揺らぐ旗と血だまりの間

 夜を優しく照らす薪を燃やす火の香りに何度も癒されてきた。誰もいなくなってしまったかのような孤独をかき消してくれる熱と光と香りに何度救われたかわからない。


 だけど、今この夜を明るく染めあげている炎の香りには恐怖と絶望と焦燥しか感じなかった。麓のロンザオの村に近づけば近づく程に、その感情は大きくなっていく。


「ナーリア! 待って!」


 山を下るナーリアの脚は衰えることはなく、むしろ加速していく一方で、まるで風のように駆け抜けていく彼女の背中を見失わないようにするだけで精一杯だ。炎に向かって一直線で突き進んだおかげで、ロンザオの村に辿り着くまでにそれ程時間はかからなかった。



「みんな! どこにいるの! みんな!」


 幾らナーリアが叫んでも誰も応えない。あちこちで倒れているロンザオの住民たちは、ぴくりとも動くことはない。倒れている誰も彼もが残酷な方法で殺されていた。ただ斬られただけ、矢で射抜かれただけの死体ならばまだまともな方で、臓腑を撒き散らすように引き摺られた者や、首のない死骸。明らかに辱めを受けた後に殺された女や子どもの姿もあった。ヒトがここまで残酷にヒトを殺すことができるようになっていたとは、思いたくなかった。


 戦いの末に起きることならばまだ納得できるが、斃れている遺体はどれも抵抗したような形跡は見られない。一方的な虐殺が、ここで行われたのは明白であった。顎の奥でぎりり、と音がした。その音で無意識に自分が歯を食いしばっていたことに気付く。


 炎にまみれたロンザオの中で大きな旗が揺らめいている。黄色い瞳をした大きな目が描かれていた。この旗に見覚えがある。南西の方角にある巨大な集落の集合体……国を示すものだ。何故、ここにこんなものが揺らいでいるのか。


「こーんなところにまだいたのか」


 思考を遮る衝撃が背中に伝わり、視界が回転する。大地に身体が転がり、先程まで住居だった瓦礫にぶつかって止まる。


 痛みに耐えながら顔を上げると、3人の男の姿が見えた。髭を伸ばした男と太った男、そして隻眼の男。彼らはロンザオの男たちではなく別のところから来た者たちだと一目でわかる。まず根本的に服装が違う。ロンザオよりもずっと西の文化圏の意匠が施された衣服を身に纏った、雪のように白い肌をした男たちだ。彼らの腰に吊るされたツルギの鞘は大きい。中に納められている刀身は長く、そして厚そうなものだろう。


「しかも女が二人追加とか、もぉっと楽しめるじゃねぇか、なぁ」


「ちょ、ちょっと歳食ってるけど、俺ァそれぐらいがちょうどいいんだよ、な」


「なんだお前、年増趣味かよ、へへへへへへへ」


 男たちは薄汚い笑いを浮かべながら私たちを舐めるように見回す。腹立たしい怒りが胸の奥から湧き上がり口から言葉が飛び出そうとした瞬間、隣でナーリアの

 叫びが轟いた。


「お前ら……! なんで、何でこんなことをするんだよ! この村に恨みでもあったっていうの!?」


「はぁ?」


 気の抜けた声のあと、一拍の間を置いて三人は腹を抱えて笑う。彼らが何が可笑しくて笑っているのか、まるで理解できない。ヒトを殺して、村を燃やして。なぜ彼らは笑っていられるのだろうか。


「何もねぇよ。進む道中にこの村があった。んでもって腹が減ったし、出すものを出したくなった。そんだけだ。ありがとよ、美味かったし気持ちよかったぜェ」


 髭の長い男の声は、私の理解をさらに通り越してしまうようなものだった。周りで燃え盛る炎の勢いが増してきたのは、強くなった風によるものなのか、私とナーリアの怒りによるものなのか。男たちを睨みつけながらなんとか立ち上がると、ナーリアが私を庇うように駆け寄ってきた。


