第五章 ハド

乾いた砂と心

 あの炎の中でヒトの言葉を話す獣を殺してから、私の箍が外れてしまってしまったのだろう。落ちるところまで堕ちてしまえば、あとは上るだけ。そう思っていたのは、いつ頃までだろうか。


 あの夜から、私の時間は止まってしまっていた。何回春と冬が来ても、鼻の奥であの炎の香りが燻っているような気がしている。何をしても、それは聞けることはない。


 まるで鏡のように研ぎ澄まされていたナーリアのツルギは、いつの間にかボロボロになっていた。あの夜から沢山の獣を切り捨ててきた。彼女が死んだ日から、今日まで26人。彼らにも彼らの生きてきた道程があり、それがかけがえのないものであるということは、片時も私の頭から離れることはない。


 自分の命が奪われる恐怖に歪む私が殺した相手の顔が、いつでも私の視界の隅でゆらりゆらりと揺れている。彼らの命を奪ったことを永遠に忘れないように。果の果ての深淵――更なる奈落へと案内するように。


 獣たちは喜んでヒトを殺す。殺して殺して殺して殺して、何もかもを奪っていく。侵され、壊され、殺される人々の嘆きの声を聞く度に、ナーリアの姿を思い出してしまうのだ。あの笑顔を、ツルギを研ぐ真剣な表情を、獣どもは奪い取ったのだ。彼らを殺して殺して殺さないと、ナーリアのような人間は増えていく一方なのだ。自分に言い聞かせるように、朽ちた刃を振るい続けていった。


 刃が何度も私の身体を切り裂いた。血液が大地を赤く染め上げ、臓腑がこぼれ落ちた。数多の矢が身体に突き刺さったことも、槍で串刺しにされたこともあった。その度に理性を失いそうなほどの激痛に襲われ、死ぬことの出来ない自分自身を恨む。それでも、私は生きていかなければならなかった。歩き続けなければならなかった。私が『歩き続けるもの』だからではない。もしかしたら、私が死なないことになにか意味があるのではないか。ここ最近はその理由を探す頻度は減っていた。


 もうあの旗を掲げていた国は存在していない。力を以て何かを奪ってきた者たちは、更なる力を持った集団に押し潰されていく。地層が積み重なるように、数多のヒトの死の上にあらゆる国が存在していた。


 そこに一切の例外はない。何が正しいのかなど、関係がないのだ。未来のためにヒトを殺したバルカ達も、笑いながらヒトを殺したケモノたちも、それを殺した私すらも。結局は国の地盤である死の一部に過ぎない。その事実が尚更わたしの胸を締め付けていく。


 それでも太陽は登り、沈んでいく。目的もなく、ただ這いずるように歩く私を蹂躙するように砂嵐が吹き荒んでいる。目だけでなく、顔中の穴という穴に容赦なく砂が入り込む不快感が、私を現実に引っ張り戻してくれる。


 今、私が歩いているのは広大な砂漠地帯だ。この一帯を統べる大国セプタと、それを崩さんとする隣国ケルススが睨み合う中間地点であり、灼熱の太陽の下でたびたび小競り合いが起きていた。当然どちらにも与していない私であったが、どちらにも与していないということはどちらにも刃を向けられる可能性があるということに気づいたのは、この砂漠に足を踏み入れた日の夜のことであった。


 砂漠を強く照らしていた太陽が沈みきり、空にふたつの月が上る夜が一番気を抜くことができない。昼間の暑さが嘘のように感じるほどの乾いた寒気が襲いかかり、あまりの体感温度の差に身体は震えが止まらなくなる。だからといって火を起こして暖気を取っていれば、その灯りを目印にして二つの国のどちらかの勢力の獣が静かに忍び寄り、襲いかかってくる。彼らには私のことを敵対勢力の人間且つ、侵しがいのある女としか見えてないのだろう。野営しているところを狙われたのも、一度や二度ではない。


 眠れない夜が続く。死ぬことのない身体でも、満足に睡眠できなければ頭の中の何かが磨り減っていく。瞳を開くと獣たちの幻影が私を追い詰めていく。もう何が何だかわからない。あれだけ楽しみだった食事すら、満足に喉を通らなくなっていた。どんどん細くなる身体を見ていると、今まで遥か地平線の彼方にいた筈の自分自身の『死』の気配を薄らと感じてしまう。


 このまま朽ち果ててしまうことができれば、どれだけ楽になれるのだろうか。そんなことすら考えてしまうほどに、私は擦り減りきっていた。薄雲の隙間から顔を出した二つの月の輝きだけが、私を照らしている。


 岩肌に身体を預けたまま、夜の闇を見つめる。微かな銀色の光に照らされた砂漠はどこまでも広がっていて、時折強く冷たい風の音が私を通り抜けて遥か彼方へと過ぎていく。その風に乗って、微かに足音が聞こえてきた。砂地を駆ける複数の音がこちらの方向に向かって近づいてきていた。


 耳を澄ますと、どうやら二人組のようだ。荷物を満載したウマを引きながら、おっかなびっくり夜の砂漠を歩いている。どうにかして足音を殺そうと努力しているようだったが、大小様々な荷物が奏でる音が隠しきれていない。襲われずにここまで来れたのは相当に運がいいのか、それともただの偶然か。どちらにしろ相当な奇跡であることには変わりなかった。


「なぁハド、そろそろ休まないか」


 息を切らせながら畏れに震える低い声が聞こえる。月の光に照らされて薄ぼんやりと見える姿は、恰幅の良い男のように見えた。


「駄目に決まってるだろう。こんなところで休んだら、たちまちケルススの奴らに襲われるぞ」


 対するハドと呼ばれた声は対照的に落ち着いた男の声だった。恰幅の良い男と同じく輪郭ぐらいしか姿を捉えることはできないが、細身で背が高いことだけはわかる。


「うえー、ま、まだかぁ。もうセプタの勢力圏に入ったと思ったんだけどなぁ」


「入ったからこそ、だろ。隠れて俺たちを狙ってるに決まってる。そういう奴らだよ、ケルススは」


 ハドのため息混じりの声に、どうやら知らない間に私もセプタの勢力内に入り込んでいたことに気付く。二つの争いから逃れようと歩き続けているうちに、この辺りで一番力を行使している集団に近づいてしまうとは。もしかして、彼らもその一団なのだろうか。また誰かを殺そうとしているのならば、何がなんでも止めなければ。


「朝までにはセプタに着くだろ。気合い入れていこうぜ、ラスー」


「そ、そうだな。いっちょ気合を入れてくかぁ」


 男たちはゆっくりとではあるが確実に私が潜んでいる方向へと進んでいく。このままやるしかないのか。ナーリアのツルギを鞘から引き抜き、逆手に持ちながら彼らを睨み付けた。


「うわぉっ!?」


 距離はまだあった筈だが恰幅の良い男……ラスーが私の敵意を感じ取ったのか、裏返った悲鳴をあげる。尻餅をつきながら後ろずさっていく彼を庇うように一歩前に進んだハドは、背中に収めていた槍を私に向かって構える。どっしりと身構えたその姿からは、獣のような野蛮さとは無縁そうな力強さを感じる。鋭そうな穂先が月の光を反射して鈍く煌めいていた。


「誰だ?」


 ハドの声には答えない。体勢を低く構えたまま、槍の穂先に神経を集中していく。


「お前、ケルススか……?」


「……違う」


 久しぶりにヒトに向かって出した声は、自分でも驚くほどに嗄れていた。

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