第7話 急ぎ駆ける

 一時退却を先導するキタキツネは、脱衣所に勢いよく足を踏み入れたその時、何かの光を視界の端に捉えた。


 ──ピシュン! …ピチャッ


 謎の閃光と音に反応して、素早く横を向いたキタキツネは、右手に水しぶきがかかるのを感じた。自分の右手は、後ろにいる孝太の右手を握っているはずなのだが、なぜ水がかかったのだろうか。


「……っ!!」


 すぐ後ろで孝太の絞り出すような声がした。と同時に、握る彼の手にはビクンと力が入り、その指は自分の右手からずるりと離れていく。嫌な予感が、キタキツネの頭をよぎった。

 まさか────


「コータ……!?」


 バッと振り返ると、孝太が膝をついていた。だらんと伸ばした右腕の手首に、彼はなぜだか思い切り左手の爪を食い込ませている。うつむいていて表情はわからないが、とても苦しそうに全身を震わせていた。


「ど、どうしたの? 何が………っ!?」


 彼の右腕を伝い出した赤い液体に気付いて、キタキツネは思わず息を飲んだ。そして先ほど水しぶきのかかった己の右手を見た。


 これは、血だ。


 彼の赤黒い血液は、右上腕の中央辺りから止めどなく流れ出ているようだった。爪を立てていたのは、別の刺激で少しでも痛覚を誤魔化そうとする、必死の抵抗の現れだったのだ。キタキツネの嗅覚が、彼の血の匂いを感知し始める。


「なっ、なんで血が……!? あいつ、なにしたの!?」


 左を見ると、折り鏡のセルリアンコウモリは今も忙しなく羽ばたいている。浴場の床から2メートルほどの高さに滞空しているセルリアンは、鏡の中の一つ目で次なる獲物を捉えていた。

 が、奇妙なことに追撃をしてこない。なぜかはわからないが、今がチャンスなことには違いなかった。


「キ…キタキツネ、中に…逃げるんだ…! 鏡の目が……光を撃ってくる…!」


 腕の痛みに悶え苦しむ孝太が、必死に敵の攻撃手段を伝えてくる。目から光を撃つ……そんなことをするセルリアンがいるなんて、見たことも聞いたこともない。

 相手が遠距離かつ空中から襲ってくるというのなら、遮るものがない浴場ではこちらが圧倒的に不利だ。建物の中なら、隠れる場所も天井も、更には味方の助けだって望めるだろう。

 そう考えたキタキツネは、うずくまる孝太を背負うべく、彼の腰に手を回した。

 力なく背負われる孝太から流れ出る血が、背中に滴る。


「ダメだ……! おぶったままじゃ…いくらフレンズだからって…」


 背中の孝太が、弱々しく忠告する。しかしキタキツネはそのまま進み、足で無理矢理引き戸を閉じた。


「だいじょうぶ……行くよ!」


 キタキツネの瞳が、全身が、淡い光を帯び始めた。野生解放────キタキツネは己のサンドスターのリミッターを外す。

 身体にみなぎる力でもって、キタキツネは力強く床を蹴った。自分よりも大きな男を背負っているとは思えないスピードで、彼女は脱衣所を走る。


「ギンギツネっ!! カピバラっ!! セルリアンが出たっ!!」


 走りながら、出し慣れない大声で援軍要請を叫んだ。カピバラに聞こえるかはわからないが、ギンギツネの耳ならたとえ宿の外にいても聞こえるはずだ。


 と、その時。後方でガギィッ!と大きな音が響いた。

 キタキツネは脱衣所の出入口のL字路で一旦立ち止まり、素早く浴場の方を伺った。音の元凶は、閉めた引き戸を鋭い羽で突き破り、今まさに侵入せんとしていた。


「来た……!」


 屋内に追ってきたセルリアンを一瞥して、キタキツネは再び走り出した。

 全力疾走でのれんをくぐり、彼女はその勢いのまま廊下を駆け抜ける。滴り落ちる孝太の血液が、廊下に点々と印を付けていく。

 分岐路に差し掛かったところで、ギンギツネが右側の廊下から飛び出してきた。ついに味方と合流できた。


「いた! ───え!? あなた、なんで服着てないの!?」


 驚愕するギンギツネの言葉で、ようやくキタキツネは裸のままだったことに気付いた。ついでに言えば、背負っている孝太もタオルの腰巻きしか身に付けていない。彼の負傷と未知のセルリアンに気をとられて、服の回収をすっかり忘れていた。


