第43話 引き裂かれる黒

 手を突っ込んでみてまず感じたのは、思ったよりも弾力がある、ということだった。歯ごたえのあるゼリーの中を、無理やり突き進むかのような感覚。

 意外な手ごたえに面食らいながらも、孝太は必死に黒いぶよぶよをかき分けていく。その背後へ大慌てで駆け寄ったキンシコウは、精一杯腕を伸ばすと孝太の肩を掴んだ。


「だ、ダメです! そんなことしたらあなたの手が─────」


 溶けてしまいます!


 そう言いかけた矢先、同じく駆け寄っていたらしいタイリクオオカミがキンシコウを制した。


「……いや、彼なら大丈夫そうだ」


「えっ」


 困惑の表情で振り返るキンシコウに、タイリクオオカミが目で示す。視線の先は孝太の手元だ。


「見てごらんよ。彼の手には何も起きちゃいない」


「……あ」


 タイリクオオカミの言葉の通り、孝太の手には何の変化も起きていなかった。それを見て、キンシコウは目を丸くする。


 が、今その事実に最も驚いていたのは他でもない孝太自身であった。覚悟していた痛みなんかはまるでなく、手にはほんのり冷たくて硬めの触感、ただそれだけ。

 正直いって拍子抜けであり、そしてそれはまたとない好機でもあった。


「大丈夫っ、みたい、です……っ!」


 ずんずんと濁った沼をかき分けて、孝太はヒグマを呑み込む黒の塊の前へと立った。瞬間、彼女の驚きの表情と孝太の必死の形相とが向かい合う。

 一際膨れ上がって、すっぽりヒグマを包み込んでいる中心部分。そこへ穿つように両手を突き刺すと、孝太は内なる力を解放した。

 細い隙間に手をかけて、扉をこじ開けるかのように。眼前で黒に突き刺さる両腕を、思いっきり左右に開く。


「────りゃあッ!」


 溢れ出た叫びと、ぐちゃっ!という嫌な音が同時に室内へ響き、黒の塊は難なく縦に引き裂かれた。濁った飛沫が弾け飛び、孝太の身体に黒い染みの点々を形作る。思わずキンシコウ、タイリクオオカミが距離を取った。

 と、黒の裂け目からほんのわずかに肌色が、ヒグマの指先が垣間見えた。


「…ヒグマさんっ!!」


 孝太は再び右腕を突っ込み、彼女の腕をがっしりと掴む。それを離すまいと、ヒグマも孝太の腕を掴み返す。

 互いの腕が力強く組み合ったのを肌で感じると、孝太は全力で彼女を引っ張った。


「う………おおおおぉッ!」


 ゲル状の壁を突き破って、濁りの中からヒグマの身体が抜け出ていく。徐々に腕が、胴体が現れ、ついには頭が飛び出した。

 彼女の半身が引っ張り出されたのを確認して、孝太は全身の力を更に高めると叫んだ。


「皆さん! ────頼みますっ!!」


 言い終えると同時に、孝太はその場で勢いよく後ろへ倒れ込む。

 我武者羅にとったその行動はさながら巴投げのようで。一気に黒の中から引き抜かれ、ヒグマの身体は大きく宙を舞って、孝太の後方へと吹っ飛んでいく。


「わかり……ましたっ!」


 気合いの宣言と共にキンシコウは床を踏みしめ、七色のオーラを携えて身構えた。

 直後、彼女の視界を急速にヒグマの背中が覆っていく。



「────はぁっ!!」



 可能な限り衝撃を殺すべく、キンシコウはヒグマを抱き止めつつ後退する。

 が、投げ飛ばされた肉体の運動エネルギーは予想をはるかに超えていて、キンシコウは受け止めきれずに体勢を崩した。


「うぅッ!!」


 倒れ込むように壁へ激突するであろう数瞬後の己を想像して、キンシコウは歯を食い縛る。既に両足は地についておらず、加えて背後に小ホールの壁があるのも直感で分かった。



 ぶつかる───────!!


 ────────


 ─────


 ──ドスッ!!



