第55話 それから 3

 二週間ほど経つと、卓磨が新しく別の女の子と付き合い始めた。俺のよく知らない他のクラスの子で、傍から見ると楽しそうではあった。ただ、本心がどうなのかはわからない。奏のことを忘れたのか、まだ引きずっているのか……。

 俺がまだ心の整理をできない段階で、岬先生が言った。


「坂田君が早めに新しい彼女と付き合い始めたのは、冬矢君たちに対するエールの意味もあるんじゃないかな? 自分は自分でやっていくから、冬矢たちもこっちを気にせず幸せにやれよ、って。なかなか粋な男の子じゃないの」


 それが本当だとしたら、卓磨は俺たちにいつまでもウジウジしてほしくないのだと思う。他人より少し距離のある相手のためにそこまでできるのかという疑問もあったが、岬先生の言葉にすがることにした。

 俺も、一旦卓磨のことは脇に置いて、自分たちが楽しく過ごすことを考えていこうと思う。

 なお、俺と奏が付き合い始めたということも周知されていて、奏の心変わりや、俺の強奪について周りに悪い印象を与えることもあった。

 ただ、卓磨が明るく振る舞ってくれていたおかげで、俺たちが何か本当に酷いことをしたとまでは思われなかったらしく、こういうこともあるよね、という認識で流されていた。

 卓磨は……もしかしたら今でも奏のことが好きで、たとえ別れたとしても守りたい気持ちがあったのかもしれない。奏とは噛み合わないこともあったかもしれないけれど、やはり良い奴なのだ。

 そして、五月半ばの金曜日、夜。


「お兄ちゃんが、ようやく元気になろうとしてくれてるのは嬉しいな」


 紗季が俺の部屋にやってきて、隣に座りながら俺の手を握る。最近では日常になったことなのだが、今夜は少し雰囲気が違う。手を握るだけではなく、ピタリと寄り添って、至近距離で俺を見つめてくるのだ。


「……俺もいつまでも落ち込んでられないからな。卓磨が進み始めたなら、俺もさ……。これでいいのかなんてわからないけど、落ち込み続けてるのが良いわけでもないよな。そう信じたい」


 言いながら、俺は少し視線を逸らす。紗季はクスリと妖しく微笑んだ。


『お兄ちゃんも立ち直ってきてることだし……もうそろそろあたしも本気で攻めてもいいってことだよね? 思う存分甘えて、あわよくばそのままエッチに雪崩れ込む……。

 お兄ちゃんはロマンティックな初エッチを求めてるみたいだけど、あたしはそんなの気にしない。これからたっくさんしていく中の、初めてのことってだけだもん。あたしはとにかくお兄ちゃんと早くエッチをしたいの。お兄ちゃん、早くあたしを抱いて! ずっとずっと待ってたの! もう我慢できない!』


「……お兄ちゃん、この二週間くらいは大人しくしてたけど、あたしたち、もう恋人同士なんだよね? お母さんたちだってあえてこっちに来ることもほぼないし、ちょっとイチャイチャするくらい、いいよね?」

「まぁ、そうだな。俺たち、もうそういう関係になったんだし。……お母さんたちにはバレないように、注意してくれよ?」

「当たり前でしょ? バレちゃったら、あたしとお兄ちゃんを引き離しに来るかもしれないし。

 そういう意味では、神坂先輩の存在も、まぁ、ありがたいよね。お兄ちゃんが神坂先輩と付き合ってることになってるから、あたしとお兄ちゃんの関係を疑うこともないはず」


 両親には、俺は奏と付き合い始めたことを伝えている。奏が卓磨と別れ、俺と付き合い始めた経緯も少しの嘘を交えつつ説明した。複雑な関係になってしまったけれど、そこに何か酷い裏切りがあったわけではないとも伝えておいた。

 両親はかなり驚いた様子ではあったが、俺たちの決断を尊重してくれた。高校生の恋愛なのだから出会いと別れの繰り返しはよくあることだし、そうやって人は成長していくものだ、と。また、卓磨についても、この経験を糧にもっと自分にふさわしい相手を見つけるだろう、とも言ってくれた。


「恋愛だけではないが、色んな失敗と挫折を繰り返してそこから立ち直っていくのが人生さ」


 父親がちょっと気恥ずかしげに言っていたが、俺はそれに割と救われた。

 さておき。


「俺と紗季の関係、疑われにくいとは思うが、キスしてるのとかを目撃されたら流石に言い逃れはできないからな」

「大丈夫。あたしだってバカじゃない。お兄ちゃんとの関係は、あの二人以外には絶対に秘密」

「わかってるなら、いいんだけど」


『本当は誰にも秘密、が良かったんだけどな……。でも、そのうち誰かに理解してほしくなるのかも……。あの二人は、一応あたしたちの関係について悪い印象は持ってないみたい。たぶん、ありがたい存在なんだろうな……』


