死なない、死ねない
キュレティステネスという女は、言ってしまえば人間社会からつまみ出された存在だった。日々の糧を得る為の行動をせずに、ただひたすらに机に向かう。体力が切れればそのまま寝転がる。繰り返す日々の中を冬眠中の獣のように過ごしていた。
ずっと寝ていたキュレイが寝床からのっそりと起き上がるが、とっくに太陽と月が入れ替わっていた。彼女の長い髪の毛が、すらりと流れていく。変な体勢で長い間寝ていたにも関わらず、寝癖ひとつないそれを見ながら、散らかりきった部屋を片付けていく。
「こんなに散らかして。このままだとゴミに埋もれて死んでしまうよ」
それなりの広さである我が家ではあったが、家の中にあるガラクタの半分はキュレイが何処からか持ち込んできたものだ。物を捨てられない私とはまた違った方向性で厄介である彼女の収集癖が齎した沢山のガラクタは、よくわからない形をしたモニュメントや人がすっぽり入ってしまいそうな壺など、節操と脈絡がない。
私の皮肉を皮肉と認識したのかどうか分からないが、片方の口角を上げながら、机へと移動していたキュレイは優雅に歌うように両手を広げる。
「いつだって、ボクは『死』と隣合わせだったさ。飢えや病、更には暴漢。それでも、今、ボクは生きている。それが全てさ」
そう話している彼女からは『死』の気配は感じられない。あの時倒れていた時も、気配は微かにある程度のものだった。
キュレイは自分自身の食べるものを調達する能力もない。物々交換が主流であったのはもうだいぶ前の話で、この時代になると貨幣が流通していた。物と物の間に貨幣を挟むという仕組みは、初めは面倒くさいと思っていたが使ってみるとまぁ使いやすい。軽いし小さいし、何より腐らないのだ。
彼女はその貨幣を生み出すような技術や力を持ち合わせていなかった。生命力には満ち溢れているけれど、死人のように白く細い腕はペン以上の重さを持ち上げることなど適わないし、家事もできない。逆によく今まで生きてこれたものだとさえ思えるほどであり、逆に感心する。
私はずっと獣を狩って革や肉を他のものと交換してきたのだが、如何せん『腐るもの』だ。日にちが経てばどうにもならなくなることもあったが、売れてしまえばそんなことを心配する必要もなくなる。時折買い叩かれることもあるが、それはそういう日だと思うことにしている。信頼を失うような取引をする者は、いつか手痛い失敗をする。肉と貨幣だろうが革と肉だろうが、それは変わることがないのだから。
この時代に書に文字を記していく男達は、王や領主に近い身分の高い者によって養われることもあるが、やはり基本的には自分の食べる分の貨幣ぐらいは自分で確保することが多い。結局は自分の食い扶持くらいは稼がないとこの世界では生きていくことができないということだ。
そんなこの世界の中で、キュレティステネスは机に向かっている。文字だけを生み出していく。それが自分の生き方だと言わんばかりに、一心不乱に筆を走らせる。
「ボクは、死ねないんだよ」
キュレイの小さな呟きに、胸の奥が飛び跳ねる。驚きはしっかりと顔に出ていたらしい。一瞬驚いた顔をしたキュレイは小さく首を振りながら、声のトーンを下げた。
「いや、不死身とかそういうものではない。言葉の綾だったね。ただ単に、これを世に出すまでに命を放棄することなど、他ならないボク自身が許していないということさ」
彼女の言葉の意味を理解すると同時に、ほんの僅かな寂しさに近い感情が私の中でぐずり、と渦を巻く。一瞬だけではあるけれど、キュレティステネスも私と同じように気の遠くなるような永い時を過ごしてきたのではないかと思ってしまったのだ。あの年月の中で悲しかったこと、苦しんだこと、喜ばしかったこと。そして、これからの旅路。思い出すことすら億劫になるほどの朝と夜の繰り返しを、目の前の女性も見ていたのであれば、私にとって救いでしかない。
私は私でしかないが、私は明確に、ヒトではないのだ。老いもせず、お腹が空いても飢え死にすることもなく、斬られても海の底へと沈んでも死ぬことはない。ある意味『死』から見捨てられた存在である私のような存在は、今までの旅路の中で一人も見たことがない。
ずっと独りだった。今のキュレイのように、隣に誰かがいる時もある。でもそれは、あくまでほんの一瞬の出来事にすぎないのだ。今まで生きてきた年月に比べれば、長くて十数年の生活など私にとっては瞬きのような時間に過ぎない。もし、私と同じような存在がいたのならば、ずっと離れることなく隣を歩いてくれる人がいるのならば――
「どうしたんだい? なんだか凄い顔をしているよ」
私の顔を覗き込むキュレイの蒼い瞳が、私を現実へと引っ張り戻す。誤魔化すように、先程までキュレイが寝そべっていた寝具の上に座る。まだ微かに残る彼女の温もりが、キュレティステネスというヒトの命の存在の証明にほかならない。この温かさを、私はずっと求めているのだろう。それこそ、ヒトがヒトとして存在している限り。
「……なんでもない、気にしないで」
それでも、私はそう答えることしか出来なかった。
永遠を生きるのは、私だけで十分だ。
「そうかい? ならそろそろ続きを書くよ。実はもうすぐ書き終わるんだ。まだまだ原型程度だけれど、ね」
振り返って机に向かうキュレティステネスの銀色の髪が光を浴びて螺鈿のように煌めいている。艶めかしさすら感じるその輝きから目を逸らしながら、筆を動かす音に耳を傾けていく。さらさらと流れる心地のいい音は、いつの間にか寝そべっていた私の意識を夢の世界へと連れていく。
「これが認められなければ、ボクは――」
意識が落ちる直前に聞こえたキュレイの声は、彼女のものとは思えないほどに冷たく、そして乾いたものだった。
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