 鈍い音がした。

 背中に硬い木の感触を感じた……はずだった。だがしかし、その寸前で受け止めてくれる存在がいた。


「あ、危ないところでした~…!」


「ふぅ……やれやれ。突き破りでもしたら大変だったね」


 左右の耳元からアリツカゲラとタイリクオオカミの声がして、キンシコウは安堵する。

 彼女らがギリギリのところで駆けつけてくれたのだ。気分の悪そうなヒグマを支えながら、キンシコウは二人に礼を述べた。


「ありがとうございます…!! 本当に……本当に助かりました…!」


 相棒の無事にふっ…と緊張の糸がほつれたのか、キンシコウは涙ぐんで言う。


「い、いえいえ~…! …あ、ホラ! 皆さんお客様ですし!」


 そんな涙ながらの謝辞にちょっと驚き、アリツカゲラはもっともらしい理由をくっつけて遠慮がちに返した。対するタイリクオオカミは涼しい顔でフッと微笑み、


「まぁまぁ。そのお礼は勇敢な彼にこそ言うべきじゃないかな」


 と言って、黒の沼の中で立ち上がる孝太へと目を向けた。


「……です、ね」


 噛みしめるように同意すると、キンシコウはまっすぐに孝太を見定める。その目にたたえているのは、感謝と敬いの念。


 と、急にヒグマが大きく咳き込んだ。


「……くふっ! ゲホッ、ゲホッ!! ……ぐ、の、喉が……」


 彼女はなんとか言葉を紡いだが、すぐにまた咳き込み出す。苦しそうに丸めた背中を優しくさすって、キンシコウはどうすべきだろうかと思案した。

 考えてみれば、セルリアンに呑み込まれるということは溺れているようなものだ。加えて、今回の場合は消化液の中で溺れるのと同義。

 とすると、肉体の表層以上に体内のダメージの方が深刻なのだろうか。それを知ろうにも、当のヒグマは喋るのが困難で確かめようもない。


 せめて水で喉を洗い流せれば─────


 そこまで思考を巡らせたところで、キンシコウは孝太の呟きを耳にする。


「……どうすれば…………!」


 悔しげな言葉だった。

 気付けば彼は、蠢くセルリアンの沼から抜け出していて、憎々しげな視線を眼下のそれに向けている。その呟きと視線の意味は、キンシコウにもよく分かった。



 フレンズを呑み込み溶かす彼奴に対して、こちら側には何の決定打もない。



 それは確かな事実であり、かつ絶望的な事実でもあった。

 棍の一撃は溶けて塵と化し、ヒグマほどのフレンズですら呑み込まれれば無力。

 唯一触れても悪影響を受けないヒトであっても、その物理的な攻撃がダメージとなっているようには見えない。

 現に引き裂かれて獲物を奪われたというのに、セルリアン───あれは本当にそうなのだろうか───は相も変わらす蠢くだけで、よく知ったそれらのようにパカンと割れて消滅する気配もない。


 いったい、私たちに何が出来るというのだろうか?


「……ひとまず退散しよう。ヒグマのためにも、みんなのためにも」


 キンシコウが判断に迷っていると、代わりといわんばかりにタイリクオオカミが撤退宣言を出した。

 群れを成すのが狼であり、統率をとるための本能がそうさせるのか、彼女の号令は不思議なほどに心へスーッ…と入り込む。

 場を包む手詰まりの雰囲気の中では、実質二度目の逃走とはいえ、今さら誰も反対などしなかった。






「……水って、ロッジの中にありますか?」


 暗い廊下を進む途中、キンシコウはおもむろに尋ねた。彼女はヒグマに肩を貸して、なるべくゆっくり歩く努力をしている。

 はじめはヒグマをおぶろうとしていたが、彼女が頑なにそれを拒否したためにこうなっていた。


「ありますよ~。『キッチン』っていうところがありまして─────」


 こんな時でも家屋の解説を欠かさないのがアリツカゲラだった。ところどころが伝聞調なあたり、説明をする彼女自身もあまり利用していないようだが。


「───ので、すいどう……でしたっけ? 水が出てくるやつが繋がってるんです~」


 美味しくはありませんけどね~…と最後に要らない情報も付け足して、アリツカゲラは解説を終えた。

 普通に飲めるけどなぁ、なんて考えてから、孝太は水道水が消毒済みなことを思い出した。フレンズの水質基準が天然の水だとすると、塩素の含まれた水に違和感を覚えるのは当然かもしれない。

