第七章 キュレティステネス

命を筆に乗せて

 行くあてなど、元々なかった旅路だ。風の向くまま、気の向くままに歩いてきた。これからもそうやって歩いていくのだろう。きっと、私が私でいられなくなる時まで。


 誰かを救う。バラナシオの言葉はいつの間にか私の身体の一部になっていた。手の届く範囲全てのヒトを救う。言葉にするのは簡単だけれど、実際のところは苦難の連続だった。どうにか手を伸ばして命を延ばせたところで、結局のところヒトは死んでいく。言われもない恨みや怒りを向けられた事は、数える気が起きないほどにあった。


 でもそれは、私が背負うべき罰であり、私が私として生きるための道なのだ。ヒトがヒトを傷つけあうこの世界の中で誰かが手を差し出さなければ、痛みの螺旋はどこまでも続いていってしまうのだから。


「とは言っても、なぁ」


 ここ最近は平穏そのものの日々を過ごしていた。何事もなく年月が過ぎていくのは、なかなかあるようなものではない。数え切れない朝と夜を通り越した中で、これほど安心して生活することができたのは初めての事であった。


 この時代に住むヒト達のように、ひとつの場所に根を張ってずっと過ごすようなことはせず、何年かすれば住処を離れて何処かへと歩いていく。そんな生活を続けている。ここ暫くは、同じ場所にいる時間がどんどん長くなっている。このリアーロの街に至っては、もう20年は離れていない。流石に近所のヒト達に老けることのない私の肉体を見られる訳にもいかない為、数年ごとに住む区画を変えてはいるが。


 近隣の山から採れる、質のいい真っ白な石を詰めあげて作られた住居が立ち並ぶ道を歩く。人通りは疎らではあったが、力強く歩く街の人々の表情は皆が皆、楽しそうに笑っていた。


 リアーロでの沢山のヒトとヒトが殺し合うような大きな戦いは、ここ数十年は起きていない。一時期は領土争いや身内同士の小競り合いなどあったが、今の時代はツルギを持たぬままに一生を歩き切る者も少なくない。


 これを平和と言わず、何と言うべきか。後にこの平和は仮初のものだと気付くが、この時代の私はリアーロでの日常を大いに気に入っていたのだ。食べるものも十分にあり、争いも起きていない。夜も安心して眠ることも出来る。これ以上など、有り得ない。明日のことを考える時代から、来年やその次のことまで考えることが出来る時代へと、確かに切り替わっていた。


 そんな平和なリアーロの街を、ゆっくりと進んでいく。私を見下ろす太陽はちょうど真上にある。私の紅い髪の毛を、太陽が明るく照らしていた。


「ねえねえ、あの髪、凄くない?」

「駄目よ、見ちゃいけないわ」

「だって、おとぎ話の死神の髪の毛と同じじゃない?」


 子供の純粋無垢な言葉を制する母親の声は穏やかではあるが止める気はあまり感じられなかった。この地域で私のような紅い髪や浅黒い肌をしたヒトは見受けられない。このような目で見られることも慣れたものなので、別段どうということはない。


 適当に歩き、自宅に入る。今は区画を束ねている人にお願いして、空き家を拝借する形で住んでいるのだが、ここは一人で住むには広すぎる。当然使っていない部屋が幾つもある。何もないと何もないで寂しいというわけではないが、乱雑に物を詰め込まれていた。一定の場所に長いこと住むことも珍しいもので、勝手がわからずガラクタばかりが溜まって行くような気がする。


 そのガラクタが押し込められた部屋のすぐ近くで、机に向かう女がひたすらに手を動かしている。彼女の周りにはゴミが散乱し、ある種の混沌を形成している。それを気にすることなく、ただただ一点を凝視していた。


 同居人のキュレティステネス――キュレイだ。まるで月の光のような銀色の髪を肩まで伸ばした彼女の肌は、透き通るほどに白い。紅い神と浅黒い肌の私と正反対のキュレイは、眼球だけ私の方へと動かしながら呟く。


