第二章 カレト

ヒルネ

 暖かな陽の光が降り注いでいた。草木は生き生きと芽吹き、視界いっぱいに美しい景色を見せつけてくれる。私はその上で寝転びながら、大地の香りを胸いっぱいに吸い込んだ。


「あー、こういう日は寝てるほうがいいかもしれないなぁ」


 鼻を通じて、生命そのものの香りが私の中を駆け抜けていく。冷たい雪に包まれたいつかに比べれば、なんと過ごしやすい陽気なのだろう。毛皮を羽織る必要も無い。何代目かわからないカウカウの外套を背中に敷きながら、自然と口角が上がる自分がいた。


 これで食べ物が沢山あったならば言うことはないのだけれど、悲しいことに手持ちは残り少ない。その辺で木の実か何かを手に入れないといけないと思うのだが、この暖かな風に包まれていると眠気の方が先にやってくる。後で、また後ででいいか。次第に重くなってきた目蓋に抗うことなく、ゆっくりと瞳を閉じていく。


「あ、あのー……」


 落ちていく意識の中で、微かに細い声が聞こえた気がしたが、今の私には気の所為としか思えない。目の奥から力が抜け、眠りへと一直線に落ちていく。


「あのー」


 微睡みを邪魔するように、声が大きくなっていく。ほんの僅かに意識が浮上するが、敢えて無視をして睡眠に戻ると、大きく息を吸う声が聞こえた。


「あの!!!!」


 これはまずいと思う猶予もなかった。想像を遥かに超えた大声に胸の中央が飛び跳ね、一瞬で目が覚める。


「よかった、生きてた」


 どういうわけだか安心したような声に混乱しながら上体を起こすと、茶髪の子供が私を見下ろしていた。歳はまだまだ若いが、顔つきからして恐らく女の子だろう。まだまだ子供を作ることも叶わないほどに幼い姿をしていた彼女は、厚着どころか最低限の布地の服でもいいほどの陽気の筈なのに、顔以外の身体を隠すような大きな白い布で身を包んでいた。


「こんなところで気持ちよく死ぬ人はいないさね」


 口を尖らせながら思いついた精一杯の皮肉を口にするが、彼女に通じたような感じはしなかった。少し細い目が、心配そうにこちらを見ていたからだ。微かに涙が浮かぶその瞳は、なぜか私に『死』を連想させた。命を燃やし尽くしたツカルジの目とは違う、ある種の諦めのようなものを感じたのだ。ツカルジの亡骸を超えてから、また沢山の人と出会い、そして死を見てきた。幾多の出会いと別れを繰り返してきたからか、なんとなく死の気配に敏感になっていた。


 日の光を浴びて、少女の髪の毛が明るく光っている。地面から伸びる草木のように生命力に満ちているが、やはり彼女からは不穏な気配が消えることはない。もしかしたら身に纏う白が、それを強調させるのかもしれない。疑念を振り払うように小さく首を振り、少女に向かって微笑みかけると、彼女も白い歯を見せて笑い返してくれた。


「ここで、何してたの?」


 再び寝転がると少女が興味深そうに私の顔を覗き込んでいた。こんなにも穏やかな空の下、絶好の場所で昼寝をするという最高に気持ちいいことを知らないということは、彼女の周りは相当に余裕がないのだろう。悪い遊びを教えるようで良くない気がしたが、聞かれてしまったなら仕方ない。


「見てわかんないかな、昼寝ってヤツだね。良くないことらしいが、なかなかに気持ちがいいもんだ」


 妹を諭す姉のように……といっても実際には途轍もない日々の先を生きているのだろうが、そこは彼女に明かしたとしてもわかってもらえないし、それを明かす必要はないだろう。少女のほうを向き、にかりと笑う。


「そうなんだ、ヒルネかぁ。私もやってみようかなぁ」


 そう言って少女は私のすぐ横で寝転がる。彼女の背中により草の茎が潰されることにより放たれる、どこか安らぐその香りを鼻腔に吸い込みながら、私たちはどこまでも続いていきそうな空を見上げた。


「これがヒルネ?」


「そうだよ、このままのんびりとしてるんだ。このまま目を閉じて、夜みたいに寝ちゃってもいいんだ」


 少女の声に、視線を移すことなく応える。この空の果てには、いったい何があるのだろうか。壮大なことを考え始めてしまった私に向かって聞こえてきた少女の声は、なんとも締まりのないものだった。


「ふぅん、変なの」


 気が遠くなるほど歩いて歩いて歩いて歩いてきたつもりだったが、ここまで価値観が違うところに来るとは思ってもいなかった。不思議な気持ちになりながら目を閉じようとしたが、少女のじりじりとした視線が気になってしまう。いつしか眠気が空の向こうに行ってしまったので、観念したように彼女のほうへ顔を向ける。


「綺麗な髪ね、暗くなる前のお空の色みたい」


 上体を起こしながら静かに呟かれた少女の言葉に驚く。同胞は自分たちと異なる存在に恐怖し、可能であれば排除しようとする生き物だ。言ってしまえば私が少女に対して『昼寝の良さを知らないとは』と思うのと同じことで、そういった小さな違和感を抱いた者、つまりは同じ価値観をもった者たちで集団を作り上げる。同じ価値観を持っているということは、異なるものを排斥するということだ。長い時を生きていることを隠しても、私の赤い髪の毛は他から忌避される最大の原因だったからだ。


「そんなこと言われたの、初めてだなぁ」


 嬉しさを隠すことが出来ない。口角が自然と上がっていく。彼女のたった一言で、舞い上がってしまう自分がいた。何日生きてきたかわからないが、私の髪の毛を褒めてくれたのは彼女が初めてかもしれない。そんな少女のことを、もう少し知りたくなった。


「……キミ、名前は?」


「カレト。クディアのカレト」


 聞いたことのない言葉に「クディア?」と返す。彼女—―カレトの指さす先に目を凝らすと、確かに小さな集落があった。


「そこの、集落のこと。私、そこに住んでるの」


 ゆっくりと立ち上がるカレトに追従するように、私も立ち上がる。爽やかな風が、私たちの間を通り過ぎていく。風がやってきた方角に背を向けて、カレトは私へと視線を向ける。


「あなたは? どこから来たの?」


「私はエドナ。遠く、ずっと遠くから来たのさ」


 何処から来たのかも、これから何処に行くのかもわからない。だから私は、名前の通り歩き続けて、ここまで来たのだ。


「エドナ、エドナっていうのね。遠くから来たなら、クディアも見ていってよ、何も無いけど、いいところだよ」


 カレトは私の手を掴み、歩き出す。布からはみ出した彼女の手は異様に細く、私を引っ張る力などほぼ感じることはなかった。

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