「エドナ、大丈夫⁉︎」


「う、うん。なんとか」


 男たちは相も変わらず下卑た笑みを浮かべながら私たちを見据えていた。


「おォいおいおいおォい、お互い他人の心配してる場合かっての」


「俺らまだ滾ってるからよォ、お前ら二人とも突っ込んでヒィヒィ言われてやるよ」


 爛々と狂気に満ちた目を光らせながら男たちは更に笑う。とにかくこの場を何とか切り抜けようと思考する前に、ここでナーリアの怒りが頂点に達してしまった。


「うるさい!」


 ナーリアは完成したばかりのツルギを翻し、一番近くにいた隻眼の男に肉薄する。自分に斬りかかってくるとは想定していなかったのだろう。片方しかない目を驚愕で見開いた男に向かって振るわれた研ぎ澄まされた刃は横に薙がれ、腰のツルギを抜こうとしていた右手の甲を深く斬りつける。男の苦悶の声と共に鮮血が飛び散り、焼けた大地を一瞬だけ乾かした。


「私はお前たちを許さない! ロンザオをこんな風にして! みんなを殺して! お前たち全員、私が殺してやる!」


 ツルギはヒトを殺さない。ツルギを持ったヒトがヒトを殺す。そう言っていた彼女は殺意と敵意をもって隻眼の男を睨みつけていた。彼女の瞳は小刻みに揺れ、微かに足が震えている。生まれて初めて人を斬りつけたことにより、彼女は軽い恐慌状態になっていた。叫び声を上げながら闇雲に振り回すツルギを、隻眼の男は軽やかに避けていく。


 この日ナーリアはツルギを初めて振るっている。完全に素人そのものである太刀筋など、戦いの経験がある者には児戯に過ぎないのだろう。大きく振り上げられたツルギを掻い潜るような動きをしながら、ナーリアの腹部に強烈な掌打を叩き込む。


「かっ……!」


 内臓を震わせるような痛みでナーリアの動きが止まる。その隙を男たちは狙わない筈がなかった。隻眼の男は体勢を崩したナーリアの脇腹に回し蹴りを喰らわせる。そして太った男も、その巨体から想像できないほどに俊敏な動きでナーリアの死角へと移動していた。彼の手にはツルギが抜かれている。粗い刃紋が炎に照らされていた。


「殺した後に、ちゃ、ちゃあんと、犯してやるんだな」


 声を出そうとした瞬間に再び蹴り飛ばされる。もんどり打って大地を転がった私の顔を両手で掴み、ナーリアの方に顔を向けさせられる。


「駄ァ目だよ、お前はここで見てるんだよ。ここでアイツが死ぬところを、な」


 身体の中心にツルギを突き立てられ、ナーリアはびくんと痙攣した直後に動かなくなってしまった。言葉を放つことすら出来ずに、あまりにも無慈悲に、一瞬でその若い命を奪われてしまった。


 ツルギを引き抜かれたナーリアの身体から、彼女の命そのものである血液が吹き出すが、すぐにその勢いは弱くなっていく。それは心臓が止まってしまっている証明であった。


 10年間という短い時間であったが、確かに同じ時間を生きていた娘同然と認識していたナーリアが、あっけなく死んでしまった。側頭部を槌で思い切り殴られたような衝撃。呼吸ができない。私の周りだけ空気がなくなってしまったようだ。


「あーあーあーあー、死んじまったよ! ブヘヘヘヘヘ!」


 あまりに衝撃的な光景に呼吸すらできなくなってしまった私を見ることなく、ナーリアの死を見て楽しそうな顔をしながら自身の涎で顎髭を濡らす男の表情を見て確信した。この男たちは。こいつらは。


 ヒトではない。ヒトの言葉を放つ獣だ。バルカに従って命を繋ぐために闘い抜いた男たちとはまた違う。欲望のままに暴れ回るだけの、唾棄すべき存在だ。


 そう理解した瞬間、頭の奥底が一瞬で凍りついたかのように冷たくなった。男の意識の外にあった、彼の腰のツルギをすらりと抜く。金属が擦れる音に男が気づくよりも早く、そのままの勢いで刃を腹の中心 ……ナーリアが刺されたところと寸分違わず同じ位置に深々と突き刺した。


