第45話 立ち向かうけものたち

 ロッジと外界を結びし吊り橋で、ヒトの命の灯火がその火勢を急激に弱めていく。降り注ぐ霧雨のせいなどではない。

 雨を、光を、輝きをも喰らう黒き濁流の塊は、大きな吊り橋すらも軋ませて、ぞわぞわと膨張し続けていた。


 その光景を─────見上げるほどに膨れ上がった黒を前にしてなお、駆けるヒグマは止まらなかった。孝太を呑み込み、蠢き続けるそいつまで残り3メートル。

 ダンッ!と大きな音を立てて、ヒグマは足下の板を蹴った。木材がベキッと悲鳴を上げ、彼女は吊り橋の真ん中に亀裂と歪みだけを残して跳び上がる。


「だァ───ッ!!」


 振り下ろす熊の手に、重力のパワーを込めて。

 強烈な風切り音を伴う縦一閃は、着地と同時に黒の表層を大きく削り、人ひとり分はあろうかという爪痕を残した。わずかに遅れて、吊り橋は大きく揺れ動く。

 弾けた黒の飛沫はヒグマが纏う野生の輝きに幾多の穴を穿ち、その衣服にも穴を増やす。一方的な攻撃だったはずなのに、理不尽の塊が相手では攻め手も手傷を負わざるをえない。


「…ちぃ!」


 吐き捨てるように舌打ちして、ヒグマは距離を取った。

 握る柄の先は喰らい尽くされ、既に熊の手はそれと認識できないほどに損なわれていた。もはやただの棒と大差のない得物を放り投げ、ヒグマは怒りを孕んだ視線を黒へと向ける。



 一撃ごとに一手なんぞ、割に合わん…!



 サンドスターは無制限の力ではないし、即時回復が可能なものでもない。今この身に宿る分を使いきったら、フレンズではいられなくなってしまう。


 けものに戻ることは、正直言って恐ろしい。皆を、思い出を失うことが怖くないはずがない。

 しかしそれ以上に恐ろしいのは、この場で戦えなくなって、仲間を守れなくなること。

 己の力が足りないせいで、誰かの命が失われる。それこそが真に恐れるべきことなのだ。

 たとえフレンズとしての自分が死に、すべてを忘れてしまった身になったとしても、きっと後悔の念は残る。残り続けるに違いない。

 


 今も残り続けて、深く、深く刻み込まれているのだから。



 瞬間、ヒグマの脳裏によぎったのは、茶色の毛皮とふさふさの尻尾。彼女はいつでもうっとうしいほど人懐っこくて──────


「割に合わんが……やるしかないッ!!」


 心の底からふつふつと。独りでに浮かび上がった記憶を無理やり押し込めて、ヒグマは再び駆け出した。

 ぶよぶよの中で、孝太の苦しみもがく様が見える。その様子は明らかに自分の時とは違っていて、溶かされるだとか押し潰されるだとか、そういう類いの危機でもないことが分かった。



 早く、速く救い出さなければ─────!



 己のサンドスターから新たな『手』を生成。先程とは違って、ヒグマは蠢く黒の左斜め前の位置でダン!と踏みとどまり、


「───でやぁッ!!」


 すかさず得物を右斜め上へと振り抜いた。熊の爪による斬り上げの軌跡は、爪痕の縦一文字に凶悪な斜線を書き加える。

 吊り橋はまたも揺られ、ギシギシと嫌な鳴き声を上げた。


「……つぅッ!」


 左前腕に焼けつくような痛みを感じて、ヒグマは今一度距離をとる。

 飛沫をもろに食らってしまい、黒インナーには大きすぎる穴が空いていた。身を守る役割はとうに失われ、もはや肌の面積の方が大きいほどだ。

 加えて、露出した皮膚にはどす黒いぶよぶよの欠片がへばりついていた。それはあたかも数匹のヒルが食らい付いているかのようで、ヒルと同様、剥がすに剥がせないときた。

 痛いし気持ち悪いし、とにかく最悪な気分だった。


「……クソッ…!」


 三度攻め込むべく、三つ────いや、四つ目の手を作り出そうとしたところで、ヒグマは痛む左腕の更なる異常に気付く。



 力が……入らない……!



 指が小刻みに震えて、前腕から空気が抜け出ていくかの如く。どうしても力が込められなくて、拳を作ることすら満足にできない。熊手の柄を握ることなど、できそうもない。



 喰われている……サンドスターを……!



「う……!」


 徐々に気分が悪くなり、目眩のような症状までもが表れ、ヒグマは吊り橋の縄へもたれかかった。



 …………!!