「お風呂の途中だったから……って、それどころじゃないよ…! コータがセルリアンに襲われてっ…!」


 説明は後回しにして、キタキツネが視線で孝太の身体を示す。彼の右腕からどくどくと流れ続ける血液を見て、ギンギツネは口に手を当てて青ざめる。


「そんな…! とっ、とにかく、血を止めないとまずいわ! たしかあっちの倉庫に、博士たちが置いてった救急箱……とかいうのがあったはず!」


 ギンギツネは古い記憶を頼りに、倉庫の方向を指差す。二人は走り出した。


「あっ! キタキツネ、見つけ───ってどこ行くんだねねね!?」


 ぬうっと横の部屋からカピバラが顔を出したが、二人は疾風のごとく走り去っていく。


「カピバラ! 温泉の方にセルリアンが出たから近寄らないようにね!」


 まだ余力のあるキタキツネが、走りながらも警告を投げかける。


「なんと…! それは一大事だよよよ…! でもなんで服───」


 カピバラが疑問の言葉を言い終える前に、二人の姿は曲がり角に消えてしまった。

 二匹のキツネが通った廊下には、赤黒い印と水滴だけが残されていた。



 ほどなくしてキツネたちは、廊下の突き当たりにある倉庫の前へたどり着いた。長らく誰も入っていないので、簡素な造りの両開き扉はひどく寂れているかのように見える。


「何かにしまってなきゃいいんだけど……」


 切迫した状況の中、ギンギツネは救急箱の所在に不安を覚えた。

 あの白い箱は、博士と助手が最後に宿に来た時────休憩所のでんきけいとう?…を直しに来た際に置いていったものだ。


「我々フレンズは丈夫なので、滅多に使うことはないと思いますが、念のために保管しておくのです」


「誰かが大きなケガをしてしまった時だけここを押すのです。中身の使い方は……箱を開ければ自ずとわかるでしょう」


 ───そんな風なことを言っていた記憶がある。過去を思い出しながら、ギンギツネは木の扉を押した。

 ギイィ…と軋むような音を立てて扉が開き、中から埃っぽい空気が漂ってくる。倉庫は幅1メートル、奥行き4メートルほどの縦長の空間で、ひんやりしていて薄暗い。内側の扉横にあるスイッチを押してみたが、どこかが壊れてしまったのか明かりは点かなかった。左右の壁には金属の棚があり、床にはいくつかのダンボールが無造作に置かれていた。


「とりあえず、コータはそこに下ろしましょう。…そう、壁に寄りかからせて」


 ギンギツネの指示を受けたキタキツネは、孝太が廊下の壁に寄りかかれるよう慎重に背中から降ろす。

 彼の呼吸は荒く、もはや意識朦朧といった様子であり、危険な状態であることは素人目にもわかった。


「…そうだわ、これを」


 ギンギツネは青い上着をするりと脱いで孝太に被せる。そして外した首のリボンを、少しでも止血が出来れば、と彼の傷口に巻いた。気休め程度だが何もしないよりはマシだろう。続けて黒いYシャツも脱いで、キタキツネに手渡す。ボクはいいよ、と遠慮する彼女に「いいから!」とほとんど強制的に羽織らせた。


