ミティスの矢

 これから私が取る行動は完全なお節介だ。生きるため仕方がないこととはいえ、人が人を殺すということに納得がいかない。ただそれだけのことだ。なんとか説得して、二バハルとミティス――ふたつの村が共に繁栄していく道を取った方がいいに決まっている。バルカの両手は、村の人達を導くものであって、人の命を奪うものではないのだから。


 二バハルのヒトたちは勤勉だ。朝日が昇る少し前、まだ辺りは暗いというのに外に出てコメの茂るぬかるみを確認したり、周りの柵を修繕したりしている。バルカの好意により貸してくれた村外れにある小さな小屋から出てきた私の視界に入ったその光景は、先日の昼間とは違う意味で美しいものだった。


 尚更、この村の人々を失わせるわけにはいかない。


 焦燥感にも似た感情が胸の中でぐるぐると回っていた。もともと暗いこともあり、闇に紛れた私のことなど働く人々には視界に入らないだろう。実際に声をかけられることもなかったし、バルカの住む大きな住居に誰かが入っていくような様子はなかった。できるだけ物音を立てないようにしながら身支度を整えて、二バハルの村を出る。


 駆け足とはいかないが、普段より速度を上げて荒野を歩いていく。そう歩かない内に、ほとんど水量が減ってしまった川を見つけた。流れも緩やかなせいか、この川の水が海へと辿り着かないのではないかとすら思える。これだけの量しか二バハルに届かないならば、バルカ達が追い詰められるのも理解出来る。


 この川の先に、ミティスの村がある。どれほど先にあるかもわからないが、とにかく歩けば辿り着く。目的地があるのは、私にとってはありがたいものだ。川を遡るように歩いていく。川の水が少ないからか、周りの大地は荒れ果てている。干ばつか何かだと思ってはいたが、まさか人為的なものだとは思ってもいなかった。他の村だけでなく、大地すら蝕むようなことは本来あってはならないことだ。


 草も疎らにしか茂らない荒野を歩く。よくバルカはこの荒野でまともに狩りができたなと思えるほどに、獣の姿をもそこまで見ることがなかった。二バハルで補充した矢も、使い道がなさそうだった。


 いつものように歩いて歩いて歩いて、太陽が3回沈んだ頃に私の視界に巨大な柵が見えた。二バハルの村も大きかったが、それよりも高い。私の背丈の5つ分は優に超える高さにただ驚く。


 とにかく、中に入って話をしなければ。畏敬の念すら覚えるほどに高く聳え立つ柵を見上げながら、唯一開かれた入口へ向かって歩いていく。


 ほとんど頭上を見上げていたから辛うじて気づけたのかもしれない。それほどに微かに聞こえたきたのは空気を鋭く切り裂く音。それが何を意味するものか気づく直前に足元に矢が突き刺さる。


「何者だ! 怪しいやつめ!」


 突き刺さった矢の方向には、柵よりさらに高い櫓から弓を構えた男がこちらを睨み付けていた。遠くからでもはっきりと聞こえてきた敵意を剥き出しにしたその声をできるだけ刺激しないように、両手を上げてゆっくりと首を振る。


「歩き着いただけだよ、怪しいものじゃない」


「怪しくないやつはみんな怪しくないと言うではないか! 紅い髪など……!」


 私の弁解も男に届くことはなかった。弓の腕だけでなく、耳もいいらしい。矢を番え、こちらに向けている彼に向かって余計なことをすれば全身の至る所が矢に貫かれそうだ。抵抗してどうにかなる相手ではなさそうだが、何がなんでもこの奥に進まなければならない。敵意がないことを示すために、肩に提げていた矢筒を放り投げた。鳥の羽を装飾された美しい矢が、砂埃が積もった荒野の風で汚れていくのが、少しだけ悲しかったがここは我慢だ。


「ただ中を見たいだけなんだ。それともこんなに大きな村がただ歩いてきただけの丸腰の、ただ髪が紅い女にどうにかされるとでもいうのかい?」


 暫しの沈黙のあと、男は番えていた矢を降ろす。どうやら通っていいらしい。聞こえているかはわからなかったが、「ありがとう」と小さく呟きながら会釈して、入口に向かって歩く。


 柵の近くには大量の杭があり、その一本一本に何かが吊るされている。それが何であるか気づくまで、それほど時間はかからなかった。バルカの言葉が頭の奥に引っかかっていたからだ。彼の言葉のとおり、腐りきったヒトの首から上が、その全てに晒されていた。途中で数えることを放棄するほどの首と首と首は、骨だけになってしまったものから真新しいもの、男や女、子供も老人。ありとあらゆるヒトの首が分け隔てなく置かれている。常軌を逸した光景に、全身の毛が逆立つような感覚を覚えた。


 羽を汚した真っ黒な鳥が屍肉をつついている。柵の内側に暮らすヒトたちは、この異様な光景に何も思うのだろう。人が人を殺すことを止めるためにここまでやって来たというのに、この村ではそれを率先してやっている。地域によって文化は大きく異なる。それでも、彼らの行動は常軌を逸している。


「いいから進め。射抜かれたいのか?」


 遠くからでもよく通る男の声で我に返る。彼の矢は再びこちらに向けられていた。どの首が二バハルの男のもの分からない以上、どうにも出来ない。後ろ髪を引かれるが柵を通り抜けて、ミティスの村へと入る。


 辺りを見回した瞬間、あまりの光景に我が目を疑った。二バハルで見たものとは比べ物にならないような景色が広がっていた。あまりの衝撃に突っ立ってしまう。周りの訝しむ視線も、まるで気にならない。


 活気という活気が、ここにあった。老若男女の首を晒しているようには見えないほどに、ここで暮らす者たちは楽しそうに笑っていた。長い間生きてきて、ここまで安心しきった顔を沢山見る機会など、殆どなかった。この柵の中に生きている限りは、安寧が保証されている。そう心から思っているような、安らぎに満ちた笑顔であった。


 彼らの育てているコメの根元に引かれた水は区画化されて全体的に行き渡り、透き通った水面が陽の光を反射して眩く輝いていた。茎も葉も力強く瑞々しく、ぬかるみに茂っていた二バハルのものとは比べ物にならないほどに生命力に差があった。先にこちらを見ていたのならば、二バハルのコメの葉がどれだけ弱々しいものに見えたことか。見れば見るほど、このミティスの村が川の水を独占していることが理解出来た。繁栄を重ねたこの村がそれを一部でも手放すとは思えない。


 このままでは近いうちに、お互いの血が荒野の乾ききった大地を潤すだろう。そして、その血の割合は二バハルの者の方が多いだろう。活力が余りにも違いすぎる。幾らバルカが屈強な猛者だろうとしても、限界がある。どうにかしてミティスも二バハルも止めなくては。焦りだけが、私の胸の奥でぐるぐると回る。


 だが、何もかも遅かった。甲高い音の連続と、遠くから聞こえてくる雄叫びがバルカの行動の素早さと、私自身の考えの甘さを示していた。

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