第44話 すくわれる足
「しかし……奴はどこから入ってきたんだ? いつの間に天井に……?」
キッチンにて、壁に背を預けるヒグマが真剣な面持ちで呟いた。窓も廊下も見ていたはずなのに、とキンシコウも数分前の記憶を振り返っては眉間にしわを寄せている。
そんな二人の疑問に真っ先に答えたのはタイリクオオカミだった。自分の椅子をズズッと寄せ、カウンターに肘をつくと同時に彼女は口を開いた。
「私たちが来る前から、ヤツはずっと待ち構えていたのかもしれないね。ああやって獲物が集まったところで……ぱくり!」
タイリクオオカミは左手指をセルリアンに見立てると、上から下へ噛みつくような形で勢いよく指を閉じる。事前にもう一方の手で立てていた鉛筆が、すっぽりと左手に呑み込まれた。
「実に効率的じゃないか。まるで食虫植物のようだよ、溶かすところも含めてね」
敵の攻め方を素直に称賛して、タイリクオオカミはお手上げのポーズをとった。
食虫植物という聞き覚えのない単語にアリツカゲラが首をかしげる。それを受け、タイリクオオカミは待ってましたと言わんばかりに解説をし出した。しばしの間食事処は、ハエトリソウやウツボカズラといった世にもおそろしい捕食者たちを語る場と化す。
そんな中、孝太は一人テーブルに突っ伏して身体を休めていた。
できることなら寝てしまいたかったが、生憎この状況下で寝息を立てられるほどの図太さは持ち合わせていない。
己のものではないパワー。
夢の中の彼女─────イーシュに授かりし力を使うと、それ相応の反動がある。
先ほどのヒグマ救出の際には30秒程度しか使っていなかったはずだが、既に両腕両肩、腰周りに確かな疲労感が滲んでいた。
もっとも、これまでのことを考えると疲れで済んでいるのはかなりの軽傷といえる。少しは身体が慣れてくれたのだろうか。
ふと、誰かの気配が近付くのを感じた。静かな足音が二人分。
「おい……大丈夫か?」
顔を上げると、テーブルの側にはヒグマが立っていた。その後ろにキンシコウもいる。
「あっ、はい。ちょっと疲れただけです」
眼鏡をどこかにやってしまったので、孝太の目に映る二人の姿は少々ぼやけていた。今は力を視力に回す気も起きないので、目を軽く細めるだけにしておく。
「えっと、その……お疲れのところ申し訳ないんですが……」
キンシコウがおずおずと切り出した。聞きたいことは大体察しがついている。
「ヒトさ……コータさんはさっきセルリアンに触れていましたよね。本当に何ともなかったんですか?」
予想的中。彼女が知りたがっているのは、やはり奴との接触に関することだった。
事実として、ヒグマの熊手や服を、ひいては肉体をも溶かしつつあったアレに触れておきながら、孝太の身には何も起きなかった。
直に触れた手も、黒い染みが残る服も、踏み入れたはずの靴も。すべて溶けることなく、穴ひとつ空かずに現存している。
それらが示す答えはひとつ。孝太には既に見当がついていた。
テーブルからゆっくりと身体を起こし、椅子にもたれかかると楽な姿勢を探って。孝太は気だるげに息を吐きつつ答えた。
「……たぶん、あれが溶かしていたのは『サンドスター』だと思います」
平気でしたか? という問いに対するものとしては、あまり良くない返事だった。
思わずヒグマもキンシコウも言葉を詰まらせ、「え? あ、あぁ…」と微妙な反応をしている。会話の流れをひと足飛びですっ飛ばしてしまいがちなのは、自分の悪い癖だ。
しまった、と思った時には既に遅く。孝太はあわてて軌道修正を図るべく、次なる言葉を考える。
