第四章 ナーリア
仙女様と呼ばれて
親しかった人の眼から輝きが消える瞬間や、優しかった人が深く息を吐きながら命を吐き出すような光景など、出来る限り見たくない。それが刃によるものならば、尚更だ。
住む人々の生活形式が変われば、血を見ることが少なくなるかもしれないと西に進んだのだが、現実はあまりにも非情だった。コメがムギに変わっただけで、何も変わりはしなかった。何度涙を流したか、何度叫び声を上げたか、数え切れないほどの命が私の隣を通り過ぎていく。大地に茂る草木が、段々と血を吸い込んでいるようにすら感じていた。
この大地で暮らす全ての人々のことは嫌いになれない。だからこそ、争いあうところを見たくなかった。逃げるように山の奥の奥へと進んでいた私は、小さな家を建てた。見様見真似ではあったが、今まで歩いてきた様々な文化――そのなかで簡単で強度がそれなりにある建築手法を織り交ぜて、なんとか形にすることが出来た。幸いにして、時間だけは余るほどに存在していた。
時折山を降りて、近くの人里に木の実や果実、そして暇を持て余して作成した加工品を持ち込む。それらを他のものと交換する。最低限でも、人と関わっていたければ、私が私でいられなくなるような気がした。今までと比べて比較にならないような短い距離でも、歩き続けなければならないような気がしたのだ。
人里……ロンザオの村はそれなりに争いに巻き込まれた時もあったらしいが、ここ数年ほどは平穏な日々が続いているようであった。ロンザオの人々は蓄えはそこまで多くはなかったが、争いを好まない温厚な性格をしたものが多く、質素で慎ましい生活を続けていた。
聞いたところによれば、曽祖父ほどの代に欲を出して他の村に戦いを挑んだところ、手酷く返り討ちにあったらしい。逃げた先に辿り着いたこの場所は山々の麓だというのに、そこまで肥沃な土地でもないためにそれ以上狙われることもなかったようだ。今の私にとっては、長閑であるが寂れてもいるここはたまに来る分には居心地のいい村だった。
ムギを中心とした農業も、村の民がそれなりに食べていける規模のものだ。銅が僅かに取れるが、あくまで自衛のための武器を作ったり、小さな祭具に使われる程度。山に囲まれている為かロンザオの人々は娯楽に飢えていた。
「息が出来なくてのたうち回っている爺さんの背中を思いっきり叩いてみたら口から出てきたのはとんでもなく大きなイモの塊! ただの欲張りの爺さんだったってワケさ!」
私の話を聞いて老若男女のあらゆる笑い声がロンザオに響いていく。彼らの笑顔を見ている時だけ、悲しいことや辛いことが頭の片隅に追いやられていった。
最初のほうは思い出話を静かに語っていたが、話しているうちに道が外れていく。それ自体はよくある話だ。だが長い年月の中で関わった人の話や遠くの村の風習や文化、食材の調理方法など生活に関わる内容よりも、道を外れたところにあった面白おかしい事件や話題といった、間抜けな話の方が余程食い付きがよかったのだ。
昔のヒトたちは生きるために精一杯だった。明日の心配もできず、今日という一日を必死で生き抜くことだけを考えていた。農耕という文化により放浪する生活から定住する生活に切り替わり、今日以上に明日の先をどう生きるかという考えが芽生えていく。だから、より良い場所に住む為に。より多くの民を食べさせる為に。仲間を殺されたから。大義名分は数々あったが、人が人を殺すことだけは変わらなかった。
たくさんの距離を歩いてきたのに、知らないことばかりだった。ニハバルとミティスのように争いあう村と村はどこにでもあった。規模が大きくなればなるほど、流れる血の量は増えていく。武器を手に取る男だけではない。女は乱雑に犯されたのちに殺され、子どもは戯れに蹴り殺される。そして日月が経てば経つほど、過激化していき、更には頻度が増えていった。それこそ争いのない、戦いのない場所など存在しないのではないかと思えるほどに。
「さてと、いい時間になったことだし、そろそろ帰るよ」
「帰るって、あの山にか?」
「そうだけど?」
話を聞いていた若い男が心配そうな声を出す。気づけばあたりは薄暗くなってきて、山の向こうから微かに月たちが顔を出そうとしていた。相も変わらずふたつの月は、全く同じ満ち欠けをしながら、飽きることなくひたすらに私たちを見下ろしている。銀の光はまだ弱々しいが、夜が深くなるにつれその光は強くなっていく。それでも足元を照らすには弱いものなので、出来るだけ早く家へと帰らなければならなかった。
「あの、あの山は野盗とか、いるんじゃないのか? ア、アイツらは人を攫うらしいんだが」
彼の心配はそこのようだ。初耳だと返すと大層慌てた様子で両手をバタバタと振り回しながら騒ぐ。その光景がなんだか可笑しくて、自然と口角が上がる。
「せいぜい気をつける、よ」
男の善意は嬉しいが、交換したものの中にあったカウカウの肉を加工したかった。私の好物であるカウカウも、すっかり数が減ってきた。狩りをするものも減ってきた為、より一層口にする機会が減ってしまっていた。カウカウに似た、一回り小さな水牛は身近な存在になってはいるが、農耕において欠かせない相手であるため、なかなかその肉にありつくことも出来ない。久しぶりに手に入れることが出来た大好物を、一人で保存できるように加工しながらゆっくりと味わいたかったのだ。
逸る気持ちを抑えながら、手を振りながら村を出る。自宅のある山まではそう距離はない。何回も何回も歩いている道であったが、男の言う夜盗は会ったことはない。軽い足取りでも、すぐに辿り着くことが出来る筈だ。
高揚した気分のまま、早足で山を登る。石と木と粘土で作られた我が家まであと少しのところで気付いたのだが、大地に敷かれた木の葉を踏む音は私一人分のものだが、後ろからも聞こえているような気がした。カウカウのせいで油断していたのか。腰に提げていた短剣を抜き、一気に振り返る。
「ぷぇっ」
急に振り向いた私に驚いたのか、しゃがみ込む人影があった。よく見ると、それは黒い髪を伸ばした少女の形をしていた。そういえばロンザオで見たことがある。いつも隅で私の話を聞いている娘。確か名前はナーリアだった筈だ。何故彼女が私の後を付いてきたのかわからなかったが、なにか話があるのかもしれない。
「どうしたんだい、こんなところで。勝手に村を出たら駄目なんじゃないかい?」
短剣を鞘に戻し、安心させるように微笑いかける。ナーリアは少しだけ躊躇うような素振りを見せた後、じっと私を見つめる。見上げている琥珀色の大きな瞳は私の顔を写していた。真っ直ぐに向けられる視線をそのままに、ナーリアは思い切ったように息を吸い込んだ。
「貴女、仙女様なんでしょ?」
「……へ?」
吐き出された予想とは全く違う言葉に対して、素っ頓狂な声で返すことしかできなかった。
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