第46話 光を失う

 瞼を開くと、どこまでも白く、どこまでもフラットな景色が広がっていた。

 しばらくぶりの、見覚えのある世界。すなわち心の────無意識の内。


 これで何度目だったろうか。


 初めは、力の存在を知った時。

 二度目は…………そう、温泉宿での生活に慣れてきた頃合いに。そしてその次が、雪の巨人と戦って大怪我をした後。

 この空間や『彼女』とはもっと付き合いがあるように感じていたのだが、思い返してみるとたったの三回ぽっち。まだまだ知り合いと呼ぶことすら躊躇うような、そんな度合いでしかなかった。

 結構、意外だ。


 ……などとぼんやり考えながら、無の地平にポツリとたたずむ孝太へ、静かに歩み寄る者がひとり。

 鮮やかなピンクの髪をさらりとなびかせ、ひたひたと裸足でやって来るのは、彼女────イーシュだった。


「……孝太さん」


 イーシュはうつむき、下を見つめたままの格好でこちらへと声をかける。長い前髪の合間に覗く表情はやはり暗く、最後に出会った時と同様の悲しみをたたえていた。

 何を言われるわけでもなく、孝太は理解する。あぁ……自分はまたやったのだな、と。

 そして手早く腕を、足を、全身を見回す。


「…………?」


 しかし大方の予想に反して、目立った損傷は見つからなかった。不格好な両の手すらそのまんまで、そこにさえ目をつぶれば五体満足といえた。

 もしや、首や頭に?


「……探しても見つかりませんよ。今は……それではわからないでしょうから」


 唐突に己の全身を眺め出した男に、イーシュから制止の言葉がかかる。いまだ伏し目がちではあるが、彼女はようやく顔を上げてくれた。

 

「というと……あ、身体の……中?」


 会釈も挨拶もすっ飛ばして、孝太は次なる推測を口にする。ロッジに引き続き、悪い癖は継続中であった。


 そう。いつ気を失ったかは覚えていないが、吊り橋の上で黒いぶよぶよに呑まれて、目鼻や口まで塞がれたことは確かに記憶していた。

 硬めのゼリーのような黒い塊に圧迫され続け、どこかのタイミングでプツリと意識が途切れた────と思われる。

 それともまさか、そのまま窒息してしまって、今まさに死の淵へと立たされていたりするのだろうか? 呑気に振り返っていられる辺り、その線は薄そうだが。


「………………」


 イーシュは答えない。

 だが、その沈黙が物語っていた。おそらく今度のダメージは取り返しがつかないものなのだろう。

 繰り返し尋ねるのが恐ろしいような、しかして案外気にならないような、孝太の頭には変にふわふわした感覚があった。


「……以前、手を壊された時、あなたは自分の怪我はどうでもいいと……そう言っていましたが────」


 言いかけて、不意にイーシュが目を合わせてきた。日頃から合わせ慣れていない孝太は、急なことに目線が荒ぶってしまう。

 そのままイーシュは一歩踏み出すと、白く細い右手をゆっくり伸ばし、そっ…と孝太の左頬に触れた。

 予想だにしなかった彼女の行動に、孝太の身体はびくっと跳ねる。が、憂いを帯びた真剣な顔を前にして、孝太は自身の身じろぎを必死で押さえ込んだ。無理やり身体を強張らせて、懸命に次なる彼女の言葉を待つ。


 少し言い淀んだ様子を見せた後、イーシュは重い口を開いて言った。


「……その目の光を失ってなお、あなたは同じことが言えますか?」








 さらさら、さらさら。


 木々の隙間を抜けて、灰色の空から大地へと霧雨が降り注ぐ。

 木陰で静かに耐え忍んでいる一羽にも、雨は平等に湿り気をもたらす。側頭部に畳まれた翼には、水滴がちょっぴり目立ち始めていた。が、それを気にする素振りもなく、彼女はひたすらじっと座っていて動かない。動かざること岩の如し。

 時折、森の向こうからバキバキ、ガサガサといった大それた音が聞こえてくる。それを耳にするたび、木陰の鳥の心中は不安でいっぱいになるのだが、彼女の表情にその内面が表れることはない。

