セプタへと
微妙に異なる光を放つ二つの月が私たちを照らしている。輝きたちの位置からして、夜もまだまだ中盤といったところだ。辺りが雪で埋め尽くされていたときとはまた違う、肌を突き抜けるような冷たい風が私たちの間を通り抜けていく。
「なぁ、アンタもセプタに用があるのかい?」
ハドと呼ばれた男の声には答えない。まだまだ開ける気配の遠い夜から逃げたくて、少しでも太陽に近づく為に西に向かって歩いていくが、どうやらセプタも西側にあるようだ。耳障りな音を奏でるウマを引く二人と同じ方向に向かって歩いていた。
彼らと違う方向に向かって歩いてしまおうか。何度もそう思った。セプタに行かなくても、とりあえずこの砂漠を抜けてしまえばどうにでもなる。何度も砂に足を取られるこの不快感は、ここを通り抜ける度に何度も何度も感じているが一向に慣れることはない。
まるでヒトの死のようだ。私の足をずぶずぶと沈めていく砂が、長い長い時のなかで私の横を通り過ぎてしまったヒト達の思い出のように重く絡みついていく。胸が張り裂けそうな程に苦しく悲しいけれど、忘れてはならないのだ。彼らが生きてきたこと。命が命であったことを。
だからこそ、血を以て進められる今の繁栄が認められない。食べるものが増え、飢えて死ぬ事が少なくなってから、ヒトは増え続けた。足りなくなったものを手っ取り早く得る為に、他者が築き上げてきたものを奪う。肥沃な大地を、資源を奪い合うようになってからありとあらゆる大地が血で濡れていく。
この乾いた砂の底の方にも、じっとりとした血液が沈殿しているに違いない。そのなかには私が殺したケモノたちの血も、きっとそこに混ざっているのだろう。
風がどんどん強くなっていく。視界を埋め尽くす砂は容赦なく目に入りこみ、鋭い痛みを与えてくる。踏み外した足を柔らかな大地に取られ、体勢を崩してしまう。あわや転びそうになったところを靱やかで力強い腕に抱きとめられる。
「おっと、大丈夫か?」
耳元で聞こえるのは、ハドのものと思われる優しい声。薄涙で砂が洗い流されると同時に、暗くてよくわからなかった彼の細くきめ細やかな髪が視界に入った。月明かりのせいか異性とは思えないほどに美しく感じてしまい、それがなんだか気恥ずかしくて、腕を引き剥がしてしまう。
「……ありがとう、でも、放っておいて欲しい」
「そういうワケにもいかない。キミ、今にも倒れそうな顔をしているじゃないか。少し休んだ方がいい」
月の光以外に何も光源もない夜の砂漠でもはっきりとわかる、心配そうに私を見るハドの目は優しげで、セプタやケルススといった国のヒト達とは違った存在なのではないかとさえ思えてきた。
「ふぅ、ふぅ、もっとゆっくり歩けないのかよぉ」
多数の荷物を詰まれたウマの鼻息と同じような息切れをしながら、ラスーが追いついてきた。暗くてよく分からないが、その身体はじっとりと汗で塗れているように見えた。この砂と共に吹き抜ける冷たい風は堪えるだろう。しきりと身体を拭いながら、ラスーは大きく息を吐いた。
「ははは、もうすぐセプタだ。そこでゆっくりしたほうがいいだろうよ」
疲れきったラスーとは対照的に、どこか楽しげに呟かれるハドの声。どこかナーリアやカレトを思い出すような笑い声に、つい口角が上がりそうになる。ヒトの血で汚れてしまった私には、笑う資格など無いはずなのだから。
「そうさせてもらうよ」
話を切り上げ、西へと足を進める。私の後ろには二人の男と二頭のウマが
「ちょうど保存食が切れそうだし、ね」
そういうことにしておこう。胃袋に何かを納めたい訳ではないが、砂漠を抜ける前に何処かに寄って細かい補給をしなければならない。セプタが1番近いならば、それに越したことはない。
「アンタ、セプタでもケルススの人間でもないならアレか、俺たちみたいな旅の者ってヤツか?」
「……旅?」
質問を質問で返してしまう。『旅』という言葉は話には聞いたことがある。この大地に生きるほぼ全ての人は自分の生まれ育った村や国の中で人生を過ごしていく。そのなかで敢えてそこを出て、獣や野盗といった脅威や飢えから逃れながら他の場所へと進んでいく。そして見たことのないものを見たり、食べた事のないものを食べて、見聞きしたことを話したりする。ただ歩くだけが目的の私と違い、しっかりとした目的を彼らは持っているということだろう。
「そ、そう。旅だ。俺らは色んなものを見たくて、たくさんの道を歩いて来たんだ。子供の頃に村を飛び出して、そこからずっと俺とハドは一緒だ。あ、ハドってこの優男の事な。お、俺はラスーっていうんだ」
楽しげな声が砂漠に響いていく。気楽そうに言ってはいるものの、きっと過酷な旅路を進んでいるのだろう。私も死ぬことのない身体でなければ何回も命を落としている。ラスーの腰に吊るされたツルギも、ハドの背中に収められている槍も、何度も振るわれたものなのだろう。
「旅は人と人の繋がりを見つけてくれる。アンタと俺たちが会ったことも、きっとなにか意味があるんだろうよ」
ハドの爽やかな笑顔がすぐ横にあった。闇が埋めつくしていてもわかるほどの端正な顔立ちをしていた彼はいつの間にか私の隣を歩いていて、すぐ近くから彼の引くウマの嘶きが聞こえていた。
ヒトと私が会ったことの意味。特にそんなものなど深く考えたこともなかった。今まで私が出逢い、別れてきた数多のヒトたちは私と出逢ってなにを得たのだろうか。何を失ったのだろうか。いくら考えても、答えは出ない。
「そうだね、そうかもしれないね」
回答がすぐに出るようなものではない。時間なら、幾らでもあるのだ。ゆっくりと考えていけばいい。両の手に染み付いた血のぬめりは取れそうにないが、たまには複数人で歩くのも悪くはない。そんな気がした。彼らが各々の武器で徒にヒトを殺すヒトであるならば、その命を奪えばいいだけなのだから。
「決まりだ、えぇと――」
「エドナ。昔の言葉で『歩き続けるもの』という意味さ」
本心を隠したまま名乗る。思ったより声が平坦になってしまったが、もうこの際気にしないことにした。ハドは口角を上げながら、小さく呟いた。
「へぇ。聞いたことない言葉だけど、いい言葉じゃあないの」
それからは誰も話すこともなく、ただただ砂漠を歩き続けた。西へ、西へ。一点だけを見つめて歩いているうちに、長かった夜が明けていく。月と月が東の空へと沈む。砂漠の隅から太陽が頭を出し、眩い光を放っていく。
待ちわびていた陽の光に照らされて、ハドの銀色をした髪が煌びやかに光る。金色に光る砂漠の砂と合わさって、どこか幻想的な光景に見えた。
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