が、思わぬところに急流を乗りこなす者がいた。
「だね、ヤツが喰らうのはサンドスターだけだ。だからフレンズでない彼は食べられないし、溶かされなかった」
横から唐突に追い上げ、孝太の話にピタリと並んだのはタイリクオオカミだった。
カウンターに背を向ける彼女は、椅子の背もたれに両腕を置いて足を開いた格好をしている。緊張感がないというか、正直だらしない。
……突っ伏していた身でいえたことではないが。
「……そうか。この毛皮────じゃない。服もサンドスターで出来てるとか何とか言ってたな。つまり、私たちの身体も……」
ハッとしたヒグマが、自身の穴空きシャツを見て言った。昨夜の、漫画が話題の中心となる前に交わしていた話を思い起こしたのか、彼女は納得がいった、という顔をする。
「そ、そんな…! じゃあ、あのセルリアンと戦えるのは……」
表情を曇らせたアリツカゲラが、途中で言葉を濁す。彼女は直接口にこそしないものの、その意図は確かに視線へ表れていた。気付けばアリツカゲラだけでなく、フレンズたちの視線は一点へと集まっていた。
彼女らが目を向けているのは、この場で唯一の存在。
「………………」
こんな時、自信たっぷりにでも答えられたなら。
……いや、たとえ自信がなくて、虚勢を張っただけだったとしても。
頼りがいのある、気の利いたひと言が言えたらどんなにいいだろうか。
暗がりの中、沈黙が続いた。
何か、言わなければ。
そう思うほどに唇は渇き、動悸が徐々に激しくなる。
冷や汗が手の平と脇を湿らせ、テーブルを見つめる目はほとんど焦点があっていない。
たったの数秒であるはずの時間が、何百倍にも引き延ばされて感じる。彼女らの視線が身体へとグサグサ突き刺さり、歪んだ時空も合わさって、それらはもはや拷問に近しい苦痛を生み出していた。
何とかします。
唇が震えて、たったそれだけの気弱な言葉も紡げない。
故に孝太は、何も言わずに立ち上がった。
時間にして10秒は固まっていた男が急に動き出し、皆は一瞬たじろぐ。そんな中、男の肩を優しく掴んだけものが一人。
「……やれるのか?」
そうしてまっすぐこちらの目を見つめてくるのは、ヒグマだった。
すぐに「はい」と答えたかったが、今はかすれ声しか出ないように思えて。
孝太はコクリと頷くことで、それを決意表明とした。
立ち向かう気力は出せても、それを言語化して口にする方が難しいだなんて、普通は逆だろうに。
自信のなさもここまで来ると滑稽だった。
心の中で己の変人ぶりを嘆きながら、孝太は廊下へと足を踏み出した。
「よし……」
再びの移動の後、一行は数十分ぶりに中央ホールへと戻ってきていた。
皆で天井や壁、床を用心深く観察し、ひとまず襲い来る存在がいないことを確認した上で、五人は更なる安全のためにテーブルの下へと隠れている。
たった一枚の木の板を挟むだけで、こうも心持ちは変わるものなのか─────防災訓練ではまず感じることの出来ない安堵を覚え、孝太はテーブルという存在に初めて感謝した。
「やるぞ……覚悟は出来てるな?」
丸テーブルの下から、ヒグマが皆へ意志確認を行う。
呼び掛けられたけものたちもまた、テーブルの下から短く返事をする。ヒグマは各々の返事を聞きつつも、周囲の警戒のため常に首を、耳を動かしていた。
その真隣でしゃがむ孝太は、ひたすら深呼吸を繰り返している。緊張がほんの少しでも和らいでくれれば万々歳なのだが、現実にはそう上手くはいかない。
