第八章 ジザグ

振り回されて

 歩いていく。


 歩いていく。


 太陽と二つの月は、何度も何度も私のことを見下ろしていく。ぐるぐると回るのは、私がいるこの大地なのか、それとも空の星たちなのか。それはまだ、わからない。


 今、私がいるのは山の中の中腹あたりだろうか。細い獣道を転ばないように歩いていく。足を踏み外して転んでしまったならば、急斜面を転がり落ちる羽目になる。幸いにして木々が生い茂っているので、もし足を踏み外したとしても、途中で木の幹にぶつかって止まるだろう。当然、非常に痛いのでそんな目に遭わないに越したことはないのだが。


 この時代は、街の外側には安全というものが存在しない。今歩いているこの山道だけではなく、自分の歩いている方向がわからなくなる広大な荒野や自分の位置すら判断が出来なくなる深々とした森林、生命の営みすら阻む干ばつした土地。そこで飢えている獣、縄張りを侵されたと怒る獣、生きるために立ち向かう獣もいる。普通のヒトであるならば、すぐに命を落としかねない旅路だ。


 そして――


「おうおうおうおう姉ちゃんよォ、こーんなところを一人で歩いてゴクローだなぁ」


 山賊と呼ばれる類の面々だ。目の前にいる筋骨隆々の大男が、下卑た笑みを浮かべている。この地域は標高が高く、気温が低いというのに彼の上半身は素肌の上にゴーギの革を羽織っているだけの見るからに寒そうな格好だ。実際、彼の肌は身体は寒さに震えていたし、笑みを浮かべる分厚い唇は若干紫がかっているような気がした。


「だけどな、これからもーっと苦労してもらうぜぇ、ブ、ブヘヘ、ブヘヘヘヘ」


 それでも野太い声は途切れない。身体は震えても声だけは凄みがある。ある意味で均衡がとれていない様子は、なんだか調子が狂う。


 それでも身の安全を守るのが最優先だ。彼らは専ら食糧を求めているのが一般的ではあるが、一部の山賊は人を攫って売り飛ばすと聞いた。彼がそうである可能性が捨てきれない以上、どうにか対処しなければならない。


 殺すつもりはないが、自分の身を守る為にお互いに『痛い』思いをするしかない。過去に何人もヒトの命を奪っておきながら、私のツルギを腕前というものは素人と同じぐらいかそれより少しマシな程度だ。何回も何回も斬られて、突かれて、抉られて、殴られて、潰されて。『死なない』という身体の特徴を使って強引に刃を突き刺していただけでしかなかったのだから。


 覚悟を決めて腰のツルギをゆっくりと鞘から抜く。肉を断ち切り命を奪う刃がない、木製の鈍器でしかないが、何故か賊の男は大いにたじろいだ。


「お、おい。やるってのか。この煽ち風のジザグ様と!?」

「……逃げさせてはくれなさそうだし、ね」


 逃げ道を阻むように、後ろから部下と思われる男がぬらり、と現れる。小さなナイフのようなものを逆手に構えていた彼は、とりあえず道を塞いでいるとでも言いたげで、実にやる気が感じられない。まるで寝ているだけの年老いた犬のようだ。


 やる気がないのならば正面だけに気をつければいい。そう判断し、ツルギを前に突き出しながら、半身で構える。ここからは我慢比べになる。そう思っていたが――


「じょじょじょじょ上等じゃねぇか! やっちまうぞ!」


 ジザグは薪割りにも使えそうにもない小さな鉈をよたよたと取り出す。腰の曲がった老婆が長く重い槍を振り回すようで、どうしようもなく心配になる。


「お、おら! どうだ! ビビったか!?」


 鉈を持った右手を突き出して凄んでいるが、額からは脂汗がだらだらと流れ続けている。声は上磨り、いかにも余裕というものが感じられない。


 今まで私にツルギや槍を向けてきた者たちに比べて、このジザグという男はどうしようもなく弱々しい。筋骨隆々な体つきが幻想のようだ。見てくれだけの筋肉なんて、存在することすら知らなかった。


