拳士と商人、そして旅人

 歓声は地鳴りのようだった。

 競技場で拳を振り上げる群衆がジァンのことを讃えていた。


『拙は、この拳で何処まで行けるか、試したい。ただ、それだけだ』


 暫く前、リマナに着く数日前に呟いていたあの言葉。行き着く先とはまた少し意味合いが違うが、この競技場の中では、彼が一番の注目を集めていた。


 私がいるところから、ジァンは手に持った鶏肉よりも小さく見える。彼の何も映すことのない眼はしっかりと閉ざされているのは確認できた。しかし、それを知らない人がほぼ全てである以上、開かれることのない瞼を余裕の現れと受け取る者も多い。


「あの野郎、いけすかねぇ」

「目ェ瞑って戦ってやがる」

「リマナの戦いを舐めてやがンな」


 賭けで金が動く以上、健闘を讃え合うだけの大会にはなり得ない。私怨に近い感情を持ちやすいことは容易く想像できる。それでも、奇術のように三節棍を操るジァンはあれよあれよと勝ち上がっていく。連勝に連勝を重ねるどころか、とうとう最終戦すらも余裕で勝利してしまった。相手も順当に勝ち上がってきた猛者であり、周囲の反応からして勝利者の最大候補だったのだろう。それすらも完膚なきまでに打ちのめしたジァンの強さというものは実に末恐ろしいものだ。


 勿論、彼の勝利を疑うことはなかった。当然のように手待ちの殆どを賭けていた私は見たこともないような大金を得ることが出来た。聞くところによれば戦士たちによって護られているこのリマナは比較的治安が良いらしいのだが、賭けの賞金を奪うようなならず者も少なからず存在するという。


「こんだけ儲かったなら、護衛でも雇ったらどうだい? このリマナにはそういう仕事をしてる奴なんてゴロゴロいるぜ」

「ありがとう、でも大丈夫だよ」


 だけれど、今の私にはそれを心配する必要はない。この大会をいとも簡単に制覇した闘士が、私のすぐ近くまでやってきていたからだ。


「お疲れ様だったね、ジァン」


 相変わらず杖をつきながら歩いてくるジァンの後ろに回り込む。彼の近くは、恐らくこのリマナにおいて一番安全な場所だろう。護衛として一緒に歩いていて、これほど頼もしい男もそういないだろう。実際、ジァンが来た瞬間に私の肩にかけられている膨らんだ鞄に向けられていた視線がほとんど感じられなくなった程だ。


 ジァンの左腕を引っ張り、競技場を後にする。太陽はまだ沈む気配がない。真夜中に煌々と照らされていた大量の松明の燃え滓が地面に落ちている路を進んでいく。


「どうだった? 随分と余裕そうだったけど」

「ふむ、和やかな大会であったな」


 道程を探す必要が無くなったのか、ジァンは私の誘導に素直に従っている。それでも私が無意識に理解して避けている路面状況――細かい窪みや大きめの砂利は彼には分からないので、その足取りはゆっくりとしたものだ。私はそれに合わせるように一歩一歩確かめるように歩いていく。


「正直なところ、ここに来れば血が湧くような闘いができると思っていた。娯楽の為にここに来たわけではないというのに」


 彼の声には微かな落胆が見えた。敢えて死地に赴こうとする彼の気持ちは、私には分からない。自分とその周りの身の回りを守ることが出来れば、それでいいのではないのだろうか。過ぎた力は、いつか必ず持て余す。そしてその力は、誰かを傷つけるのだから。


 腰に吊るされた木製のツルギに視線を移す。殺すことのない武器ではあるが、全体重をかけた一撃を頭や首に叩き込めば命を奪うことは不可能ではない。結局のところ、このツルギも立派なヒト殺しの道具なのだ。