 その時、朦朧とする意識の中で頭にひとつの閃きが生じる。


 右手で掴んだ丈夫なツタのようなもの。

 これはおそらく、かつてヒトが造りし物だ。サンドスターによって作られたものではない。

 その証拠に、橋の下からセルリアンが現れた時、奴が触れたはずのこのツタは千切れも溶けもしていない。思い返せばロッジの窓も床も、扉だってそうだった。



 ならば……!!



「うお……おおおッ!」


 震える左腕を右手で掴み、強引に持ち上げると、ヒグマは左腕を縄へ擦り付けた。

 湿ったヒヤリとした感触を肌に押し当て、硬く引き締まった縄に黒いヒルどもを引っかけると、ヒグマは力一杯腕を動かした。摩擦が少しずつ熱と痛みを与え始めても、ヒグマは擦るのをやめなかった。

 縄に押し出されて、黒は橋下へと次々落下していく。だんだんと腕の震えも弱まってきて、擦る速度も力強さも上がっていった。


「この……野郎っ! 離れろッ!」


 毒づいて、縄との摩擦が皮膚の薄皮をも剥がしたその時。

 一際大きな黒が剥がれ落ちた。

 凍っていた腕に、温かな血が通う。そんな感覚がヒグマを奮起させ、彼女は闘志をみなぎらせた。



 そうだ……奴に攻撃する術はある!


 そこら中にあったんだッ!!



「やぁ、助かった。素晴らしい発見をしてくれたよキミは…!」


 反撃の光を目に宿したヒグマの脇を、一陣の風が通り過ぎる。その紺色の風は、銀の輝きを伴って見えた。


「ありがちな小道具だけど……今はつべこべ言ってられないからね!」


 ヒグマの横を猛烈な勢いで駆け抜けたのはタイリクオオカミだった。

 彼女がなにやら逆手に握っているのは……銀の牙? どこかで見た気がするが────


「───ふんッ!!」


 目にも止まらぬスピードで左、右、左。

 これまでの手ごたえの無さが嘘のように、オオカミの銀の斬擊は易々と黒の体を切り裂いた。


「切り分けて皿の上に並べてあげよう。……せっかくの料理包丁なんだからさっ!」


 鋭い切り口が幾重にも重ねられ、タイリクオオカミは孝太を捕らえる壁をどんどん切り開いていく。

 もう一方の手で持った木の板───テーブルを半分くらいに割って中央の脚を持ち手にしている───を盾代わりにして、彼女は黒い飛沫の多くを防いでいた。なんとも機転が利く奴だ。


 しかし、


「むっ……さすがに刃渡りが足りないか」


 その快進撃も、足元に濁った沼があっては進めやしない。

 呑み込まれた孝太まであと少しでたどり着けるというのに。黒に包まれ、今や孝太はぐったりと力無くうなだれていた。



 間に合うのか……!?



 歯がゆい思いでヒグマは踵を返した。

 武器になる物を持たなければ……!



「ヒグマさんっ! これをッ!」


「受け取ってくださ────い!!」



 振り返った瞬間、ヒグマの目に飛び込んで来たのは二つの長方形の板。キンシコウが抱えるそれらの板は、オオカミの持つ銀の牙と同じでどこか見覚えがあった。

 その後ろからだいぶ遅れてアリツカゲラも走ってきている。走りも戦いも得意でないだろうに、無茶をする。


「オオカミさんがっ、これも武器になるって! 『ふわふわ』の扉ですけどっ…!」


 息を切らせながらも、アリツカゲラは物の説明を欠かさない。大好きなロッジをこうも壊され、利用されて、後々彼女に嫌われやしないだろうか、とヒグマは少し不安になった。

 だがしかし、今を越えなければ後も何もない。無用な考えは捨て置いて、ありがたく使わせてもらおう。


「すまん! 借りは後で返す!」


「や……約束ですよっ…!」


 キンシコウから二つの板を受け取り、それらを両の手で掴むと、ヒグマは再び振り返った。

 勢いに呑まれてよく見ていなかったが、持ってみてわかった。これは扉を縦に割ったものだ。

 おそらく急いで運んできたのだろう、『ふわふわ』の扉だった板には乱暴に叩き割られた形跡があった。

 しかしてそれ故、片手で持てる。武器になりうる。なんとかできる。


「タイリクオオカミ! どいてろッ!!」


 板の二刀流を携えて、ヒグマは走り出した。目標までは元々そう遠くない距離。詰めるのは一瞬だった。



  突き立てるか? えぐり取るか?


   はたまたこじ開けるか?


  ────なんでもいい!


