第16話 紗季の気持ち

 冷や汗が止まらない中、俺は紗季に別れを告げる。


「……じゃ、紗季、また家でな。練習、頑張って」

「あ、もう行っちゃうの? せっかく来たんだから少し見ていけば?」


『せっかく会えたのに、お兄ちゃんがいなくなっちゃうなんてやだー!』


 神坂さんと対峙していたときとは一転、紗季の心の声はすっかり甘えん坊になっている。……ここだけ切り取って、これが紗季の全てだと思えたらどれだけ良かっただろうか。


「見ていけばって……。女子三人が集まってるところに男が一人って、気まずすぎるだろ」

「えー? そんなの気にする? 全く知らない人ならまだしも、二人のことは知ってるでしょ?」

「それはそうだけど……」


 紗季と一緒にダンスの練習をしていた二人は、紗季の友達で、何度か家に遊びに来たことがある。だからって俺と親しく交流するわけでもないのだが、一度俺の部屋でゲーム大会が開かれたことがあり、そのときには少し話をした。

 友達とは言えないまでも、友達の兄、という無難な立場で認識されていることだろう。

 実際、二人の頭上にある数字も、実に無難なもの。

 水原千佳、「32」。

 楠七恵、「35」。

 低くて別に構わない。彼女たちにとっては、俺はただのモブキャラに過ぎない。


「あたしたちは、別に見ていただいても構いませんよ?」

「ダンスなんて見られるためにするんだし、観客がいた方が気合いも入るもんね。まぁ、まるっきり練習始めのときに見られるのは困るけど、ある程度形になってきてるから、今ならいいかな」

「だってよ、お兄ちゃん。ちょっと見ていきなよ。どうせ、年下女子高生の薄着姿に興奮してたんでしょ?」

「紗季、たとえそれが事実だったとしても、決して口に出さないのが優しさってものなんだぞ。俺のことをとやかくいうばっかりじゃなくて、自分ももう少し男心を……」

「じゃ、早速始めよ! あんまりだらだらしてたら他のグループに置いてかれちゃうし、先輩にもどやされちゃう!」

「……たまには俺の話を聞いてくれてもいいんじゃないか、妹よ……」

 

『あはは。いじけてるお兄ちゃん、かわいー。これだからお兄ちゃんイジリはやめられないね。でも、勘違いしないでね? あたしはお兄ちゃんのこと、大好きなんだから。お兄ちゃん以外には、こんなことしないんだよ? 要はちょっと甘えちゃってるってこと!』


 紗季の心の声が流れ込んでくる間にも、クスクス笑う三人がダンスの配置につく。

 そして、紗季がスマホを操作すると、無線接続されたスピーカから音楽が流れ始める。最近、女子の間で流行っているらしい、ノリが良くて明るい曲だ。

 三人の表情も態度も一変し、軽やかに踊り始める。

 俺はダンスの善し悪しについて詳しくないが、真剣に、それでいてにこやかにダンスする姿を眺めるのは、それだけでとても楽しいものだった。

 ……滴る汗に密かに興奮した、というのは、俺だけの秘密だ。

 曲は四分ほどで終わったのだが、非常に良い時間を過ごせたと思う。俺のためだけに三人の女子がダンスをしてくれる状況など、そうそうあるものじゃない。紗季の兄で良かったと心から思う。


「どうだった?」


 紗季が尋ねてくる。水原さんと楠さんも、俺の感想に興味津々という感じ。

 ……ダンスを堪能できたのは良かったが、この状況は困るかも。


「えっと……良かったよ」

「えー? それだけ? どこがどう良かったの?」


 ニヤニヤ。紗季は、俺がこういうときに感想を述べるのが苦手だということを知りつつ、あえて尋ねてくる。


「どこって……その、キレあったし、表現力もあったし……」

「そうかなぁ。とりあえず形にはなってるけど、正直まだまだだとは思ってるんだよねぇ。どの辺にキレと表現力を感じたのかな? そもそもお兄ちゃん、キレとか表現力がどういう意味か、わかってる?」

