命を吸い込むバケモノ

 長いこと寝てしまった。クディアの集落の中と外を走り回る日々は私の身体に疲労感を積み重ねていったらしい。何日も何日も、それこそ気の遠くなるような日々を歩き続けていても、体力は増えることはない。一定のところで休息を必要とするし、腕力や、脚の速さも男より強くなることもない。うまくはいかないものだ。


 寝床から這い出でるように抜け出し、出入り口を通り抜ける。夜から早朝にかけて浮かんでいる二つの月はとっくに消え失せていて、眩い陽の光が大地を照らしていた。光源の角度からして、一日の半分近くが経ってしまっているようだった。


 辺りを見回す。普段外にいる比較的元気なクディアの女たちでは、欠けた者はいないようだった。住居の中にいる者がどうなっているのか、近くを歩いていたユソワに声を掛ける。他の女より肉付きのいい身体をした彼女は、私から視線を外しながら応える。


「今日は誰も死んでない。まだ、ね」


「まだ?」


 意味深な発言に、そのまま言葉を返してしまう。あからさまにわざとらしい溜息とともに、ユソワは吐き捨てるように応えた。


「もうすぐ死にそうな娘はいる。ユタハサと――カレトだ」


 首の後ろに雷が落ちてきたような衝撃が私に襲いかかる。何故カレトが。近いうちにやってくるとはいえ、彼が命を落とすには早すぎる。昨夜に話した時はそこまで『死』の気配は強くなかったはずだ。


「だって、カレトは……」


「アンタが寝てるうちに、ラユッラと外に出たんだ。今にも死にそうなユタハサの様子を見て、ね。カレトはね、木の実を探しに行こうとしたんだよ。ロイゼユだっけか。アンタが教えてくれた、あの森の奥にある、赤い実だ」


「何故止めなかったの!? あの場所へは――」


 高地に実をつけるロイゼユの実は、クディアの集落からそれなりに離れたところで採れる。決して安全に手に入れることなどできないし、高所に群生している為に足を滑らせて落ちることもある。そもそもカレトのような『死』の気配が濃いものになど、到底辿り着けるような場所に生えていない。硬い岩肌や照り付ける陽のせいで体力と命をい削られ、向かう途中でとうとう力尽きて倒れてしまう。


 「ラユッラはなんとかカレトを引っ張ってここまで戻ってきた。なんでラユッラなんだ。スヴァリかお前が見ているべきなんじゃないか? スヴァリはどういう訳だか知らないけど、あの子のことを特に大事に扱ってる。この集落の女たちは、互いに協力しなければいけないのに。アンタも、そうなんだろう?」


 ユソワの耳を疑うような言葉が、私の中を駆け巡っていく。スヴァリはこのクディアを存続させる為に必要だと言っていた。それはこの集落のなかの共通の見解であり、最も優先されるべきことだと思っていたのだ。ユソワだけでなく、このクディアの女たちは個人が一人だけいい思いをするのが気に入らず、『全てを平等に』という凝り固まった考えを持っているのだ。それが、この集落を死に追いやっていることに、気付かないまま。


「だろうね。幾ら知恵をくれたって、食べ物をくれたって。アンタは所詮は余所者だ。話したくないことなんて、いくらでもあるだろうよ」


 ユソワは視線を外したまま、腕を組む。私を徹底的に拒むような姿に一瞬だけ怒りが湧き上がってきたが、ここで私が怒ったとしたもどうにもなるものではない。とにかくカレトのところに行かなければ。そう思った瞬間だった。


「カレト!」


 カレトの住居から聞いたことのないスヴァリの大きな声が聞こえる。居ても立っても居られなくなり、声の方向に向かって走り出す。ユソワの舌打ちが空気を伝わって耳の孔に流れ込んできたが、聞こえなかったことにした。


「なんで、なんでアンタが倒れたのよ……!」


 カレトの家に到着した瞬間に、叫び声に似た怒りの声が入り口から聞こえてきた。様子を伺う為に顔だけを覗かせると、部屋の奥の寝床にカレトが横たわり、力なく笑っていた。その脇で影のように佇むスヴァリと、膝の上で拳を握りしめている細身のラユッラの姿があった。


「ごめんねぇ、ごめんねぇ、ラユッラ」


 ラユッラの視線はカレトに注がれている。入り口に立つ私に気づいていなかった。それはスヴァリもカレトも同じだったが、息を呑む声は部屋にいた全ての存在に、私の存在を知らしめるには十分すぎた。


「あの女のせいなのね⁉︎ あの女がカレトの命を吸っていったのね⁉︎」


 憤怒の表情をしたラユッラは私を睨みつけながら声を上げる。敵意をもって見られることはあっても、ここまで明確なものを直接ぶつけられることは無かった。背中の真ん中に冷たいものが溢れ出ていくのを感じる。


「違――」


「違くない! 『死』があの女を呼び寄せたんだ! あの紅い髪、焼けた肌、みんなみんな私たちと違うじゃない! あの女は、アレは、死を運ぶものじゃない! アレが来てから何人死んだと思ってるの! その上カレトまで、カレトまで死んじゃったら、私は、私は……!」


