第8話 オトナ
別の部活に入っている紗季とは途中で別れ、俺は漫画部の部室前に到着。
『あーあ、早く藤崎君来ないかなぁ。藤崎君の顔を見るだけで、今日も生きてきたかいがあったってものよね。でも、こうして好きな人を待つ時間も素敵。胸がじりじりする感覚、気持ちいいっ』
岬先生の声が、扉越しにも聞こえる。女性に求めてるもらえるのは嬉しいが、素直に喜んで良いものか。相手は先生だぞ? 表沙汰になったら、俺はともかく先生が大変なことになるぞ? 仕事もクビになるだろうし……。
岬先生と付き合うわけにはいかないよな……。大人の女性は魅力的ではあるが……。
葛藤しつつ、部室の扉を開く。すると、岬先生の表情がパッと華やいで、素敵な笑顔を見せてくれた。なお、部室には岬先生しかいないので、今は二人きりだ。
「あ、藤崎君。おそーい」
「遅いって……。ホームルーム終わってからすぐに来ましたよ」
「授業なんて途中で抜けてきなよ」
「それはダメでしょ。先生が何言ってるんですか」
「先生だからわかる。今時は学校の授業を真面目に受けるより、教育系の動画見てる方が勉強になるって」
「先生がそれを言っちゃダメでしょ」
「あはは。授業中には言わないけどさ。でも、もはや日本の教育体制が時代遅れになってるのは確かだよ。藤崎君だってわかるでしょ?」
「まぁ、それは……少し思いますけど」
岬先生の対面に座る。すると、岬先生がわざわざ俺の隣の席に移動してきた。
『なーにを離れて座ろうとしてるのかな? 逃がさないよ?』
そんな言葉はもちろん声には出していないのだが、岬先生は何食わぬ顔で話を続ける。
「今の学校教育ってのはね、時代遅れの人たちが取り仕切って、時代遅れの教育を続けさせてるの。本当にいい授業を目にしたら、学校はもうダメだな、ってわかる。
真面目に学校に通うのも悪いことじゃない。でもね、学校に真面目に通ってるから自分の将来は安泰だ、なんて勘違いしちゃダメ。先生は、そりゃそういう生徒の方が都合いいから、よしよししてくれるよ? だけど、生真面目なだけの人は、大人になったらつまずいちゃうの。学校で習ったことは社会人になったらほとんどが無価値だし、言われた通りやってればいいのは学生のうちだけだからね。
自分にとって必要な学びがなんなのかは、自分でよく考えないと将来立ち行かなくなっちゃうよ。
高校のときに一日二日学校をサボったって、大人になったら汚点でもなんでもなくて、本当にどうでもいい話。だーれも気にしない。今はさ、同じ高校生がサボってたら、あいつずるいって周りはなるけど、大学生にでもなったらただの笑い話。社会人になってもいい話のネタ。
藤崎君も、学校の先生の言うことなんて適当に聞き流していいからね。あと数年したら、先生って結構バカばっかりだって気づくよ」
「……ためになる話だと思いますけど、本当に、先生が言うことではないですよね」
「あはは。私は教師失格かもねー。でも、これくらいで教師クビとかならないから大丈夫」
『ふふふ。私の話で、藤崎君は私の魅力に惹かれていくはず。勉強を教えるだけじゃないんだなぁ、って。
それに、こうやって少しずつ常識から外れることの意義を伝えていけば、教師と生徒の恋愛も、全部がダメってわけじゃないことも理解してくれるはず。今すぐ付き合うのはハードル高いだろうけど、そういうのも人生の彩りの一つだって気づいてくれたときに、最後の一押しをすればいい。そのときには……めちゃくちゃにしてあげるっ』
心の声が聞こえただけなのに、先生が舌なめずりしているのを幻視してしまう。背筋がゾクゾクと震えて、今すぐにでも先生の思い通りにされてしまいたいという衝動に駆られてしまった。いかん、抑えるんだ、俺。
と、そこで、部室のドアが開いて東先輩が姿を見せる。
「あれ? もう先生がいる。先生、今日は早いですね」
「うん。今日はなんか疲れちゃったから、早めに逃げてきたの」
『ちっ。もう来たか。もっと藤崎君と二人きりでおしゃべりしてたかったんだけどな。ま、仕方ないか。こうして不快感にジリジリするのも、ある意味快感よね』
ちっ、と思っているときにも、岬先生の顔には自然な笑顔。マジでそのギャップ怖いっす。岬先生にめちゃくちゃにされたい願望が少し落ち着いて、この人についていって大丈夫なのかと不安になった。
東先輩が、定位置である窓際の席に腰掛けつつ、岬先生に尋ねる。
「先生、何かあったんですか?」
「んー、生徒に言うことじゃないかもだけど、とある先生からデートに誘われるんだよね。何度も断ってるんだけど、しつこいの」
「とある先生って、金島先生ですか?」
「具体的な名前については内緒」
「まぁ、それならそれでいいですけど。その先生にしつこく誘われて、不快なわけですか」
「デートの誘いだけならまだいいんだけど、誘い文句が嫌いなの。『ぼくと一緒にこれからの教師のあるべき姿について話し合いましょ』だって」
「いいじゃないですか。先生、そういうの好きそうですけど」