「あ、ええ? ええっとだなぁ……やっぱり、キレっていうなら、動作の俊敏さとかだろ? 表現力ってのは……感情を、体で表現する力……かなぁ」

「ふんふん。まぁ、それでいいや。で、どの辺が印象的だった?」

「……そ、その……サビの部分で力一杯、元気とか、明るさを表現してるところとか、良かったと思う……よ」


 身振り手振りを交えて、なんとか自分の胸の内にある感動を表現しようとする。

 実際、感動はしているのだ。それを上手く言葉にする力が足りないだけで。


「お兄ちゃん、もうちょっと上手く褒められるようにならないとモテないよ? 可愛いね、だけで喜んでくれるのは最初だけなんだから」

「……精進します」

「頑張ってよね。お兄ちゃんだって、ある種の表現者ではあるんだから。漫画とかイラストもダンスとは無関係の異質なものじゃないよ?」

「……そうだよなぁ」

「それじゃ、あたしたちは練習続けるから、お兄ちゃんも部活頑張ってね」

「頑張ってくださーい」

「お兄さんの漫画もイラストも、好きですよー」


 紗季に続き、友達二人も応援してくれる。多少おざなりな印象は受けるものの、女の子に応援されれば元気が出ないわけもない。……もちろん、いやらしい意味ではない。Tシャツが汗で肌に張り付いている状態はセクシーだとも思うが、今は関係ない。

 その場を立ち去りつつも、紗季の心の声がかすかに聞こえてくる。


『お兄ちゃんって、客観的に見るとまだまだな部分はあるんだよなぁ。でも、ああやって慣れてない感じは可愛いとも思うな。

 それに……結局は得意不得意があるだけなんだよね。女の子を褒めるとか、ダンスの感想を言うとか、そういうのは苦手かもしれないけど、それ以外は頼りになるもんね。

 小さい頃から、お兄ちゃんがあたしのためにずぅっと頑張ってくれてること、あたしは知ってる。

 昔はよくあたしに好きなお菓子とか譲ってくれたし、あたしの大好きだったキャラクターもたくさん描いてくれたし、いじめっ子から守ってくれたし、変なおじさんにつきまとわれたときにも庇ってくれた。今でも勉強を丁寧に教えてくれて、困ったことがあれば最優先で助けてくれる……。

 あたしのためにしてくれる色々なこと、簡単じゃないんだって、ちゃんとわかってるからね? 自分のことよりあたしのことを優先してくれるのは、当たり前じゃないってもう理解できる年齢になってるんだからね?

 ただ、からかってみたり、無理矢理あたしのペースに引きずりこんだりして、甘えていたい気持ちが残ってるだけ。甘えてる時間が、幸せすぎるだけ。

 お兄ちゃん……好きだよ。大好き。もう、他の男の子なんて目に入らないくらい』


 はぁ、と溜息を一つ吐きながら、頭を掻く。

 紗季の好意も、心底嬉しく思う。いつも俺に甘えてくるばかりで、こっちの苦労も知らないで、と思ったことはある。だけど、色々とわかっているうえで、あえて甘えるという選択をしているというのなら、それは可愛らしいことだと思う。

 甘えている時間が幸せなら、それに応えてやるのも悪くはない。

 妹だというしがらみさえなければ、俺が生涯紗季の側にいてやりたいと、思わないでもない。

 一人の男性として見られることにはまだ抵抗があるのだが、俺だって紗季のことは好きだし大切だ。たくさん喧嘩もしてきたけれど、培った絆は他の誰とのものより強い。

 紗季に対して、恋心を抱いているわけではない。この先も、そういう気持ちが芽生えるかはわからない。

 だけど……俺にとって、紗季はどんな恋人よりも大切な存在になるんじゃないかと、そんな予感がある。

 そうなったとしたら……俺は、恋人と紗季、どっちを選べばいいのだろう?


「うーん……わからん」


 ろくに恋愛経験もない俺には、実際に恋人ができたときの気持ちなど上手く想像できない。輪郭がぼんやりとしていて、あまり参考にならない。

 うんうん唸り、頭を抱えながら部室に向かう。そこで。


『お? 藤崎君がなんだか悩ましげに俯いてるぞ? どうかしたのかな?』


 視線をあげると、廊下の向こうから岬先生が歩いてきていた。

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