「おい、ホントに大丈夫なのか……?」
しかめっ面のヒグマに肩と肘で小突かれて、孝太はぐらりと体勢を崩す。
「わっ…!」
あわや転倒……というところで孝太は床にギリギリ手を突き、何とか踏みとどまった。ふぅ、と息を吐く孝太の背に、押し殺したような笑い声が届く。
首だけで振り返ると、もうひとつのテーブル下にて、キンシコウとタイリクオオカミが手で口を抑えていた。二人の更に後ろでは、アリツカゲラがあわあわしている。
と、孝太の目に気付いた二人は、スッと視線を外して笑いを噛み殺した。どうやら睨まれたと思ったらしい。眼鏡が無くてよく見えないので目を細めただけだったのだが。
「ふざけてる場合か…! まったく……」
見なくともけもの耳ですべてを察したのだろう。はぁ~…と深いため息をついて、ヒグマは頭を掻いた。
そんな一部始終を経たからか、いつの間にか孝太の緊張は和らぎ、心拍も少し緩やかになってきていた。しかして、そのまま落ち着いていられる訳もなく。
「……行くぞ!」
意を決して、ヒグマと孝太はテーブル下から駆け出した。二人が向かっているのは、ロッジの出入口であるあの扉。
黒が滲んだ木の扉めがけて、二人は一直線に突っ込み────────
─────────
─────
──
「きっと、あれにも核のような部分があるんだと思います」
薄闇の一本道を進みながら、孝太は己の経験に基づいて推測を語る。
「核……というと、セルリアンにくっついてる石のことかい?」
すかさずタイリクオオカミが疑問を尋ねた。核という単語のフォローも含めたその聞き方からしても、彼女の聡明さがよく分かる。
「えぇと、石……に近いですね。大きな体を操っている小さな本体、みたいな」
以前戦った、雪を自在に操る存在を思い出して、孝太は言葉を選んで言った。
雪像の中に潜んでいた、雪結晶のセルリアン。今回の黒いスライムめいたセルリアンにも、そういった司令塔がいるのかもしれない。……いてくれなければ、どうしようもないのだが。
「それで、さっきのアレはおそらく体の一部を垂らしたとか、降らしただけ……なんじゃないでしょうか」
もちろん絶対に弱点があるとは言えませんけど……と弱々しい補足をして、孝太は皆の反応を待った。根拠も怪しい推測に、彼女らはなんと答えるだろうか。
「あの……そもそも石がないんですか? セルリアンなのに?」
キンシコウは困惑しているようだった。危険なセルリアンの存在こそ伝えていたが、石の有無だとかの詳細までは話していないので、当然の反応ではある。
これまでに相対した石のないセルリアンら二体について、孝太は手短に説明し出した。
どちらもサイズとしては小さく、石がないとはいえ決して打たれ強い相手ではなかったこと。
その代わりなのか、厄介極まりない特性を有していて、複数人で相手取る必要があったこと。
そして、殺傷能力が極めて高いこと。
以上三点を皆に伝えた辺りで、孝太たちは中央ホールへとたどり着いた。
「とにかく相手の姿を見極めないと、弱点があるかどうかもわかりません。……なので、僕は外に出てみます」
───
──────
──────────
全体の三分の一ほどが黒く蝕まれた木の扉。放置されていた時間の割には侵食の進んでいないその出入口まで、あと三歩。
「……ッ!」
走りながら孝太は再び力を覚醒させ、左肩を前に出す。背後にピタリと着いたヒグマもまた、その野生を解放。煌々とした輝きを身に宿す。
孝太の身体が扉へと迫り──────
──バギィッ!!