 それを振るう者の意思が、殺すかどうか決めるのだ。


『私ね、思うんだ。人を殺すのは、武器じゃないんだ。武器が無くても、そこいらに落ちてる木の枝で、石で。それすら無くても手で、足で、歯で。人は人を殺せるんだ。殺すのは、結局のところ人なんだ』


 思い出すのはナーリアの言葉。故郷の皆を守るためとツルギを研いでいた彼女は、誰かを殺す為に行動していなかった。長いこと時間がかかってしまったが、彼女の言っていたことが今なら理解できるような気がした。


「どんな力も使い道……ってことか」

「どうした?」


 失われた視覚を補うように、発達した聴覚は私の呟きもはっきりと聞こえていたようだ。片眉を上げ、私の言葉の先を待とうとしている。しかし、それを話す気はない。幾千回の太陽と月を逆廻した先にある思い出を語ったところで、拳士にとっては何も意味もないからだ。


 強者と戦い、己の腕を磨く。戦って、戦って、戦って、死ぬ。そうでしか生きられないヒトも、確かに存在するのだろう。それに関して口を出せるほど、力も責任もない。


「なんでもないよ」


 はぐらかすように手をひらひらと動かす。見えていないはずなのに、ジァンは私の動きを見て片眉を更に釣り上げた。


「これからどうするんだい?」

「知れたこと。強者に相見える為に、また彷徨うだけよ」


 私の問いに、ジァンは首をぐるりと回しながら応える。彼の旅はまだまだ続いていくのだ。まだ見ぬ相手に、自分の武術を試すために。力尽きて倒れるまで、それは終わらないのだろう。旅が続くのは私も同じことだけれど、目的もなく歩き続けている私と違って、彼にはしっかりとした目的がある。にやりと楽しげに笑う彼の笑顔が、なんだか眩しく見えた。


「ならば僕も同行させてほしいんだ」


 いつの間にかトルナイが私達のすぐ横を歩いていた。声に驚いた様子を見せないあたり、ジァンはとっくに気付いていたのだろう。どうやら気付かなかったのは私だけらしい。


「ジァン、キミの強さは本当に素晴らしいよ。是非、護衛として雇いたいんだ。寝食と移動手段は保証する」


 トルナイは屈託のない笑顔を見せている。裏表の感じられない、人と人の心理戦を繰り返している商人とは思えないほどに眩しい笑顔とは対照的に、ジァンは一転して口を横に結んでいた。


「むぅ……」


 歩きながらも熟考を重ねているジァンが答えを出すまで、それなりに時間を費やした。具体的には競技場が遠くに見える程度まで歩いた頃であった。急に私の腕を振り払い、杖を放り投げて足を止めるジァンに足をもつらせながら振り向くと、トルナイに向かって一礼をしていたところだった。握られた右手と左手を掌にして胸の前で合わせる、見たことのない礼の形だ。詳しくわからないが、きっとこれがジァンの敬礼のようなものなのだろう。


「――宜しく頼む」

「勿論。改めてこれからもよろしくお願いするよ、ジァン」


 ジァンの礼を受け取りながら、トルナイも大きく頭を下げる。善性がヒトの形をしているようなトルナイであっても、暴力は理不尽に襲い掛かってくる。それを跳ね除ける力があるジァンがいるなら、彼の商売の旅路はもっと有意義なものになる。そして、戦いの場を求めるジァンにとっても、有能な商人であるトルナイの支援はきっと役に立つ。お互いが得をする、いいコンビが出来た。


「良かったじゃないか。じゃあ、私はここでお別れかな」


 驚きの表情を浮かべるトルナイが何かを言う前に、遮るように言葉を続ける。


「特に深い意味はないよ。久しぶりに一人でゆっくり歩きたくなった。ただ、それだけさ」


 本当に、それだけの理由なのだ。彼らの旅路についていけば、きっと和やかでありながら激しい日々を過ごせるのだろう。今回みたいに賭けで一儲けできたりするのかもしれない。そういう旅も悪くはないけれど、何も考えずに足を出し続けるような日々を過ごすほうが、私にとっては性に合っているのだ。知らない場所で訪れた知らない人と出会い、語らう。その途方もない数の繰り返しが、とても愛おしい。