「なにか道で言われたようだね。どうせ誰かにキミの髪の色が死神のものだとかなんとか言われたとかだろう?」

「え」


 先ほどの出来事を見てきたような彼女の口ぶりに、心臓が飛び跳ねる。彼女の視線は机に注がれたままだ。何も見ていないのに、キュレイは時々こうやって全てを知ったかのようなことを話すことがある。


「足音を聞けばわかるよ」


 小さな笑い声が、部屋の隅に吸い込まれていく。彼女と一緒に住むようになってからずっと、キュレイはいつも余裕をもって私と接している。落ち着いているというか、年上というような印象。私のほうが途方もない年月を生きているというのに。


「まったく、馬鹿馬鹿しい話だよ。仮にだ、エドナ。キミが本当に死神だというのだったら、ボクはとっくに命を刈り取られているだろうさ」


 飄々としているキュレイの言葉は、慰め以外の何物でもない。それでも、彼女が言うことによって、幾ばくかの救いになっているような気がしたのだ。ヒトを殺してきたことは、キュレイには伝えていない。罪を隠して生きている私に、救われる価値などないというのに。


「……私は、私だよ。それ以上でもそれ以下でもない。誰かの一生を左右するようなことなんて、出来ないよ」

「変わったことを言うんだね。飢えて野垂れ死ぬ寸前のボクをこうやって助けてくれたじゃあないか。れだけでも、ボクの命を救ってくれたうえに、こうやって住ませてくれているというのに」


 家の近くで死にそうになっていたキュレイをどうにか助けることが出来たのは、ただの幸運だった。どうにか家の中に引きずり、暖かい食事とベッドを提供しただけだ。その後も居座られるとは思ってもいなかったが。



「たまたまだよ、キュレイ」

「そういうことにしておくよ」


 軽口を叩いていても、手を動かすのを止めない。ひたすらに数多の文字と文字を書き連ねていく。まるで思考と手が分離して動いているようだ。文字など辛うじて読むことが出来る程度しか出来ない私からしてみれば、キュレイのやっていることは完全に人智を超えた行為にしか見えない。


「何を書いているの?」


 彼女の書いている文章は、私にとっては難しすぎて何を書いているのか……正直なところさっぱりわからない。


「――ボク自身の頭の中、かなぁ。ボクの命そのものと言っていい。キュレティステネスという人間がこの世界に存在したという証を、書いているんだ。いやしかし、後世の人間はどう思うんだろうね。これを書いたを、どんな風に捉えるんだろうか。ふふ、さぞ威厳のある男を思い浮かべるんだろうねぇ」


 この時代は何をするにも男が主役だ。女は男に寄り添い、家庭を守ることに専念する。戦いも、学問も、女には到底許されない。槍の代わりに鍋を、筆の代わりに洗濯物を持つべきという考えは、このリアーロどころか世界中に広がっていた。


 そもそも実際の年齢はともかく、私の外見ぐらいの女たちはみな家庭を持っているのだ。子供の部屋や家事もせずにふらふらと歩き回っているような女は、余程の物好きか破綻者だ。私もキュレイも、この町にとってはただのはみ出しものが傷を舐めあっているようにしか見えていないのだろう。


 女性が一人の人間として生きることすら認められていないこの世界で、キュレイは藻掻いて足掻いていた。キュレティステネスという名前も、彼女の本当の名前では無いのだろう。自分が自分である為の照明でもある名前を捨ててまで、彼女は筆を走らせる。自身の命を後世に伝えるために。世界に、爪痕を残すために。


「キュレティステネスという呼び名だけで、ボクのことを男だと思っている奴らを、口から心臓を吐き出してしまうほどに驚かせてやるんだ。ボクが書いた、ボクの命だ。女は家に籠ってろなんて風潮、ぶっ壊してやる」


 更に加速していく筆を握るキュレイの眼は、力強く輝いている。まるで何かに取り憑かれているような手の動きは、楽器を演奏しているように繊細で、美しかった。

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