木材の破片を飛び散らせて、渾身のショルダータックルが扉をぶち破った。
当然肩は痛いし、ぶち破った先に何があるかもわからない。最悪床がなかったり、黒い大口が待ち構えている可能性すらある。
そんなもしもの時のためのヒグマだったのだが、幸い扉の向こうはなんてことのない普通の空間─────すなわち『外』であった。
朝方の爽やかな晴れ模様はすっかり鳴りを潜め、外には曇り空が広がり、霧雨までもが降っていた。
「奴はいるかッ!?」
鼻先ギリギリで踏みとどまり、ヒグマは扉だった場所から叫ぶ。
ぶち破った衝撃によって孝太の勢いは減衰するも、ようやく立ち止まれたのはロッジと森の空中廊下を繋ぐ吊り橋の上であった。
痛む肩に右手を伸ばし、くるりと振り返ってみると、自分は出入口から7、8メートルは進んでいた。思ったよりも扉が柔かったのだろう。あれに侵食されていたせいで脆くなっていたのかもしれない。
そして、振り返った孝太の目には、ついにロッジを呑み込むものの全貌が映し出されていた。
「……でかい……な…」
そんな独り言が、自然と口をついて出た。
なにしろ敵は、建物すべてに黒いヴェールを被せているのだから。
ロッジを覆い、相も変わらずぶよぶよと蠢き続けているそいつには、これといった形状などなかった。
今まで目にしてきた黒く濁ったゲル状の、不気味なスライムのようなそれが、そのまま建物の上に被さっている─────ただそれだけ。
とはいえ屋根の上のそれには1メートル近い厚みがあり、ヴェールという表現は正しくない。敵はロッジの上の新たな『層』と化していた。
あれだけの質量が乗っていたら、遠くない将来ロッジはぺしゃんこになりかねない。もしもずっと籠城していたのなら、行き着く先は圧死というわけか。
「おいっ! コータッ!! こっちも出ていいのかッ!?」
ホールの中で、ヒグマが報告を待っている。
そうだ、伝えなければ。
早く脱出すべきだと。
大きく息を吸って、孝太は身体全体で出しなれない大声に備える。
と、どういうわけか、唐突にヒグマが駆け出した。まだ何も言っていないというのに。
彼女は何に慌てているのか、目の色を変えて全力疾走し出した。力を使っているおかげで、その血相の変えっぷりもよく見えている。
なぜ急に? 何に慌てているのか?
その時、孝太はロッジを呑み込む黒の、蠢き流れる一筋に気付いた。
不気味に脈打つ流動は、屋根から垂れ落ちた形のまま地面へ………………落ちて、いない。
その流れは建物の辺で途切れているわけではなく、ロッジの底面へと続いている……のだろうか?
であれば、それが辿り着く先は─────
「馬鹿野郎っ!! 走れーーッ!!!」
ヒグマの声が森に響く。彼女はいまだ届くことのない距離でありながらも手を伸ばした。
黒の流動へ巡らせていた思考を取り止め、孝太も腕を振って一歩、吊り橋の板を踏みしめる。
否、踏みしめたはずだった。
ぐにゃりと、足裏に嫌な感触。
「……!!」
瞬間、咄嗟に足元を見た孝太は、直前の思考の答えを知る。
「橋の、下──────」
ほんのわずかな隙をついて、敵はその魔手を獲物の足下へと伸ばしていた。いや、始めから手を打っていたのかもしれない。
でなければ、奴が恐ろしいスピードで動けるということになってしまう。そんなことは……
あるわけがない!
胸の内でそう断定する孝太をあざ笑うかの如く、足を呑み込んだ黒は急速にその動きを速める。文字通り、「あっ」という間に黒は孝太を包み込んだ。
ゼリーに押し潰されるかのような、気持ちの悪い圧迫感が孝太の動きを封じ込める。吊り橋の裏側を伝って、黒の質量がどんどん膨れ上がっていくのを肌で感じた。このままでは橋が落ちてしまってもおかしくはない。
その上、呑み込んで終わりということもなく、
「……うっ!?」
濁った黒が、孝太の顔面に張り付いた。反射的に口を、目を閉じたが時すでに遅し。
屋根から橋の上へ送り込むのと同様、わずかに入り込んだ黒はどんどんその質量を増していく。異物の混入に目は痛み、口も鼻も塞がれて、呼吸すら叶わない。
「……~~~~ッ!!」
音のない声でもって、孝太は叫んだ。
目に走るズキズキとした痛みは、長くモニターを見ていて目が乾いたような─────いわゆるドライアイの痛みによく似ている。涙が全然出てこないのもそれらしかった。
加えて息をすることも出来ず、差し迫った死への抵抗が暴れる手足となって───圧迫されていてロクに動かせていないが───表れている。
この苦しみも、孝太には経験があった。
うろ覚えではあるが、あの時も己の意思とは無関係に、手足が必死で暴れていた。
……今度こそ、終わりなのか。
三週間前に雪との戦いで覚悟して、からくも免れた己の死。
足下から再びにじり寄ったそいつは、雪原の時とは違ってじわじわと孝太の肉体を蝕みつつあった。
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