第43話 浴衣

 俺が促して立ち上がると、紗季は嬉しそうについてくる。


「本当にもういいの?」

「うん。……もう、いいんだ」

「そっか。わかった」


『もういいって言う割には……ちょっと寂しそうな顔してる。吹っ切れたけど、吹っ切れたことが悲しいのかな……? お兄ちゃんは優しいからなぁ……。あたしだったら、お兄ちゃんのこと以外は全部簡単に切り捨てられちゃうのに……。お兄ちゃんもあたしのことだけ考えてくれればいいけど、こういう優しいところも嫌いじゃないからなぁ……』


 歩きながら紗季も色々と考えていたが、気持ちを切り替えるように言う。


「ねぇ、あたし、行ってみたいところがあるんだけどいいかな?」

「ああ、いいぞ。どこ行くんだ?」

「ふっふー? 秘密」


『あえて隠すほどのことじゃないんだけどね。浴衣を見たいだけだし。

 水着を一緒に選ぶとかも悪くないけど、そういうのは岬先生がやってそう……。

 あたしはもう少し奥ゆかしい雰囲気で攻めてみるっ。過激にやりすぎて途中で引いちゃうのもみっともないし!』


 岬先生のときもそうだったが、せっかくの秘密が台無し……。気持ちがわかりすぎるのも問題だな。そして、紗季も自分がいざというときに怖じ気づいてしまう性格を理解したようだな。

 ともあれ、ネタバレに申し訳ない気持ちになりながら、紗季について行く。そして、三階の端っこに浴衣屋『美涼みすず』のスペースがあった。


「へぇ、浴衣が見たかったのか?」

「うん。せっかく高校生になったし、新しいのを買おうかなって。できれば、三千円の格安セットとかじゃなくて、長く着られるしっかりしたやつがいいな」

「なるほど。ちなみに、浴衣っていくらくらいするんだ?」

「ものによるけど、あたしは三万円くらいを想定してるよ」

「そ、そんなにするんだ……」


 浴衣なんて、量販店の安いものしか知らない。高級なものもあることは認識していたが、思ったより高かった。高くても一万円は超えないだろうと思っていたが、ちゃんとした服って高いんだな……。


「いいものはそれなりの値段するよ。あ、別にお兄ちゃんにおねだりとか考えてないから安心して」

「それを聞いて安心した」

「あはは。お兄ちゃんの懐事情くらいわかってるって。ま、年に何度も着ないのに三万円も出すのは気が引けるけど、あたしが高校生でいられるのって、たったの三年間なんだよ。その三年間、できる限りキラキラ輝いたものにしたいじゃない?」

「そっかぁ……」


 神坂さんも似たようなことを言っていた。男と違い、女の子は「今」に対する特別感が強いようだ。俺にはいまいちピンと来ない話かも。


「あんまりわかってないって顔してるー。女の子の十代っていうのは、本当に貴重なの。おしゃれは二十代、三十代、それ以降でももちろんできるんだけど、やっぱり『その年齢でその格好は合わない』ってのはあるでしょ? 際どいミニスカートとか、可愛い可愛いしたふわふわのパーカーとか、奇抜なコスプレとかは、十代の特権だったりするの」

「なるほど」

「いかにも十代のキャピキャピファッションに投資してもいいけど、高校生でしっかりした浴衣持ってるっていうのも捨てがたいの。大人っぽい感じがいいじゃない」


『ちょっとはお兄ちゃんの好みにも合わせてるつもりなんだけどな。女の子が好む女の子ファッションって、男の子にはあんまりウケがよくないって言うし。お兄ちゃんに気に入ってもらえなかったら、どれだけ可愛い格好してても意味ない』


「……そうかぁ。女の子は、今を生きるのに一生懸命なんだな」

「そうだよ。だからね、将来のためにお金を取っておくとかはまだそんなに考えないの。大人になって必要はお金は、大人になってから稼げばいい。

 だいたい、大人になって稼ぎ始めたら、逆にお金余るって言うもんね。お金はあるけど使う時間がないとかさ。だったら、今あるお金は、今を楽しむために使っちゃうの!」


 自分を奮い立たせる紗季。あえて意気込むのは、どこかに割と大きなお金を使うことへのためらいがあるからかもしれない。


「ま、あたしもまだ本当に買うかどうかは決めてないんだけどね。安い浴衣を何着か買って、気分によって使い分けるのもいいと思う。毎年違う浴衣を着るとかも新鮮でいいよね」