「おっ」


 間抜けな声を出しながら、男が崩れ落ちる。ツルギを捻りながら引き抜くと、大量の血液が吹き出し私の全身を濡らしていくが、不思議と不快感を感じることはなかった。


「ん?」


「なにっ」


 獣たちが何か言葉のようなものを発している。ヒトに害を成した獣には、殺さなければならない。ヒトを殺すことを覚えた獣は、何があってもその命を一方的に奪う。それがこの世界の決まりなのだ。冷めきった心のまま、ツルギを構えて大地を深く踏み込む。


 全身の力を足に込め、二人にむかって突っ込んでいく。狙うのは隻眼の男の方だ。ナーリアを直接手をかけたあの男は後回しにする。


 相変わらず彼は右手から大量の血を流している。痛々しい姿ではあったが、微かも良心が痛むことはなかった。ツルギで一気に喉を引き裂くと、男は言葉に出来ないような空気を吸い込む音の直後に鮮血を吹き散らしながら倒れ込んだ。


「お前、お前、お前!」


 二人の血に濡れた私を見て、敵を討つつもりにでもなったのか、逃げることなく最後の男は私に向かってツルギを振りかぶる。自身のツルギで受け止めるが、受け止め方が悪かったのか軽い音を立てて刀身が真っ二つに圧し折れる。好機と見たのか、男は口角を大きく上げて厭らしく笑う。


 切り返されるツルギが私の右脇腹に叩き込まれる。刃こぼれだらけの粗い刃が肋骨と内蔵をズタズタにする。刃は背骨で止まってしまえば、もう私は止められない。


 勢いよく吹き出る血液など気にしない。ナーリアが受けた痛みは、こんなものではなかった。腰に吊るされたナイフを抜き、でっぷりとした腹に突き刺す。分厚い脂肪に妨げられて内臓に深刻な損傷を与えられなかったが、男はツルギを手放して数歩後ろに下がる。それだけあれば、今の私にとっては十分すぎた。大地に横たわっていた真新しいツルギを手に取る。


「バ、バ、バ、バケモノ……!」


 男は全身から脂汗を流し、ゆっくりと後ずさる。ヒトではない、ただの獣にそんなことを言われる筋合いはない。私は何も躊躇わずに、獣を殺すだけなのに。大股で近づいていくと、腰を抜かしたのかへたり込む。


「た、頼むよ、殺さないで、殺さないでくれよ、もうこ、こんなことは、し、しないから……!」


 顔中から涙と鼻水と汗を撒き散らしながら、生を懇願する男は余りにも滑稽だった。だが、同じように命乞いをした者も、武器を持って抵抗した者も、何もかも投げ捨てて逃げようとした者も、こいつらは笑いながら殺し続けてきたのだろう。


 ツルギに伝わる温もりからは、ナーリアの体温はとっくに消えうせている。私から『娘』を奪ったのだ。大切な『命』を奪ったのだ。その報いは、受けて貰わなければ。


「ヒッ――!」


 するり、と切っ先は抵抗感もなく男の眉間に入っていく。深々と刺さったツルギを捻りながら引き抜くと、どす黒い血液とズタズタになった脳漿が混ざりあったものが傷口から溢れ出す。


「おごっごががごごっ……!」


 男が倒れながら最後に口にした言葉は、くぐもった呻き声だった。娘を殺した獣を殺したことに、後悔はない。ただ、彼らと同じ獣に堕ちてしまったことはわかっていた。


 返り血を拭き取ることなく、西に向かって歩く。あの旗を掲げているもの達によって、ナーリアたちは殺された。彼らの全てを根絶やしにでもしないと、こんなところで殺されてしまったナーリアの命が無駄になってしまうような気がしたのだ。


 極まった炎が、瓦礫も、ロンザオの人々も、男たちも、ナーリアすらも等しく燃やしていくのを、二つの月だけが見下ろしていた。

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