 彼女の鋭い視線は、目の前で横たわる男へと揺らぐことなく注がれていた。


 ぴくりと、にわかに男の身体が動いた。傍らで座る鳥はハッとして、ほんのわずかに目を大きくする。


「…………ぅ…」


 かすかにうめき声を上げると、男はもぞもぞと身体を動かした。ダウンコートに雑草の露をくっ付けて、男は小さく寝返りをうつ。

 曇り空とおんなじ色合いの鳥は、どうしたものかと考え込む。が、すぐに結論を出したのか、彼女はか細い声で呼びかけた。


「…ぇと……あ、あの…! 平気…そう?」


 たどたどしい言葉が発せられ、しばし空白の時が生じる。男に反応はない。

 再び口を閉じ、彼女はもう一度迷う。そしてまたすぐに結論へと至ったのか、彼女は身を乗り出すと男の身体を揺さぶり出した。


「ね、ねぇ…! 大丈夫……!?」


 ゆさゆさ、ゆさゆさ。

 声と同様にかなり控えめな揺さぶり。

 だが、目覚めかけていた意識を引き戻すにはそれで充分であった。


「……ぁ、あぁ……大丈夫…です」


 男はしゃがれ声を出しながら、地面の草に手をついて上半身を起こした。起き抜けのしかめっ面を浮かべて、男は軽く頭を振る。

 それを見て、灰色の鳥はふぅ…と安堵のため息をついた。


 が、


「よ、良かっ────た……?」


 男の奇怪な行動に、彼女の頭には疑問符が浮かんだ。

 目覚めた男は、しきりに身のまわりを手で探っている。首も動かしているが、その目の焦点は定まっていないようにも見えた。


「あの…………なに…してるの?」


 たまらず、鳥は尋ねる。

 周りを探り終え、声の方へおそるおそる手を伸ばしていた男は、その質問にぴたりと動きを止めた。


「……えぇと、ですね。その……」


 男は何やら言いにくそうに、もごもごと言葉を選んでいる。鳥の頭上にはますますクエスチョンマークが増えていく。

 そうして数秒の後、男はぽろりと言葉をこぼした。


「目が、見えないんです」


「………………えっ…?」


 あんまり驚いてしまったのか、声を発すると同時に鳥の表情が変わる。それは世にも珍しい(?)出来事だったのが、残念ながら男にはその光景を確認する術がなかった。

 大きく目を見開き、キョトンとした顔になってしまった彼女は、数瞬遅れてからてんてこ舞いの大慌てとなるのだった。





「───ですから、大丈夫ですよ。まずはハシビロコウさんが落ち着きましょう」


 盲目となったことを告白してから約三分。


 よほど衝撃的だったのか、「どどどどうしようどうしよう…!」と空回りし出した彼女から、孝太はどうにか名前だけ聞き出すことに成功。それからは彼女─────ハシビロコウをなだめることに全力を尽くしていた。

 正直言ってあまり喋りたくない。喉が渇いて、とかく声が出しにくいのだ。湿気は有り余っているはずなのだが……。


「で、でも痛かったりするんじゃ…」


「痛みもないので平気です。本当にただ見えないだけで────」


 あわてる役と、なだめる役が逆なのではないだろうか。言葉だけを頼りに場を収めるべく奮闘する孝太は、心の内でそんなことを考えていた。

 普通は失明した側がその事実に取り乱し、介抱している者が「慌てるのも無理はないが、とりあえず落ち着いて」……と、こういう流れになるのが自然だ。

 たが、そもそものイレギュラーは自分なのだから仕方ないともいえる。目覚める前に失明を知り、受け止める時間のある者は通常いないのだから。


 何の進展もない問答を続ける最中、孝太は無意識の出来事を振り返る────……



 ─────────


 ─────


 ──



「目の光…って…………あ」


 イーシュが告げた言葉を理解すると同時に、孝太の視界がぐいん!とずれた。

 それはあたかも、一人称視点のゲームが唐突にムービーへと移行するかの如く。孝太の視点はするりと肉体を抜け出て宙空へと移動し、そこに固定された。

 突如として第三者視点となったカメラは、孝太の頬に触れるイーシュの姿と、彼女と向かい合って立つ自分自身の姿を映し出す。

 と、そのままの姿勢でイーシュが首を動かし、いわゆるカメラ目線になって話し出した。


「ここは私が干渉した無意識の────ある種の夢の中ですから……そうやって見ることも出来ます」


「お、おぉ……」


 驚きと感嘆の入り交じった声が口をつく。

 奇妙なことにその声は、虚空であるはずのカメラの元、すなわち視点の現在地から聞こえる。肉体の方で口が動いているのが見えているというのに。

 耳は機能していて、視点だけが宙に飛んで行っているのだから当然……なのか?


