第42話 覆い被さる黒
ほのかに土の匂いの漂う穴ぐらを抜け出して、五人は長々と伸びる紅色を踏みしめる。
孝太はなるべく静かに、そろりそろりと足を置いたのだが、その努力もむなしく床は小さな悲鳴を上げた。ギィ…という音に身体がびくりと小さく跳ね、孝太は思わず周りを窺う。
が、ヒグマとキンシコウは孝太には目もくれず、武器をその手に辺りを警戒していた。アリツカゲラとタイリクオオカミに至っては、孝太と同じかそれ以上の音を立てながら出てきた。定住しているが故の慣れ、だろうか。
結局、わずかな床の軋みなど皆は意にも介していなかった。安心したような、微妙に恥ずかしいような……孝太の心には複雑な思いが渦巻いていた。
「こっち……かな?」
数秒の後、タイリクオオカミがすーっ…と左方向を指し示した。右手で紙束を押さえたまま両の目を閉じた彼女は、全神経をその大きなけもの耳に集中させている。
「大した差ではないけど……ぞわぞわ動く音は向こうの方が少ないね」
抑え気味な声でもって、タイリクオオカミはそう告げた。
壁をぶち抜くにしても、少しは場所を考えるべきだ─────彼女の言葉にはそういう意図が込められているように思える。
「よし、とっとといくぞ。長居は無用だ」
報告を受けて、ヒグマは慎重に歩き出す。黙って頷き、四人も彼女に続いた。
ヒグマ、タイリクオオカミ、アリツカゲラ、孝太、キンシコウの順になって、五人は薄暗い廊下を進み出した。
「……この辺か?」
三分も経つことなく、一行はその歩みを止めていた。ここまでの道中はただ陰っているというだけで、特に何かが起こることもなかった。
アリツカゲラ曰く、現在地は廊下同士を繋ぐ小ホールのひとつで、ロッジの端っこに該当する場所らしい。見ると、机と椅子の配置なんかも中央ホールとよく似ている。確かな違いといえば、接客カウンターが無いことくらいだろうか。
「音が少ないとはいっても、セルリアンの魔の手は十分届いているねぇ……」
濁った黒に塗りつぶされた窓を見て、タイリクオオカミはやれやれと首を振った。
やはりと言うべきか、周りの窓には不気味に蠢くものが覆い被さっていて、扉も同様に隙間からの浸食が進んでいる。道中の窓も含めて、例外などありはしなかった。
むしろこの状況で外が覗ける箇所があったのなら、それはあからさまな罠ではないだろうか。
「これだけ広い範囲を覆っているんですから、薄いところのひとつやふたつ、ありますよ。……きっと」
「……そう願いたい」
希望を捨てないキンシコウの言葉に、ヒグマがぼそりとこぼした。そんなやり取りを交えながらも、彼女らは壁に耳を添えて現状を『打破』する位置を探っている。
原稿や資料の本をテーブルに置くと、タイリクオオカミも二人に倣って探知に加わった。それほど耳に自信のない孝太とアリツカゲラは、小ホールの隅で音を立てぬよう、大人しく座って待つことにした。
それからしばらくして、ヒグマが皆を集めると言った。
「ここを、ぶち破ろうと思う」
彼女が指差したのは、皆の眼下の、小ホールの中央に位置する床であった。
「……下に出るんですか?」
何となく意外な感じがして、孝太は反射的に質問していた。
別に横から出ようが下から出ようが、ツリーハウスめいた造りのロッジにおいて高所から飛び降りることに変わりはない。
尋ねながらもそのことに気付き、意味のないことを聞いてしまった、と孝太は口を抑えた。
「下にはぞわぞわした音がしないからな。それに、野生解放を使えばこれくらいの高さはどうにかなるだろう。……オオカミもいけるな?」
「ん? そうだね、たぶん大丈夫じゃないかな。生憎、試したことはないけど」
やったことはないけれど、という言葉とは裏腹に、タイリクオオカミは余裕綽々な声色で答えた。
と、彼女の身体を七色の輝きがうっすらと包む。青と黄色のオッドアイも、薄闇の中で一層輝きを増した。
野生解放だ。立ち上るサンドスターの粒子がそう教えてくれている。そして、彼女のその輝きにばかり注目していたため、孝太は少し遅れてから気付く。
「あ……」
既に、皆が一様に輝きを纏っていることに。
四人のフレンズの放つサンドスターに照らされて、小ホールはいつの間にか淡い光に包まれていた。自分が下らない質問を投げ掛けている間に、周りはとっくに決意を固めていたのだ。
あわてた孝太は、皆に合わせて力を使うべく心に念じる。
が、
「あぁ、お前は私が抱えて降りる。アリツカゲラは…………飛べるし、大丈夫か」
ヒグマの付け足しに孝太は顔を上げ、力の覚醒を取り止めた。情けないような気もしたが、その提案は正直ありがたかった。
なにせ、高さが高さだ。
クレーン車のアームがどれ程の長さだったかちゃんと見ていないが、あれが丁度橋に届くぐらいの高度。軽く見積もっても、地面からここの床までは10メートル近い。力を使ったとして、はたして足腰にダメージが来ないと言い切れるだろうか?
