第三章 バルカ

肉を求めて

 ヒトは生きている限り、いつかは死ぬものだ。ならば、死ぬことのない私は一体何者なのだろうか。それを考えたのは一度や二度ではないが、幾ら考えたとしても結局のところ『私は私でしかない』という当たり前の結論に至るのだ。エドナという自我がある限り、私は私なのだ。それが霧散して消えてしまうということが、いわゆる死なのだろう。幾ら生きても、その感覚はわからない。わかる日が来るかどうかも、わからなかった。


 途方もないほどの日々を歩いてきた。夜空に浮かぶ星々も、大地に芽吹く草花も、実のところはとっくに見飽きている。それでも、私の間を通り過ぎていく数多の人たちは見ていて飽きることがなかった。傷つけられることもあった。恐れられることもあった。それでも様々な人と触れ合い、関わり合うことによって、私は私でいられるような気がしたのだ。『歩き続けるもの』の名の通り、ひたすらに歩いて歩いて歩いて、誰かと出会って別れていく。そんな日々を過ごしていた。


 そんな私の視界には見渡す限りの荒野が広がっている。乾いた風が、周りの命の気配が薄いことを表している。ひび割れた乾いた大地を踏みしめる足音が、なんだか妙に軽く聞こえた。


「……だからといって、幾らなんでも、これはないだろうよ」


 誰かに向かって言ったわけではない。ただの独り言だ。何かを口に出していなければ、どうにかなってしまいそうだった。


 呟きに応えるように、お腹の底から乾いた音が聞こえてきた。それはあまりにも悲しく、そして虚しい音色。そういえば10日ほど、殆ど食べ物をお腹に入れていない。


 別に何か悲しいことがあったわけではない。単純に、間が悪いのだ。ほんの僅かに実っていた筈の木の実は獣に先を越されたし、その獣には逃げられた。目に入るキノコは食べられないものしか生えていないし、川の水は殆ど干上がっていて喉を軽く潤すことしかできなかった上に、貝や海藻を手に入れられる海は遠いという八方塞がり。こんなことはなかなか起こりうることではない。久しぶりに訪れた途轍もない不幸に、かえって笑ってしまいそうだ。


 こういう時ほど、死ぬことのできない身体が恐ろしいと思った事はない。お腹が空いているのは事実ではあるが、普通に身体は動いているし、意識が遠くなるような気配は全く感じない。飢えて死んでしまうことが非常に多いこの世界の中で、私だけが飢えることはないのだ。


 だからといって、食というものに興味がないというわけではない。むしろ、私の旅路の中で食べることは重大な要素を占めている。食事というものは人の叡智の結晶なのだ。ただ木の実を摘み、そのまま口に入れる。獣を狩り、血が滴るその肉を喰らう。それだけだったはずが、いつしか保存をする為に、お腹を壊すことなく安全に食べる為に加工をするようになった。火を通すようになれば、嗜好を満足させる為に様々な方法で調理をするようになった。ただ臭いだけだった獣の肉が、思わず笑顔になるような豊潤な味わいに変わるのだ。私が歩いている間に、人々が生まれて、生きて、死んでいく。その繰り返しの中で生活は着実に前に進んでいったのだ。それが堪らなく嬉しいし、喜ばしいことに感じたのだ。だから、進歩を感じることのできる食事は私にとって切っても切れない大切なものなのだ。幾ら食べなくても生きていける身体だとしても、だ。


「カウカウのお肉が食べたい……蒸し焼きでも丸焼きでもなんでもいい……お肉お肉お肉、お肉お肉お肉お肉」


 お肉お肉お肉お肉お肉お肉お肉お肉。お肉お肉お肉お肉お肉お肉お肉お肉。頭の中は食欲で埋め尽くされていく。カウカウじゃなくてもいい。もう四本足ならばなんでもいい。とにかく美味しいものを食べたかった。私の中で美味しいものといえば、とにかくお肉なのだ。幾ら言葉を話せたところで、道具を器用に扱えたところで、人は結局のところは毛皮のない獣なのだ。他の獣の肉を喰らって血を、肉を作り出していく。草や木の実では、そうはいかない。


 食欲で頭が一杯になればなるほど、空腹は強調されていく。もう苦い水しか残っていない私のお腹の中が蠕動を繰り返し、何かを口に入れろと騒ぎ立てているが、幾ら見回したところで視界には食べるものは見当たらない。本来感じる筈の絶望感すらも、食欲が塗り潰している。


「あー、あの雲がジキの脚に見えてきた」


 まるで死体が蠢くように、ただ広い荒野を歩いていく。膨れ上がってしまった食欲は、ある筈のないものを感じ取ってしまう。


 いつだったか、とある集落に立ち寄った時に振る舞われた小型の鳥の丸焼きの味を思い出し、乾き切った筈の口内で涎が溢れてくる。しなやかな筋肉で構成された柔らかく旨味のある肉が、とても美味しかった。嗚呼、あの香ばしい香りを今でも鮮明に思い出せる。


「……ん?」


 足を止める。私の嗅覚が受け止めているこの香りは、果たして記憶の再生されたものなのだろうか。それとも、ただの空想の産物なのだろうか。


 否。これは。


「ホンモノのヤツじゃないか!!!」


 自分の身体のどこにこんな力が残っていたのか分からなかったが、とにかく尋常ではないほどの力が踵から爪先にかけて突き抜けていった。繰り出される足と足の回転は次第に速くなっていく。それが疾走に変わるのはそう時間は掛からなかった。


 荒野を駆け抜ける。どんどん匂いが強くなっていく。間違いない。この先に、私が求めているものがある。足に込められる更なる力が、私の身体を更に加速させていく。


 荒野を駆け抜ける。煙が見えた。もう、すぐそこだ。小さな岩を飛び越え、大きな岩をよじ登り、火の元であるであろう場所に向かって一気に飛び出した。


「うおっ⁉︎」


 私が初めに見たのは、まるでダケラケのような大きな男の背中であった。彼の背中で、何が焼かれていたのかは、わからない。


「な、なんだあっ⁉︎ 賊か⁉︎ 獣かぁ⁉︎」


 ただ、それよりも、何かの小骨を口の端から吐き出しながら男の驚く顔が、なんだか妙に面白おかしく見えた。

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