第31話 できること
どう収拾をつけるか迷っていると、岬先生が、ふと一冊の本を指でなぞる。どうやらピカソ関連の書籍のようだが……?
「……ピカソは誰でも知っている偉大な画家だけれど、現代の日本人感覚で言うと女性にだらしないところがあってね。当たり前のように愛人を持っていたの」
「そう、ですか……?」
困惑気味に応える神坂さんに、岬先生が続ける。
「『ゲルニカ』って、教科書でも見たことがあるでしょ? 反戦のシンボルのように語られている、あれ。まぁ、絵の内容については今はどうでもいいのだけど、ピカソがあの絵を描いている最中、彼の二人の愛人が制作現場にやってきて、ピカソを巡って争ったんだってね」
「ふ、二人の愛人ですか……?」
「そ。奥さんがいて、さらに愛人も二人いた。ドラ・マールとマリー・テレーズ。タイプの違う二人で、ピカソは二人のことを別々の理由で好きだったそうよ」
「へぇ……そ、それで?」
「普通、愛人二人が目の前で争っていたら、男性としてはもうとても落ち着いていられないじゃない? しかも、その愛人たちから、二人のうちどちらかを選べ、的なことを言われたら、それはもういたたまれないでしょうね」
「……でしょうね」
「でも、やっぱりピカソって変わってる。そのとき、現代人からするとかなり常軌を逸した言葉を発してるの。神坂さん、彼はなんて言ったと思う?」
「ええ……? 普通なら、ごめんなさい、とか、どっちも好きだから選べない、とか? もしくは、仕方なくどちらかを選ぶか……。そういうのではないんですか?」
「違うわね。ピカソは、こんなことを言ったそうよ」
岬先生は一呼吸置き、神坂さんに向けて愛を囁くように告げる。
「『君たちで争って決めたらいい』……ってね。どう? しびれるでしょ? 私としては、ピカソにまつわるお話の中でトップクラスのお気に入りよ?」
ふふ、とたおやかに微笑む姿があまりにも艶っぽい。背筋がゾクリとするのに何故か妙に引きつけられてしまう。
「そ、そうですか……。天才って、本当に常識では考えられないことを言い出すんですね……」
『こわー! なに!? 完璧に宣戦布告されたんだけど!? 藤崎君が欲しければ、自分たちで勝手に争いましょう、ってこと!? ま、負けないけど! 負けないけど!? でも、こんな魔女みたいな笑みを見せる人と戦えるの!?』
「ちなみに、だけど。……ピカソの愛人の中には、自殺してしまった人もいるんだって、ね?」
「ははは……そう、なんですか……」
『え? え? なに? 岬先生、わたしをそこまで追いつめるつもりがあるってこと? いやいや、仮にも先生なんだし、まさかそんなことまではしないよね? 恋敵としてぶつかることはあるかもしれないけど、ちゃんと限度はわきまえてるよね!?』
『まぁ、別に愛人同士の争いの果てに自殺したっていうことでもなかったはずだけど。私だって流石に神坂さんに死なれたら後味悪いし。こんなのはちょっとした脅しよ。ただ、私から藤崎君を奪うつもりでいるなら、何をされても仕方ないくらいの気持ちでいてほしいわね』
岬先生の心の声に、俺は多少安堵する。いくらなんでも死人を出すのはやりすぎだ。俺だってそんな恋愛に関わりたくない。原因を作った女性を愛するなんてこともできない。
心の声が聞こえる俺と違い、神坂さんはひきつった笑みを浮かべて冷や汗を流している。このまま引き下がってくれたら……なんて傍観者でいたら、それこそ俺も『二人で争って決めればいい』状態である。いったい何様だ。そんな発言は、世界に通用する天才だからこそ許容されるのである。
俺が、どうにか場を和ませないといけない。でも、どうやって? 俺はただの高校生で、女性の扱い方なんてろくにわからなくて、気の利いた言葉なんて言える気がしない。
でも……なんだかんだ、俺はこの二人、あるいは三人? の争いの中心にいるはずなのだ。だったら、俺にだってできることはあるはず……。
あまり思考はまとまらない。しかし、もう何でもいいから言うべきだ! いつまでもぐだぐだしてないで、ここは動け!