 それでもその辺の池や川よりマシだろうと思うのは、文明に浸かったヒトならではなのだろうか。


「じゃあ、そこに案内して下さい。このままじゃヒグマさんが喋れませんし……」


 傍らの相棒に憐れみの目を向けて、キンシコウは悲しげに言った。彼女の言う通り、ヒグマは喉をやられてしまったようで、咳による悪化も加わって掠れ声しか出なくなってしまっていた。

 それがとても辛そうで、孝太はひどい喉風邪の時のことをふと思い返した。別人のような掠れ声となってしまって言葉がさっぱり伝わらず、いっそ筆談の方が早いのでは、とまで思ったあの時も、水を飲んだりうがいをするのは効果的だった。

 治るかどうかはともかくとして、彼女に水をあげたいというのは孝太の心からの願いでもあった。それが天に届いたのか、次なるアリツカゲラの言葉はキンシコウの表情をぱあっと明るくさせた。


「案内もなにも、もうすぐそこですよ。……ほら、ここです」


 存外あっさりとたどり着いた場所はやはり薄暗く、当然のように窓は黒に支配されている。とはいえそれらを無視すれば、カウンター越しに覗いているのは洒落た造りの比較的大きなキッチンであった。


「へぇ……かなり立派ですね」


 孝太は思わず感心してしまって、それなりに切羽詰まった状況にも関わらず、のんきな言葉が口をついて出た。


「そう…………でしょう~!? 細かいところはよく分からないけど、なんだか良い感じですよね~…!」


 誉められると思っていなかったのか、アリツカゲラは言葉の途中で急に食い付いてきた。笑顔でキッチンを見て回る彼女は、やたらと嬉しそうだ。


 彼女のいる調理場の足下と頭上には、それぞれで形の異なる戸棚がズラーッといくつも並んでいる。これらだけでどれほどの食器や調理器具、調味料が仕舞えるのだろうか。

 また、中央の銀のシンクはぴかぴかに磨かれていて、本当に傷ひとつない。新装開店かのようだ。脇に重ねて積み上げられたコップたちも、開店直前めいた雰囲気作りにひと役買っている。

 そしてコンロには、火を使わず電気を利用する、いわゆるIH調理器が収まっている。木造建築が故だろう。もしかすると火を恐れるフレンズのためかもしれないが。


「博士が云うには、ヒトがいた頃はすっごく美味しいものがここで食べれたらしいんですよ~! 気になりますよね~…!」


 三度目のホール状のこの空間は、かつては宿泊客の食事処だったようだ。……いや、『だった』と表するのは間違いかもしれない。


 以前にラッキービーストから聞いたが、このロッジの完成直後にジャパリパークは閉鎖されたらしいので、実際に食事処として機能したことはなかった可能性が高い。あっても、職員が利用した程度ではなかろうか。故に、その博士の話には想像や願望が多分に含まれているのだろう。

 照明ひとつにすらこだわっていそうなせっかくの木造キッチンも、今やそのほとんどに埃を被った───というのは言葉のあやであり、実際には清掃が行き届いている───無用の長物。

 このパークの常とはいえ、これだけの物が形骸化しているのは実に忍びない。そしてそう考える当の自分も自炊・料理とは無縁のヒトであるため、このキッチンが真の意味で陽の目を浴びることは当分ないことが確定していた。