「自力でいけます!」……なんて自信満々な発言は、自分にはとても出来そうにない。そういうのは少年漫画の主人公に任せよう。
「……準備はいいな?」
オーラを纏う熊手を振りかぶって、ヒグマが聞いた。「オーケー」「ええ!」「いいですよ…!」と各々の返事が飛び交う。
一泊遅れて、孝太も「はい…!」と声を震わせて答えた。
「────いくぞッ!」
熊手の柄を握る拳に、ググッと力がこもる。
皆の視線が床へと注がれ──────
…ポタリ
「─────……っ!!」
振り下ろしかけた得物は、中空にて突如、急停止した。
「「え?」」
出鼻をくじかれ、孝太とアリツカゲラの困惑が重なる。ヒグマの急停止の理由がわからず、二人は皆の顔を窺う。
タイリクオオカミはけもの耳で何かを捉えたのか、ヒグマと同様にその場で固まっていた。キンシコウもほとんど同じだったが、彼女はヒグマを見てハッと息を呑んでいた。キンシコウの視線を追って、孝太もヒグマへと向き直る。
その時、孝太はヒグマの髪の毛に付いた何かに気付いた。鈍く光を反射する液体がひと雫、彼女の黒髪に滴っている。
どこからの?
いや、何からの滴りなのか?
今この状況下において、滴るようものはひとつしかない。
「……すまん!!」
ヒグマの、唐突な謝罪のひと言が響く。
その意を四人が汲み取るよりも早く、彼女は自慢の得物を振るった。
皆を、凪ぎ払うように。
「ん!?」
「なっ!?」
「きゃっ!!」
身体にひねりを加えて、ヒグマは一瞬の内に四人を打ち払った。まさに一網打尽。
彼女はいわゆる回転斬り───斬撃ではなく打撃だが───をやってのけ、仲間を弾き飛ばしたのだ。
もちろん孝太も例外ではなく、
「がっ…!?」
四人の中で最も貧弱なヒトは、軽々と吹っ飛ばされ、床を数回転がった後、苦悶の表情を浮かべて縮こまる。
雪山での戦いに引き続き、再び眼鏡がどこかへ行ってしまったが、それどころではないのも前回同様だった。脇腹から胸部にかけて鈍い痛みが広がっていく。奇しくも、デジャヴを感じざるを得ない。
打撲の痛みにうめきながらも、孝太は目を見開いた。いったい、何が起こったのか?
「あっ」
思わず、かすれ声の間抜けなひと言が口をつく。視線の先には、ホールの中央にて天井を見上げる格好のヒグマがいた。
同時に見えるのは、今まさに彼女へ降りかからんとする黒い塊。
「ヒグマさん!!」
いち早く起き上がったキンシコウが、その叫びと共に駆け出す。伸ばした手には、先ほどのヒグマの熊手と同じ意図を宿しているのだろう。
しかしその手が届くことはなく、降ってきた黒は無情にもヒグマを呑み込んだ。
「く、くそッ!」
熊手と腕の抵抗はその意味を為さず、彼女はあっという間にゲル状の濁りに包まれていく。その一瞬、ヒグマの纏う光が急速に失われ、彼女の目に驚きが浮かぶのが見えた。
「───やらせない!」
強く床を蹴って、キンシコウが跳び上がった。両手で振りかぶった如意棒を高速回転させながら、彼女は得物を思いっきり振り下ろす。
重力を乗せたその一撃は、見事液状のそいつへクリーンヒット─────したはずだったのだが、
「っ!? そ、そんな……」
深々と濁りに叩き込まれた如意棒が、黒に浸かった部分からみるみる溶け落ちていく。
咄嗟に得物を引き抜き、キンシコウは後方へと跳んだ。そして消化された棒の先端を見て、信じられない、といった面持ちで驚愕する。
その一部始終を見て、アリツカゲラも絶望を露にした。
「こ、これじゃあヒグマさんもすぐに……」
そこまで出かかったものの、彼女は言葉の続きを口にはしなかった。
否、出来なかった。
口に出すよりも早く、目の前でそれが起きようとしていたからだ。
「ヒグマの、武器が……!」
タイリクオオカミの声が響く中、孝太は痛みを振り切って立ち上がった。どす黒い液体の内で、ヒグマの手にする熊手が溶け落ち、光の粒となっていくのが見える。
このままでは、まずい。
ヒグマの身体が溶け出すまで時間がないことは誰の目にも明白であった。既に彼女の白いカッターシャツには穴が空きつつあり、全身の黒インナーからも肌が覗き始めている。
次に見えるのは、皮膚の向こう側の赤色となってしまうのか。そんな恐ろしい想像が孝太の頭を支配する。
現実にさせて、たまるか─────!
「……くっ!!」
弾けるように、孝太は駆け出した。
「え!?」
予想外の行動だったのか、キンシコウもアリツカゲラも、タイリクオオカミでさえも驚いていた。
そして孝太は、すぐさま黒の塊の前へたどり着くと──────
…ずぶっ!
一瞬の躊躇いの後、いびつな右手を突っ込んだ。
「こ、コータ君!? 無茶だっ!」
「ヒトさん!!?」
想定外に次ぐ想定外に、けものたちは目を丸くして叫ぶ他なかった。
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