「み、岬さんっ」
「……へ? み、岬……さん?」
「もっと早く言うべきだったんですけど、今日は一段と綺麗ですね! 普段は見られない、ゆるく編み込んだ髪とか、フェミニンな服装とか、いい香りのする香水とか! すごく素敵だと思います! めちゃくちゃ可愛くて綺麗だと思います! 普段からそんな格好の岬さんを見ていたいですけど、やっぱり普段しないからこその特別感もいいかなって思います! 元々綺麗な人だって思ってましたけど、綺麗になる努力をしてそれに磨きをかける岬さんは本当に素晴らしいです! こんな素晴らしい女性が世の中にいるんだって、世界中に知らしめてやりたいです! ああ、でも、やっぱり俺だけが知ってる岬さんであってほしい気もしてしまうので、やっぱりあまり目立たないでほしいかもしれません! 突然めちゃくちゃなことを言ってしまいますが、俺だけの岬さんでいてほしいってすごく思ってます!」
何をどうすれば荒ぶる岬先生を鎮められるのかはわからない。だが、紗季の事例を参考にすると、とりあえず褒めると悪い気分も吹き飛ぶらしい。
東先輩くらいの好感度であれば、突然ベタ褒めされたところできょとんとするだけかもしれない。しかし、岬先生は特別なのだ。
今現在の好感度「85」は、きっと、文脈を無視して褒めても精神に大きく影響を与えられる数字のはず。ついでに、「岬先生」じゃなく、「岬さん」と呼び方も改めた。その方が特別感が出て、余計に動揺を誘えるに違いない。きっと! そうであってくれ!
女性を褒められていない俺は、今の発言で既に顔を赤くしてしまっている。だが……俺よりも、どうやら岬先生の方が紅潮度は高い。
『え? え? ええ!? いきなりなに!? き、急にそんなに褒めてくるなんて反則じゃない!? どんな心境で言ったのか知らないけど、藤崎君に褒められたら嬉しくなっちゃうじゃないの! ああ、もう、やだ、私の方が年上なのに、顔が熱くなってきた! 絶対顔赤い! 神坂さんもいるのに恥ずかしいじゃない! そういうのは二人きりのときに言ってくれないと困るんだけど!? 顔だけじゃなくて体まで熱くなってきた! 初恋中の乙女かっての! バカじゃないの!? もー! 普段は全然私に興味持ってくれない風なのに、ギャップで私を悶え死にさせようってこと!? 藤崎君のくせに生意気なんだけどー!』
「……あ、ありがとう、藤崎君。デートのときは、女性を褒めるって大事よ? これからも、その調子で頑張ってね?」
岬先生は、顔を右手で軽く隠しながら目を逸らす。口調は若干動揺している程度を装っているが、心の声が聞こえる俺には無駄な努力だ。ベタ褒め作戦はめちゃくちゃ効いていて……そして、恥じらう岬先生はたまらなく可愛らしかった。
「わかりました……。岬さん、とても綺麗です」
「い、今言わなくてもいいから! ちょ、ちょ、ちょっと黙ってて!」
『褒めてほしいけどこれ以上褒められたら表情が完璧に崩れる! 絶対だらしなくにやける! 藤崎君の前でそんなカッコ悪いことできない! 気合いを入れ直すのよ、私の表情筋! 藤崎君とベッドインするまでの辛抱!』
岬先生がしばし無言で呼吸を整える。ひとまず、神坂さんに対する殺気は消えた。作戦成功だ。
『岬先生、本当に藤崎君のこと好きなんだな……。褒められただけあんなに顔を真っ赤にしちゃって……。ついさっきまで怖かったけど、ただの乙女じゃん、って拍子抜けかも……。岬先生は、やっぱり怖い人ではないんだよね……。ただ、藤崎君のことを好きすぎるだけ。誰かを平気で傷つける酷い人ではない……。
っていうか、藤崎君、そんなに岬先生のことが好きだったわけ? 誰かをあんなにベタ褒めするところ、初めて見たんだけど? わたしには何も言ってくれたことなくない? どういうこと? わたしには全く興味を持ってくれてないわけ? 恋人に対して言うようなことは言わないとしても、今日はいつもより可愛いね、くらい言ってくれてもよくない?』
岬先生が落ち着いたと思ったら、今度は神坂さんからの不機嫌そうな視線が俺を射抜く。……はは、複数の女性に好かれるって大変だなぁ。ピカソ先生、ちょっとこういうときの上手い立ち振る舞い、教えてくれませんか? ああ、もちろん、『二人で争って決めればいい』的なのはなしでお願いします……。
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