「ねぇ、お兄ちゃん。……いい加減、キスしよ」

「ああ……そうだな」


 色々あって、紗季とのファーストキス……いや、紗季からするとセカンドキス? も後回しになっていた。紗季にしてはよく我慢してくれた方で、そろそろ気持ちに応えないといけない。いや、俺だって……キスしたい気持ちはあるんだ。


「でも、ここでいいのか? 初めてなのに……」


 ギクリ。

 紗季がほんの少し動揺を見せる。


『ま、まぁ、お兄ちゃんにとっては初めてだよね。あたしにとっては二回目だけど……。うんうん。でも、やっぱりこれはあたしにとっても初めてなの。そうなの』


「あたし、お兄ちゃんの部屋、好きだよ? だから、ここでいい。ここが、いい」

「そっか。それなら……」


 紗季が目を閉じる。勝手がよくわからない中で、俺はそっと唇を重ねる。

 俺としては、初めて唇で触れる女の子の感触。思っていたよりもずっと柔らかくて、繊細で、優しくて。

 唇を啄み合うような、控えめなキス。妹相手なのにおかしいのかもしれないが、俺は幸福感に包まれる。

 お互いに不慣れで、ここまでで終わるかと思ったら……紗季が舌を伸ばしてきた。

 可愛らしい紗季の、野性的で生物的な部分と触れあう。気持ちいいのに、どこかぞわりとして、何か根源的なものが呼び起こされる感覚。


『お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃん大好きもっともっとほしいお兄ちゃんあたしをもっと求めてようやくこうして気持ちを通わせられたんだから、もっともっともっとほしいよ。もうお兄ちゃんだけがいればいい他のものなんてなにもいらないエッチしたいエッチしたいエッチしたいエッチしたいエッチしたいエッチしたいエッチしたいエッチしたいエッチしたいエッチしたいエッチしたいエッチしたいエッチしたいエッチしたい……』


 キスを続けると、紗季のダイレクトすぎる声が聞こえてきて、頭がどうにかなってしまいそう。

 これ以上は、危険だ。

 いや、本当は危険でもなんでもない。紗季もこの先を望んでいる。子供を作ろうってわけじゃないんだ。別に誰に咎められることでもない。

 でも、今は、まだ……。

 半ば強引にキスを終えると、紗季は少しだけ非難がましく見つめてくる。


「お兄ちゃん……もしかして、あたしとキスするの、嫌?」

「……なんで? そんなわけないだろ」

「だって……あたし、もっとキスしたい」

「……これ以上は、ダメだ」

「なんで?」

「これ以上したら、俺、我慢できない」

「……我慢しなくていいよ? あたし、本当は……今からだって、いいと思ってるんだから」

「それは……ダメだろ。誰か来たらどうするんだ」

「そこ、もうその気になってるんじゃないの? いつもより大きいんじゃない?」


 紗季の視線が下に落ちて、俺はそこを足で隠す。


「あのね。お兄ちゃんはあたしのこと、まだどこかウブで純情な子だと思ってるかもしれないけど、本当はそんなにいい子じゃないよ? 本当は……すごく、お兄ちゃんと繋がりたいって思ってる」

「……うん。でも、やっぱり、ごめん。もう少しだけ、待ってほしい」


 紗季が濡れた瞳でじっと見つめてくる。


『お兄ちゃん、なんであたしがここまでしてるのに、止まっちゃうんだろ? 不思議っていうか、意味不明っていうか……。あたしに興味がないわけじゃないんだろうけど、あたしとそういう関係になることにまだ迷いがあるのかな? うーん……こんなに疼いてるのに、またおあずけかな……。お兄ちゃん、ひどい……』


「……わかった。お兄ちゃんがダメっていうなら、我慢する。でも、覚悟してよ。お兄ちゃんがいつも焦らすから、いざというとき、あたし、どうなるかわからないよ」

「……うん」


 紗季がもう一度キスをしてくる。今回は触れるだけのキスで、すぐに離れた。


「お兄ちゃん、大好き。こんな程度じゃ全然足りないくらい、大好き」

「嬉しいよ。俺も大好きだ」


 今度は俺からキスをする。今度は少し長いキスになって、紗季の喜びが伝わってきた。

 この時間が幸せで、将来紗季とは別れなければならないだろう、なんて考えていることも忘れてしまいそうになる。

 俺たちの関係は、単純にふわふわした楽しい恋愛にはならない。いつか破滅が来るかもしれない。

 でも……キスをしている瞬間くらいは、それを忘れよう。

 紗季とのキスに、俺はしばし溺れることにした。

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