第十章 ウィリアム
乾いた身体
乾いた風が私の身体をすり抜けていく。砂埃が身体中にまとわりつき、口の中に入り込む不快感を無視しながら、荒れ果てた大地をゆっくりと歩いていた。
ここ最近の文化の発展は目まぐるしく進んでいる。石を叩いて削った手斧や槍で獣と格闘していた頃と比較する事も烏滸がましいほどだ。快適さ、効率、品質、便利さ、何もかも勝負にすらならない。負けることなど、何一つ存在しない。
大型の獣を追いかけて戦うならば、二、三人は命を落としても仕方がなかった。それ以前に、倒して肉を得ることが出来なければ、もっと多くのヒトが死ぬ。
今では牧畜しているウシを処理して捌けばいいのだから、楽になったものだ。そして、そのウシを育てることを生業にしている者もいる。彼らや他の農業従事者たちのおかげで、ほぼ飢えることはなくなったといっても過言ではない。あくまで金があればの話ではあるが。金の重要性がどんどん増えているのは、全くもって煩わしい。
商人トルナイから貰った外套はとうの昔に朽ち果てて使い物にならなくなっていたけれど、あの深緑の色合いはとても気に入っていた。あれ以来、それに近い色合いのものをつい選んでしまう。
それにしても、この一日は水すら口に出来ていない。西にしばらく歩けば街があるという話を聞いていたが、三日経ってもそれらしいものどころか、ヒトの気配すら感じない。手持ちの食料と水は、昨夜に使い切ってしまった。草木の露も、この乾燥した大地では見つける事すらも困難を極めている。
「み、水……」
もう数えることすらも放棄した日々。この状況は一体何度目だろう。学習能力というものが抜け落ちているのではないのかと自嘲してしまう現状。いくら死ぬことのない身体だとしても、空腹も感じるし、喉も渇く。逆に言ってしまえば、死ぬことができないほどの渇きと空腹が私の身体をずっと襲い続けているのだ。早く何か口に入れないと、どうにかなってしまいそうだ。
とにかく脚を動かさなければ。歩き続けなければ。それだけを考えながら、荒野をただ一人でゆらゆらと歩き続ける。
太陽が沈む。二つの月が昇る。
夜は危険だ。月と星の光だけで足元は確かめることはできない。毒草を踏み抜いてのたうち回るならまだマシな方で、脚を踏み外して崖から自由落下なんてたまったものではない。更には獣に襲われる可能性もある。できることは限られる。暗闇と一体化するように隠れ続けるか、火を焚いて一夜を過ごすかだ。
この地域の夜は冷える。多少無理しても、火を用意した方が良いだろう。そう判断した私は転がっている枯れ草や枝を適当に集め、火を焚べる。
炎は文明の始まりだ。最初は雷か何かによる外的要因でしかなかった。それを操ることにより、ヒトは発展してきた。これからもそれは変わることはない。効率よく炎を扱うことができれば、また一つ文明は進歩していくのだろう。
暖かな焚き火の温もりは、染みついた疲労を改めて思い出させる。もう立ち上がれる気がしない。今夜はここから一歩も動けないだろう。使い果たした体力を回復させるために、身体は休息を求めていく。外套を身体に巻き付け、ゆっくりと瞳を閉じる。
明日こそ。明日こそ、何か食べられるといいのだけれど。
空腹を告げる腹の音も、もう聞こえない。このまま眠ってしまえば、朝には目が覚めるだろう。僅かにでも身体が癒えれば、何とか動けるはずだ。
それでも、明日も何も口にできなかったら。胸の奥に微かに湧き出した不安を無理矢理押しのける。このまま疲労感に身を委ねて甘美なる夢の世界へ――
「あの……」
「んが」
行くことはできなかった。意識が落ちる寸前、夜風とともに私の耳の中に入り込んできたのは細く高い声だった。微睡みの中にいた意識がすぐに戻ることはなかったが、身体は自らを守るために反射的に動く。
「や、野盗かい⁉︎」
