた。

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