「これって……僕の目が、その……ダメになってしまったから…?」


 視点が目から離れたのは、この光景を映しているのが自分の両目ではないから、ということなのだろうか。

 『心に無意識の風景が映っている』という理屈なら、なんとなく納得できそうだった。そこに思い至れれば、以前からこうすることも出来たのだろう。

 ぼかした質問を受けたイーシュは、それにコクリと頷くと孝太の目を覗き込んで言った。

 

「あなたの目はセルリアンによって覆われて……というより、侵食されてしまったようです。近くで確認してみるとわかりやすいですが……」



 セルリアンに……侵食された?



 わかるような、わからないような言葉に肉体の方で眉をひそめると、孝太は視点を動かした。ぐぐっとカメラを己の顔へ近付け、とりあえず右目を覗いてみる。


「瞳孔の周りにある虹彩の……茶色かった部分が見えますか?」


 言われるがままに該当箇所を拡大して映す。が、でかでかと拡大するまでもなく異常はすぐにわかった。


 虹彩が……黒い。黒一色。

 瞳との境界線が、ない。


 絵の具の黒を多めに垂らしたみたいに、瞳孔も虹彩も一緒くたに黒ずんでいる。それはまるで、セルリアンのあのシンプルなひとつ目のようだった。


 暗闇で見る分には何の異常もないように見えるかもしれない。

 見かけの上ではそんな程度にしか変わりがなく、白目の部分に至っては何の変哲もないような……いや、少し灰色っぽくなった感じもする。


「────どうやらあのセルリアンには、水を吸収して同化、膨張する性質があるようです。あなたの目の場合は中に潜り込まれてしまったせいで……」


 冷静な分析を述べるも、イーシュは言葉尻を濁す。事実、その先はあまり想像したくなかった。肺や胃にも侵入された可能性がある手前、余計に聞きたくない。

 故に孝太は、彼女の分析内容の方へと意識を向けた。


「水を吸収……? そんな性質が……?」


「考えてみて下さい。あれほどの大きさのセルリアンがやって来たなら、ロッジが呑み込まれるより前に音やニオイで誰かしら気が付くでしょう」


 そういえばそうだ……と孝太は心の内で頷いた。それに連動してか、身体の方も軽く相づちをうつ。おかしな感覚だ。


「おそらく、あれの元の個体はとても小さかったのではないでしょうか。それが密かにロッジの屋根上へと登り、徐々に雨を取り込んで巨大化した…………これなら気付かれなかったことにも説明がつきます」


 イーシュは淡々と、らしからぬ───というのは失礼か───理知的な説明を続ける。

 

「他にも皆さんの喉の渇きだとか、扉の脆さ等、いくつか理由はありますが…………ともかく」


 孝太の腹の内の失礼な思いをよそに、イーシュはひと息ついて、ついに持論の行く末を述べる。


「このまま雨を呑み込み続けると、あのセルリアンを倒すことは物理的に不可能となってしまうかもしれません」


「…………っ…」


 それらしい根拠と共に提示されたのは、最悪の未来の形であった。

 打つ手無しとなってしまったなら、それはつまり……ジャパリパーク存亡の危機、という事にもなりかねない。だいぶ規模の大きい話だが、あれを倒せなければ起こりうる事態なのだ。

 もっとも、最後に見た時の大きさの時点で既に十二分な脅威であることは明白だが。



 急いでどうにかしなければならない。

 その責任は、奴らが狙う彼女と、彼女の力を宿した自分にあるのだから。



 考えが顔に出ていたのか、イーシュはこちらをまっすぐ見つめて、再び口を開いた。


「今のうちに倒すには……」


「…………倒すには?」


 孝太はすかさず先を促す。

 大体の予想はついているが、決心を固めるためにも聞いておくべきだろう。

 そしてやはり、彼女の示す可能性は孝太の考えと同じものであった。


「───大元の核の一点突破、それしかありません」


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