すぐ後ろに置いてあったツルギに手を伸ばす。せめてもの抵抗に過ぎないが、この体勢でも切先を突きつけるぐらいはできる。
「野盗がわざわざ声をかけないでしょう」
しかし、返ってきたのは冷静な声だった。敵意を感じられない静かな声を聞き、幾許か冷静になる。
「それもそうか」
意識はすっかり覚めていた。声の主のほうをじっと見つめる。炎に照らされた姿は、若い女性のものだった。暗がりで詳細はわからないけれど、この地域でよく見られる簡素なドレスを着込んでいるあたり、夜遅くにこんなところにいる事に疑問を覚える。
「焚き火が見えたもので……こんな夜です。ご一緒しても、いいですか?」
警戒は解いてはいない。彼女は囮で、闇の奥で本命が待っているかもしれないのだ。気取られないようにツルギをそっと手元に移動させる。
それでも、彼女の声は粗暴さというか、誰かを騙して何かを成そうという素振りを感じさせないものであった。人恋しさを増幅させるようなその声を聞き、つい提案を受けてしまう。
「あぁ、構わないよ」
口に出してからしまった、と思っても遅すぎた。女性は私の隣へとするりと入り込み、炎に向かって手を伸ばしていた。灯りのすぐ近くまでやってきた彼女のそばかす混じりの顔は、砂埃に塗れている。かなりの距離を歩き回ったのだろうか。
「ありがとうございます」
私の視線に気づいたのか、女性は小さく会釈しながら肩にかけていた円形の水筒に手を伸ばす。
まさか。
中に。
水が。
乾ききった身体は水筒から目を離すことが出来なかった。卑しいとかそういった感情など浮かぶこともない。その手から無理矢理に奪い取ることのないよう、自制心へと脳のキャパシティを総動員させていく。
食料や水を求めてヒトがヒトを殺す。この世界ではよくあることなのだが、今ならその気持ちが痛いほどにわかる。視線を外せばよかったのかもしれなかったが、一度認識してしまった以上、意識は水筒から離れることはない。離れてくれない。
「……飲みます?」
恐らく私は凄い眼をしていたのかもしれない。女性はそっと水筒をこちらに渡してくる。彼女が持っているものが善意だろうが悪意だろうが、もうどうでもよかった。警戒心などとっくに消え失せている。抗うことなどできない。身体はとっくに干からびているのだから。
受け取った水筒に口をつけ、中に入っていた水を全身に染み込ませるようにほんの少しずつ飲み込んでいく。一滴一滴、吸収し損ねるようなことなどないように。
水が身体の中を循環していく。乾ききっていた身体が胃を中心にゆっくりと生き返っていくのを感じる。今まで飲んできたどんな水よりも、美味なものだ。求めて求めて求めていたものを口にすることが、とてつもない幸福なことであることを改めて実感する。しかし、こんな良い状態の水は久しぶりだ。この辺りに水源でもあるのだろうか。
「うぅ、死ぬかと思ってたんだ。本当にありがとう。えぇと――」
「ジャネットです。ジャネット・エイシー。」
女性――ジャネットに頭を下げて感謝を述べつつ、だいぶ中身を減らしてしまった水筒を返す。まぁ実際に死ぬことはないのだが、初対面のヒトにそんなことを言ったところで信じてもらえる筈もない。
「キミは恩人だ。何かできることがあったら言ってほしい」
気軽に言ったつもりだった。水を恵んでくれた女性になにか礼をしたい。ただ、それだけのものだ。
それでも、ジャネットにはそんな言葉にすら縋りたい何かがあったのだろう。何かを考えるような素振りを見せることなく、小さく息を吸い込んだ。
「……兄を、探しているんです」
炎を見つめているジャネットの瞳は、悲しげなものだった。しかし風に負けそうな程に小さな呟きは、どこか決意に満ちているように感じた。
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