「相手によるよー。その先生の理想って、教師が生徒をきちんと導いてあげる、っていうやつなの。押しつけがましいっていうか、独善的っていうか。結局は教師が自分の価値観を生徒に押し付けて、教師が思う立派な人物にしてやろう、って感じ。私はそういうの嫌。
っていうか、そもそも別の件でも根本的に考え方が違うんだよね。私は動画配信とか好きだし、その中には本当に天才だと思う人がいると感じてる。けど、その人は配信者をただの道を外れた愚か者みたいに思ってるんだ。
『将来配信者になりたい? そんなくだらない夢見てないで勉強しなさい!』とかさ。配信で成功するのは学年一位の成績取るより難しいっつーの。
昔々の子供向けの漫画しか知らないおじいちゃんが、漫画は子供が読むものって思ってるのと同じ。今は漫画やアニメの方がドラマよりも格段に面白くて人の心を動かせるのにね」
「やっぱり金島先生じゃないですか。まだ三十半ばくらいなのに、化石みたいな発言繰り返してる」
「あはは。まぁ、あえて名前は伏せるけど、今はテレビより動画配信の方で質の高いものがたくさん作られているんだよ、って教えてあげたいわ。でも、私は関わりたくないから、誰か生徒が教えてあげてよ」
「ワタシは嫌です。たぶん、誰だって嫌ですよ。ああいう人はどうせ人の話なんて聞かないんですから」
「そーそー。生徒には、『ぼくの話を聞けー!』って態度なのに、自分は誰の話も聞かないの」
「その言い方やめてください。ワタシのシェリルが汚れます」
「あはは。このネタがわかる生徒っていいねー。ちなみに、藤崎君もわかるかな?」
「俺もわかりますよ。ランカとシェリルは俺の永遠のアイドルです」
「お、わかるね! やっぱり藤崎君も漫画部の一員だ!」
『同じ話で盛り上がれるって素敵だね! もっとたくさんプライベートで話したいなぁ。裸で』
ぶっ、と思わず吹き出してしまう。裸でって……。転換が急すぎる。
「あれ? 急にどうしたの?」
『私、なんか面白いこと言った? でも、それにしてはタイムラグが……。なんだろう?』
「あ、な、何でもないです。とにかく、俺もランカとシェリルは好きです。どちら派か、というのはここでは触れませんが」
「あえて言及するのもいいけどね? ちなみに私はシェリルだよ。美しさも歌も素晴らしいじゃない」
「ワタシはランカ。頑張ってる女の子は最高」
「ええ……? 二人とも言っちゃうんですか? 既に戦争が始まりそうじゃないですか……」
『藤崎君はシェリル派のはず。大人っぽい女の子の方が好きよね? よね?』
二人の視線が俺に集まる。特に岬先生が何かを期待するように熱心に。
俺は答えに窮して、ああー、ううー、とか呻いてしまう。
「俺は……両方好き、ですよ」
俺のヘタレな回答に、二人が肩を落とす。
「藤崎君は案外ヘタレだね」
東先輩の頭上の数字が、「54」から「53」に下がった。そんなに失望したか。
「よく言えば強欲かなー? どっちも欲しい、ってことでしょ? これは将来浮気するぞー」
岬先生の頭上の数字に変化はない。「84」のままだ。
『まぁ、男の子なら仕方ないけど、藤崎君もハーレム願望はあるのよね……。他の女に目移りしないように、付き合い始めたら存分に搾り取っていかないと』
岬先生、心の声が過激すぎて、ウブな俺には刺激が強すぎます。っていうか、既に付き合うことが確定してません? 展開が早すぎますよ?
「ワタシはそろそろ活動を始めます。お二人はご自由にどうぞ」
「うん。わかった。頑張ってね。じゃあ、藤崎君、先生と内緒の話でもしちゃう?」
「あ、それは大変魅力的ですけど……」
「大丈夫。東さんは空気読める子だから、私たちがどんな話をしてても、何もなかったことにしてくれるよ?」
『あ、赤くなってる。こういう反応がいちいち可愛いんだよなぁ。妹さんはいるみたいだけど、「女」には慣れてないのがいい。初めてが楽しみっ』
「あ、あんまりからかわないでください。俺もイラスト描きますよ」
「そう? なら、隣で見てていい?」
「緊張するから止めてください」
「じゃあ、私も適当に活動しようかな。二人とも頑張ってね」
『イラストを描く藤崎君を描いちゃおっと。部活動の思い出を生徒に残すため、っていう大義名分も使えるし、個人的な楽しみにもなるし、一石二鳥だね』
岬先生も楽しそうにイラストを描き始める。美術の先生よりも絵が上手いし教え方も良い、と囁かれるその実力は、俺の目標でもある。
心の中では色々と問題発言している先生だけれど、それは置いといて、とにかく俺もイラストを描こう。
『あんまり藤崎君のことばっかり考えると濡れちゃうなぁ。なんかムズムズするぅ。家だったら絵を描きながらいじっちゃうけど、ここでは流石に無理よね。ああん、もうこのジリジリした感じも快感っ』
集中できるか! イラスト描きながらナニ考えてんだ!
終始岬先生の心の声に翻弄され、俺は集中力を欠きながらイラストを描き続けるのだった。
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