「じゃあ…白くて四角い箱がどこかにあるはずだから、手分けして探すわよ!」


「わかった…!」


 二人は手前と奥からそれぞれ中央に向かう形で、金属棚とダンボールを探っていく。ダンボールを開け、棚の雑貨をどける度に埃が舞い飛び、くしゃみや咳と化して彼女らを妨害する。こんなに埃を吸い込んだら具合が悪くなるのでは、とギンギツネは不安を感じた。しかし、段々とリボンを濡らす血の匂いが、余計な考えを吹き飛ばす。あまり時間の余裕はないのだ。


「ん! …これだわ!」


 ギンギツネは、中央右手の棚の奥から、長方形の白い箱を手に取った。

 触った感触はツルツルしていて、箱の上の凹みには赤い取っ手がぴったり収まっている。そして、前面には赤十字の形の出っ張りが付いていた。

 ダンボールの中をガサゴソ探していたキタキツネが、サッと側に近寄る。


「よかった…! ねぇ、早く開けようよ」


 ギンギツネは救急箱を床に置き、助手が示していた赤十字マークを人差し指でカチリと押した。パシュウゥ……と空気が抜けるような音をたてて、赤十字ごと箱の上半分が開いていく。二人はびっくりして身体を仰け反らせた。それとほぼ同時に、開いた上部の裏側から照射された光が、二人を舐めるように照らした。


「わっ…なに、これ? 緑に光ってるよ」


「私だってわかんないわよ…。でもこれ、どこかで見たような…」


 扇状の緑光の出どころは半透明なレンズだった。角が丸みがかった黒い四角の内に収まるそれは、キタキツネにも見覚えがある。あるはずなのだが、二人ともどこで見たのかは思い出せなかった。ほどなくして緑の光は消えていった。


「スキャン完了。救命プログラムを起動シマス。──キミたちハ、フレンズダネ。ドウシテこの救急箱ヲ開けたノカ、教えてホシイナ」


 突然、箱が喋った。箱の中身を近くで覗いていたギンギツネは、再度驚かされ、跳ねた身体が脇のダンボールにぶつかる。


「しゃ、喋るんだ…。えぇと、コータがセルリアンに襲われて、血がすごく出てるんだ。早く止めないと───」


 死んじゃうかもしれない、という言葉を発するのを、キタキツネは躊躇った。

 彼女はフレンズになってから、周囲の誰かがセルリアンに食べられる経験をしていなかった。話としては伝え聞いていたが、セルリアンがもたらす事実上の死というものは、自身が直面していないが故にどこか他人事めいていた。

 だが今、すぐそこにやってきているのは、動物に戻るのとは違う本当の意味での死だった。


「コータ、とは誰カナ? 詳しくオシエテネ」


 あまり猶予がないというのに、白い箱は問いかけるばかりだ。

 焦り、問答がわずらわしくなったキタキツネはぶっきらぼうに答える。


「コータはヒトだよ、ヒトのオス。それより、この箱の使い方を教えてくれない?」


「ヒ…ト………ヒトがケガをシタンダネ? わかったヨ。緊急リンク、開始」


 ピロピロピロ…とおかしな音をたてるレンズには、何かの文字列が高速で流れている。いったいどうしたのだろうか────


 箱とキタキツネの対話をポカンとした顔で見ていたギンギツネは、ふと隣のダンボールから異音を聴いた。ついさっきぶつかったばかりのそのダンボールは、ゴトゴトと小刻みに揺れ始めた。

 中に何か、いるのかしら…?

 その様に三度目の驚きを受け、しかし流石に慣れてきたギンギツネは、何がいるのか確認してやろうと箱を開け放った。すると中から、ピョン!と見覚えのあるシルエットが飛び出してきた。彼(?)は────


「ボス!?」


 ダンボールから現れたのはフレンズたちの誰もが知っている、無口で小さなけものだった。しかしそのけものは、他で見たことのないピンクと紫の色合いをしていた。ボスはギンギツネを見上げて、話しかけた。


「ヒト……コータは、ドコカナ?」


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