 長い長い日々を生き続けても、知らないことがたくさんある。だけど、こんな場所で、こんな状況でこんなことを知ることになるとは思ってもいなかった。


「悪いことは言わないから、とりあえずソレをしまった方がいいと思うよ……?」


 完全な親切心だった。このままでは何もしなくても怪我をしそうだし、その手に持った鉈が私の身体に当たることの想像が出来なかったからだ。


「ふふふふふふふざけんじゃねぇぞ! オレ、オレ様をバカにしてンのか!?」


 だが、ジザグには親切心は通じなかったようだ。唇を紫色にしたまま顔を真っ赤にして怒りの形相を浮かべながら、私に向かってよたよたと走り出す。


「う、うわわわわわわ――!」


 案の定、木の根に躓き体勢を崩しながら私に向かって振るわれた鉈は、掠りもしないどころかあらぬ方向の空気だけを切り付ける。


「な、なかなか、なかなかやるじゃねぇか! オレ様の一撃を躱すとは……!」


 勝手に外しただけなのに何を言っているのだろう。ただただ困惑するが、ジザグは止まらない。止まってくれない。


「もう許さねぇからなぁ……! このジザグ様の必殺の一撃、受けて、みやがれェ!」


 何度も何度も私に向かって鉈を振るうジザク。一撃じゃないのか? 一歩も動いていないのに的確に外し続ける。ここまで来たら逆に関心すらしてきた。


「出た! 兄貴の必殺技、破山獣撃だ!!」


 後ろの方から叫び声がする。それにしても凄い名前だ。完全に名前負けしている。もしかして逆に避けたら当たるとかそういうものなのだろうか。


 全身から汗を滝のように流し、鼻水や涎すら撒き散らしながらも自棄っぱちのように何もない虚空を何度も何度も鉈で斬りつけるジザグであったが、どちらかというと鉈に振り回されている。私が何もするまでもなく、体力が尽きるのは時間の問題だ。


「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……逃げて、逃げてばっかりか……か、かかって、かかってきやがれ、ってん、だ……!」


「えぇ……?」


 まさか勝手に疲れ果てて、逃げ回っていたことにするとは思ってもいなかった。もしかしてこの男は、ただの間抜けなのだろうか。関心を通り越し、よく今まで生きてこれたなと恐怖を感じた。


 このまま疲れ果てて諦めるまで立っているのも悪くはないかもしれないが、もうすぐ太陽が沈む。こちらとしては早くこの山から降りたいのが本音だ。夜になればこんな男なんかより遥かに恐ろしい獣たちがこちらに牙を剥いてくるのだ。


 疲れ果てたのか腕も上がらなくなっていたジザグの頭をツルギで優しく小突く。


「オウフ」


 コツンという気の抜けた音の一瞬の後、間抜けな声と共にそのまま崩れ落ちた。


「兄者ーーッ!!」


 山道に足を取られながらのたのたと走ってくる部下にはツルギを使う気すら無かった。当然油断する気は更々無いのだが、あんな男の部下にバラナシオの時代から大事に使っているツルギを使うのは勿体ない。ただそれだけだ。


 技術も何もない、変哲もない平手打ちだった。それでも部下の男は避けることは叶わない。子気味のいい音が山の中に響きわたる。


「オウフ」


 男は一拍置いて、兄貴分と全く同じ声を出して倒れる。力を入れてはいないし、実際手のひらに伝わる衝撃からして、撫でるような一撃だった。


 あっという間に山に静寂が取り戻される。なんだこの山賊……というかこの二人は。途中から可哀想だと哀れんでしまうほどに、二人の男は弱かった。弱すぎた。


「つ、強ェな姐ちゃん――名前は……?」


 まるでカエルの死体のようにうつ伏せで倒れているジザグから声がする。倒れたからといって、意識を手放した訳ではなさそうだった。流石にあの程度で意識を失ってしまったならば、生きるのに不自由する程だろう。


「……エドナ」

「エドナか……惚れたぜ」


 何故そうなる、としか思えない。彼の口から出てきた言葉は信じられない、信じたくないものだったので、全力で聞かなかった事にした。

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