 嗚呼、諸行無常。


「あっ、水はですねぇ……ここをひねるとあら不思議~、どんどん出てきますよ~!」


 なかなか可笑しなテンションでもって、アリツカゲラは蛇口をひねった。

 ジャーッ、とまっすぐに水が流れ落ちていき、ぴかぴかのシンクに水しぶきが跳ねる。その音に引き寄せられるかのように、ヒグマは流れ落ちる水へ直に口を運んだ。

 うがいの方がいいのでは、と孝太は思ったが、自然に生きる彼女たちがそんなことを知るはずもなく。既にヒグマは水をガブガブ飲んでいた。

 その光景を横で不安そうに見つめて、キンシコウがぽつりとこぼす。


「少しは喉に効くといいんですけど……」


 豪快に、貪欲に水を飲み込んで、ようやくヒグマが顔を上げた。穴空きが目立つカッターシャツの胸元に水が滴り落ちるが、彼女は全然気にしていない。

 皆の視線がヒグマへ集まり──────


「……ぁ。……あ! ……あ゛ー!」


 喉に手を当て、声帯を三度震わせて。何回か咳払いも挟みつつ、ヒグマは自身の声を確かめた。

 昨日今日で聞き慣れた、彼女の声だ。いまだ濁点が混じっているものの、ほとんど調子は戻ったと言って良いだろう。


「よかった……」


 音でわかるくらいに大きく、キンシコウはホッとひと息をついた。しみじみと安堵の言葉を響かせると、彼女も思い出したかのように水を飲み出す。

 それを横目に見つつ、ヒグマは三人に向かって姿勢を正すと、


「……助かった。呑まれた時は正直厳しいと思っていたが……本当に、ありがとう」


 これまでで最も真剣な眼差しで場の全員に礼を言うと、深々と頭を下げた。昨日出会った時には考えもしなかったその姿に、孝太は結構どぎまぎしてしまう。


「特に……お前だ。コータ、だっけか」


 不意に向き直られて、唐突に名前まで呼ばれて、孝太は更に動揺する。が、呼んだ張本人もどこかばつが悪そうで、視線が前を向かずに斜め下へと固定されている。

 それ故、身体は向き直っても二人の目線が交わることはなく、


「まさかあれに突っ込んでくるとは……お前を見くびっていた。その……昨日色々言っちまったが、撤回する」


 ヒグマが絞り出した詫びの言葉もふわふわと両者の間を漂い、孝太は投げ返し方をしばし忘れていた。というより、投げ返し方がわからなかった。

 そんな二人を見て、タイリクオオカミはカウンターに積んだ資料本の合間へと手を伸ばす。


「おやおや、何か面白い雰囲気だね……これはセリフ込みでメモせざるを得ないな。恋愛系統はどの辺だったかな……」


 彼女はいくつもの付箋が覗く青い厚紙のファイルを取り出すと、そんなことを呟きながらパラパラとめくっていく。付箋に意味はないのだろうか。

 そして、その言葉がヒグマの頭で処理されるまでには多少のラグがあったようで。一、二秒の間を置いてから、ヒグマは真っ赤になってタイリクオオカミへと詰め寄る。


「わ、や、冗談、冗談だよ…! そんな顔をしてたら…………なんでもない…よ」


 その迫力は飢えに飢えた熊の如し。

 ファイルを破り捨てられては叶わんと、タイリクオオカミは早々に切り上げて降参した。返事に窮して固まっていた孝太は、そんなやり取りを見てふふっと笑い、身体の緊張を緩めた。

 と、相棒の怒りはどこ吹く風といった体でキンシコウが皆に呼びかける。


「皆さんも飲んでおいて下さいね。こう動くと喉もカラカラになりますし」


 口元の水気を拭う彼女はすっかり普段の落ち着きを取り戻していた。


 そういえば、言われた通りずいぶんと喉が渇いていた。

 焦りや緊張は喉の水分を急速に奪っていく。わずかな時間ではあったが、その短い間に大きく心をすり減らしたのだから当然といえた。

 シンクへと回った孝太は、脇のコップからひとつを手にすると水を汲んだ。そしていざ飲まんとしたところで、皆から好奇の目を向けられていることに気付き、その手を止めた。


 こんな異常事態のロッジにて、コップとその用途を説明させられる─────束の間の平和な一時であった。


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