 

「どりゃああああーーッ!!」


 気合の雄叫びと共に指が板を貫き、ヒグマはより力強く二刀を掴む。走る勢いはそのままに、鋭く突き出した右腕が空気をも切り裂いて。


 疾風のひと突きが、不気味に蠢く黒のサナギに突き刺さった。


「おお……!!」


 一歩退いたタイリクオオカミの口から、感嘆の声が溢れる。

 突き立てられた板は孝太の眼前で止まり、一瞬遅れて風圧の衝撃波がぶよぶよの外殻を伝う。濁ったフィルター越しではない、鮮明な孝太の姿が黒の隙間から垣間見えた。


「返してもらうぞ……!!」


 黒の破片をその身に浴びてもなお怯まず、ヒグマは左手の板をその隙間へと突き立てる。怪力でもってサナギをこじ開け、徐々に徐々に大穴を広げていく。

 今まで何の反応も返さなかった黒もついに動きだし、その流れを突如敵対者へと向けた。足元の濁った沼がズゾゾとヒグマの足を掴み、吊り橋の裏からも魔の手が伸びる。

 包丁を振るって沼を、魔手を退けようと奮闘するタイリクオオカミだったが、その努力もむなしく黒はヒグマを取り囲む。



 それでもヒグマは諦めなかった。


 風を切る音が、聴こえていたから。



「アリツカゲラーーッ! 頼むーーッ!!」


 霧雨の曇り空に轟く叫びと、それに呼応して飛来する影。

 黒の前へ弾丸のように急降下、そして急停止したのはアリツカゲラだった。野生を解放した彼女の翼は普段よりも一際大きく見えて、場に放たれる風圧もそれに相応しいものとなっていた。


「まずはコータさんですっ!」


 その場で小刻みに、しかし力強く羽ばたきながら、アリツカゲラは迷わず黒の塊へ手を伸ばした。切り開かれた大穴から孝太を引きずり出し、抱き止めると、すかさず彼女は急上昇する。


「掴まって!! ヒグマさんっ!!」


 ぐんと舞い上がるキツツキの輝く瞳と、板から手を離し、天を仰いだ熊の瞳が交差した。


「───はッ!!」


 濁った沼を踏みつけて、ヒグマは力の限り跳んだ。空に手を伸ばし、彼女は希望の翼へとすがる。

 それを逃がすまいと絡みつくのは黒の魔手。粘性と弾力のある嫌な感触は、足首を掴んで離そうとしない。



 駄目か……っ!?



「いいや行けるさッ!」


 その声と共に一筋の光が現れ、ヒグマの足から黒の魔手を切り離した。引っ張られる直前に足が解放され、ヒグマの身体は思惑通りに宙へと舞う。


 彼方より届いた銀の一閃─────それはタイリクオオカミが投げた包丁だった。彼女の正確な読みでもって投擲された刃は、その役目を全うして沼へと沈んでいく。



「───届けっ!!」



 思いっきり伸ばした左腕が、指が────


 ──────キツツキの細い足に届いた。



「……ううッ!」


 既に一人を抱えているアリツカゲラは、更なる重量にバランスを崩す。が、翼からブワッと輝きを振りまいて間一髪。アリツカゲラは何とか墜落を免れた。

 タイリクオオカミはほっと額の汗を拭い、後方のキンシコウに呼びかける。


「私たちも行こう…!」


「ですね…!」


 二人はサッと縄を飛び越えて、眼下の緑へと姿をくらました。

 獲物を見失い、黒はピタリと動きを止めたかと思うと、ズズズ……と緩やかに根源たる黒海へ戻っていった。






「……くっ! とにかく、奴から離れたところに降りよう。すまんが、もう少しだけ頑張ってくれ……!」


 痛みに顔を歪ませて、ヒグマは頭上のアリツカゲラへ言葉をかける。

 本体から逃れられたとはいえ、いまだヒグマの身体には多数の黒の欠片が張り付いていた。当然服もボロボロで、無数に空いた穴からは乳房さえも覗いていたが、彼女にとっては気にすることでもなく。それ以上に痛みと不快感の方が激しかった。

 仲間を信じての行動だったとはいえ、無茶をしすぎたのは否めない。


「……ふぅ……ふぅ…………や、やっぱり、二人運ぶのは大変ですね~……」


 滝のように汗水垂らして、アリツカゲラは必死で頭の翼を動かしていた。

 意識のない孝太を抱きかかえ、右足にヒグマをぶら下げる彼女の飛び様は、遠目から見れば死にかけの羽虫のように見えることだろう。


 ───いや、確かにそう見えたのだ。


 それを心配して近付く者がいたのだから。



「あ、あの……! だ…………大丈夫…? フラフラだけど……」



 先端が黒く染まった、立派な灰色の翼を羽ばたかせて。眼光鋭いフレンズが、その見てくれに似合わぬか細い声をかけてきた。


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