 今にも消えそうなカレトの声と対称に、木製の柱が震えそうな程に声を張り上げるラユッラ。興奮しきった彼女は自身の感情を制御できなくなっていた。目に涙を浮かべ、長く黒い髪を振り回しながら叫ぶ彼女の声量は更に大きくなっていく。


「ラユッラ! それ以上言うのは許さんぞ! この短い日々でエドナからどれだけのものを得たか、わからぬとは言わせぬ!」


「スヴァリもアレを庇うの⁉︎ なんで、なんでなのよ……!」


 スヴァリの咎める声も、ラユッラには届いていないようだった。ラユッラは目から流れ出る涙を拭うことなく、叫び続けている。どれだけ涙を流しても、どれだけ嗚咽を上げても、私を睨みつける瞳からは射殺すような強烈な感情がらどんどん膨れ上がっていくような気がした。


「カレト……」


「お前がカレトの名前を口に出すな!」


 細い身体の何処にそんな力があるのか、ラユッラは俊敏な獣のような動きで私に掴みかかる。手首に食い込む爪が皮膚を突き破り、血がにじみ出てくる。鋭い痛みに声が出そうになるが、なんとか息を押しとどめる。


「ラユッラ!」


 雷鳴のようなスヴァリの一喝に、ラユッラが一瞬だけ力が弱める。その隙に両手を引き剥がす。微かに流れていた血はすぐに止まり、皮膚が盛り上がって傷口を塞いでいく。


 すぐに塞がった傷口を隠しながら座り込む。低くなっただけ近くなったカレトの呼吸は浅く長く、今にも息絶えてしまいそうだ。逃れることの出来ないというのは分かっていたが、早急にやってきてしまった彼の『死』の運命は余りにも残酷すぎる。長いこと生きていたとしても、こうやって死にゆく人を見ているのは胸が張り裂けそうになるほど辛い。


「ねぇ、ラユッラ。みんな、悪くないんだよ。きっと、こうなるのって、もう、決まってたんだよ」


 昨夜に話したものと同じ存在とは思えないほどに、弱々しく掠れた声。


「エドナ、ごめんね。もう少し、お話、した、かったな」


「駄目だよ、スヴァリみたいになるまで生きるんでしょう? そんなこと言わないで、さ」


 私の声に、カレトは小さく首を振る。スヴァリの息を吸う声が、やけに大きく聞こえた。


「いいの。私、楽しかった。エドナに会えて、エドナと話せて、嬉しかった。知らない、ことを知れた。ヒルネとか、ロゼイユ、とか、たくさん、たくさん。だから、ね、いい、の」


 ゆっくりと、彼は瞳を閉じる。まるで次の日に起きるのではと思うほどに自然に、永久の眠りについてしまった。


「カレト!」


「おぉ……クディアが、クディアが……!」


 私の叫びとスヴァリの慟哭は、カレトの耳に入ることはない。何も喋らなくなった彼の代わりに動き出したのは、ラユッラだった。ゆらり、と風に靡く布のように私の方にもたれかかった瞬間、お腹の方で焼け付くような痛みが突き抜ける。それがラユッラが懐に隠し持っていた石のナイフによるものだと気づくまでは、時間はかからなかった。


「お前が、お前が、お前が……!」


 ナイフを引き抜く度に赤い鮮血が吹き出していくが、すぐに止まっていく。ラユッラは自身のどす黒い感情の赴くまま、私の衣服があっという間に穴だらけになるほどに、何度も何度も石の刃を突き立てる。連続した熱に似た痛みに何度も呻き声をあげるが、それでも死ぬことのない私のことを、ラユッラもそうだが、スヴァリも恐怖に染まった瞳で見ていた。それは悍ましい生き物を見るような目だった。


「なんで死なないのよ! やっぱり、やっぱりコイツは私達じゃない! 外側だけが似ているだけの、バケモノだ! 返してよ! みんなを返してよ! みんなの命を! カレトの命を! 吸い込んだ命を、返して!」


 ラユッラの絶叫が、私に深く深く突き刺さっていく。鮮血に染まった服もそのままに、無言でカレトの住居を出た。私と入れ替わるようにユソワ達が住居に入っていく。彼女達の鳴き声が、私の胸の奥に棘となって食い込んでいく。肉を切り裂くナイフよりも、そちらの方が断然痛かった。


 ラユッラの言葉の通りだ。私は歩く。歩き続ける限り、周りの命を吸い込んでいく。私の周りで人が産まれて生きて死んでいくということは、そういうことなんだろう。


 私は、いったい『何』なんだろう。時折考えたことはあっても、ここまで深く思ったことはなかった。私は私だと、漠然と思っていたのだ。


 それでも、歩き続けなければならない。それしか、やり方がわからないからだ。視界がぐるぐる回っている。やるせなさと無力さとカレトの最後の笑顔が、私の頭の中にこびりついていた。

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