「うん。とにかく見てみよう。いつもみたいに、見て回って結局何も買わなかったとかでも別にいいしさ」

「あ、お兄ちゃん、女の子をそこはかとなくバカにしたでしょ。女の子は無駄が多いなぁ、とか。女の子にとっては、ショッピングでお店を回ること自体がエンターテイメントなの。ショッピングモールは遊園地と同じっ」

「わかってるってー」

「わかってないって顔してるしー」


 紗季は不満そうだが、こんなやり取りは日常茶飯事。長年の付き合いで、男と女は違うのだということを、俺も紗季も理解している。

 俺は、紗季と同じ感覚でショッピングを楽しむことはできない。でも、そんなことをいちいち悩む必要はなくて、一緒に楽しめるものを楽しめばいい。

 まぁ、紗季が色んなものを見て回り、目を輝かせるのを見ているのは、それはそれで楽しいのだけれど。

 紗季が先を行き、陳列された浴衣を眺めていく。安いものから高価なものまで様々。なるほど、安いものと高価なもので、確かに柄の雰囲気はちょっと違っている。

 安いものは、なんとなく良い感じに花をちりばめたり、なんとなく明るめの色の生地を使ってみたりした、という感じ。ぱっと見は華やかだが、少し浅い感じがある。時間をかけずにささっと作った印象。

 高価なものは、柄に奥深さがあると思う。花を描くにしても、一つ一つに濃淡があって味わい深い。また、コントラストが鮮やかで、補色を意識しているなどもうかがえる。全面に均等に柄を乗せるのではなく、花の大きさを変えたり、余白を上手く使って強弱をつけているのが面白い。デザイナーの思い入れが感じられた。

 安いものは明るくポップな雰囲気。高級なものはどこか滋味を感じさせる。そんな違いだろうか。


「……浴衣って、全部同じじゃないんだな」

「お兄ちゃんがアーティストの目になってる……。お兄ちゃん、柄とかも結構好きだよね」


『ふっふっふ。あたしのための買い物だけど、お兄ちゃんはやっぱりこういう柄を眺めるのも好き。イラスト描いてるから、そういうのに興味あるんだよね。あたしも楽しいし、お兄ちゃんも楽しい。うんうん、デートとしては良い感じじゃない?』


 紗季が、俺のことも考えてここに連れてきたというのは少し驚き。紗季とのショッピングは、概ね紗季の好きなところを回る感じだった。もしかしたら、今までも案外俺も一緒に楽しめそうなところを回ってくれていたのかもしれない。


「どれが似合うかな?」

「んー……そうだな。紗季には、青い小花柄とかいい気がする……。ストライプ柄の生地もいいんじゃないか……」

「お兄ちゃん、相変わらすこういうレトロアレンジみたいなの好きだよねー」

「あ、あれ? そうだったかな?」

「うん。お兄ちゃん、前からこういうの好き。生まれる時代間違えたのかもね」

「うーん、そんなに昔に生まれたかったとは思わないけどなー」


 レトロな雰囲気は好きだが、本当にレトロな時代を生きたいと思っているわけではない。昔は今ほど多様ではなかったろうし、様々な分野で制限が多かったことと思う。自分の好きなように、やりたいことをやればいいなんて思えなかったはず。お気楽にイラストなんて描いてはいられなかったかもしれない。


「まぁ、あたしも、お兄ちゃんが今の時代に生まれてきてくれて良かったと思ってるけどさ」


『お兄ちゃんが別の時代に生まれてきていたら……あたしはお兄ちゃんと出会えなかった。そんなのは絶対嫌っ』


「……紗季がここにいることも、俺がこの時代に生まれてきて良かったと思う理由の一つだよ」


 紗季の顔が一気に赤くなる。そんなに深い言葉でもないはずなのに、紗季にとっては一大事らしい。


『そそそ、それってつまり、やっぱりあたしのことが一番好きってことなんだよね? あんなひょっこり女たちより、あたしの方がいいってことだよね? もう、早く結婚しようよ! そして、誰もあたしたちのことなんて知らない土地に言って、ずっと一緒に二人で暮らそうよ!』


 うぅ……と唸る紗季。発想の飛躍がすごい。


「えっと、とにかく浴衣選びを続けよう。試着もさせてくれるみたいだし、着てみたら?」

「うん……。着てみる」


 紗季が似合いそうなものに見当をつける。それから店員の女性を呼び、試着したい旨を伝えた。紗季は試着室に案内されるが、その間もチラチラと熱っぽい視線を向けてくるのが非常に可愛らしかった。

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