「とりあえずコレ、持ってってくれよ。いくらなんでも多すぎる」


 金貨が詰まった袋をトルナイ達に押し付ける。この大量のお金はジァンによって齎されたものだ。ジァンと、共に旅をするトルナイ達が持つほうが相応しい。


「今までの運賃と思ってくれよ。世話になりっぱなしだったことだし、ね」

「……どうせ断っても無理やり渡すんだろう?」


 貨幣制度は便利なものだが、実に合わない大金を持っていたとしても、きっと碌なことにはならない。そもそもあったところで変なところで浪費してしまうのが目に見えている。


 私の返す無言を肯定と受け取ったのか、トルナイはなにやら呟きながら馬車へと戻り、荷台を物色する。ジァンと私が武術大会に行っている間に商談を何度も成功させたのか、殆ど入っていなかった荷台の中身には沢山の物が詰め込まれていた。


 今回は時間はそれほどかからなかった。荷台からぬらりと降りてきたトルナイの手には歩きやすそうな革靴と大きな布の塊があった。深緑色の分厚いそれは、どうやら大型の外套らしい。


「せめてこれらを持っていってくれよ。キミが使いそうな物のなかでいちばん上等なものだ」


 外套を広げてみると、中には綺麗に磨かれたな長弓と矢筒、そして黒く分厚い獣の皮でつくられたツルギの鞘があった。私が持つ木のツルギが丁度よく入る大きさだ。

 早速身に着けてみたところ、どれもこれも私のために拵えたかのように身に馴染む。これならば、何処へとだって行けそうだ。


「うん、よく似合っているよ。キミの紅い髪によく似合う」


 トルナイのことだ。もしかしたらこれらの装備は、もともと私に渡すために用意していたのかもしれない。だけど、それを口にするのは無粋だ。


「ありがとう。ジァン、トルナイ。なんていうか、楽しかったよ」


 私にできることは、二人の旅路の無事を祈ることだけだ。いま出来る限りの笑顔を浮かべて、感謝の気持ちを伝える。


「エドナ」

「どうしたんだい、ジァン――」


 一瞬で私のすぐ前へと現れたジァンに急に頬を触られる。驚いているうちにその手は頬だけでなく、髪の毛や顔中を何度も何度も満遍なく触り続けていく。


「ちょ、ま、むぐぅ」


 何度も何度も触れるその手は、数多の男達を殴り飛ばしていたとは思えないほどに柔らかいものだった。少し冷たいけれど、はっきりと感じる彼の温もりが命を感じさせる。


「ふむ、なるほど……お主のカタチ、改めて刻ませてもらったぞ。お主も、拙のカタチを刻むといい」

「……どういうことさ?」


 ジァンが言っていることの意味がわからず、首を傾げる。盲目のジァンが自分から私に触れてくることは今回が初めてだった。見えていたときよりもはっきりとヒトの形を捉える事が出来ると大会に出る前に言っていた彼であったが、こうやって触って確かめて何になるというのだろうか?


「目で見えないものもあるけど、触れないと分からないものもあるってこと……?」


 トルナイも首を傾げている。


「よくわかんないや」


 私とトルナイが二人揃って首を傾げているおかしな状況。それに気づいているのかどうかわからないが、ジァンは小さく息を吐き、持ち直していた杖を地面に叩く。杖の先端が土に埋もれるざすり、という音がやけにはっきりと聞こえた。


「まぁいい、行くぞトルナイ。目指すは北だ」

「北? どうして?」

「特に意味はない」


 杖を前に突き出しながら急ぎ足で馬車へと向かっていくジァンと、それを慌てて追いかけるトルナイの背中を見つめていく。盲目の拳士が何度も触れた頬が、なんだかとても熱を持っていた。

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