第6話 せめぎ合う

 キタキツネの脱衣のあれこれで思考回路がプツリと焼き切れた孝太は、脱衣所のトイレに逃げ込んでいた。

 壁にもたれかかって、心と身体をリセットすべく深呼吸を繰り返す。


 フィクションでありがちな展開が、落ちた異世界で早々に己へ降りかかるとは……いくらなんでも出来すぎている。

 これは本当にドッキリ企画で───それもトゥルーマン・ショーのような大掛かりな作り物で───今もカメラを通して自分の醜態が見世物にされているのではないだろうか。

 孝太の心に疑念が顔を覗かせ、とりとめのない被害妄想が脳内に広がっていく。自分でもバカらしい想像だとわかっていながら、壁や天井、便器の後ろ側などを探ってみた。

 ……もしここにカメラがあったなら、危険の方向性が変わってくるが。


 孝太が籠るこのトイレはそれなりに広く、清掃も行き届いていて清潔感があった。

 扉から入って左の壁には、トイレに慣れていないフレンズに配慮してか、イラストだけで使い方とマナーが示してあった。隣には小さな洗面台も備え付けてある。

 反対の右の壁には、トイレの機能を任意で使うためのコンソールが取り付けられている。また、トイレットペーパーやタオルも備え付けてあった。これも新品同然なので、誰かが定期的にセッティングしているのだろう。ギンギツネだろうか?

 便器は……特筆するところがなかった。強いて挙げればセンサーにより自動で水が流れるくらいで、大して珍しい造りでもない。


 これらを一通り調べ、カメラがないことを確認するのにほとんど時間はかからなかった。やはり、トゥルーマン・ショーはフィクションでなければ成し得ないのだ。いや、フィクションの中ですら維持できなかったのだが。

 観察と疑念の払拭に意識を向けていたおかげで、孝太の心と身体は既に冷静さを取り戻していた。

 きっと、大丈夫。仮にキタキツネを見てしまっても何も考えず、無心に努めるのだ。身体を洗って、風呂に浸かる。それだけで終わるのだから────


 トイレから出て脱衣所を見渡すと、ロッカー前の床にオレンジと白の衣服の小山が出来ていた。孝太はいっそ彼女が出てくるのを待って、後から入ろうかと考えた。しかし汗が冷え始め、一層寒くなってきたこともあって、お湯の誘惑と僅かな期待に観念して服を脱ぎ出した。

 寒さに耐え、待つことも出来たというのに、無心はいったいどこへ行ったのだろう。



 引き戸を開けて、孝太はついに浴場に入った。戸の近くにあった白いタオルを腰に巻いたので、多少は気が楽になった。

 正面に見える温泉には早くもキタキツネが浸かっている。


「遅かったね。ボク、もうすぐ出るところだよ」


 背を向けて肩まで浸かっているキタキツネが、頭をこちらに向けて話しかけてくる。

 もう出るところとはいくらなんでも早すぎないだろうか。カラスの行水ならぬ、キツネの行水か。


「そう、なんだ」


 孝太は緊張から、ぎこちない生返事しか返せなかった。落ち着け、落ち着くのだ。まずは身体を洗って、汗を流す。

 錆び付いたかのように固い首をギギギと動かして、孝太は浴場の中を見回した。

 そして左手に見えた洗い場へ、足がもつれそうになりながら向かった。


 洗い場には銭湯などで見た覚えのある黄色い洗面器が置いてあり、ボディソープとシャンプー、リンスの容器が棚に並んでいた。

 目の前の黒っぽい大理石の壁面には鏡が備え付けられていて、すぐ横の凹型の突起にシャワーヘッドが収まっている。

 洗い場の脇に積み上げられたプラスチックの椅子から一つを貰って、いざ洗いますか、と座ったところでキタキツネから声をかけられた。


「何してるの…? あ、もしかしてそこも何かに使う場所?」


 なるほど、キツネの行水の理由がわかった。考えてみれば当たり前だが、彼女らにとって『お風呂に入る』とはつまり、言葉通りの水浴びなのだ。


「そうだね。ここで身体を洗ってキレイにしてから、お湯に浸かって暖まる。それがヒトにとっての『お風呂に入る』ってことなんだ」


 孝太はヒトのお風呂の入り方を教える。互いに背を向けて離れているので、少しは口が回るようになった。


「ふーん…。身体を洗うのって、ボクもやらないとダメかな…?」


 適当に42℃へメモリを合わせ、シャワーからお湯が出るまで待つ間、孝太は悩んだ。ここはどう答えるべきだろうか?

 洗った方が良いのは間違いないのだが、それを勧めることはすなわち、自分が教えることを意味する。両者全裸の二人きりで洗い方を教えるなんて、いよいよもって理性が保てるかどうか怪しい……。

 この場は穏便に切り抜けよう。


「…もうお湯に入っちゃってるし、今さら洗わなくてもいいんじゃないかな」


 当たり障りのない返事をして、シャワーから出始めたお湯を頭からかぶる。

 軽く流した後、孝太は棚のシャンプーを使ってわしゃわしゃと髪を洗い始めた。

 このシャンプーからは果物のような匂いがほのかに漂っている。長く使えるものとは聞くが、はたして使用期限等は大丈夫なのだろうか。


「これなに…? 頭にいっぱい白いのが付いてるけど……」


 突然、耳元で声がした。

 いつの間に近付いたのか、すぐ隣にはキタキツネが来ていた。驚いた孝太は、ついつい声の方向に顔を向けてしまった。

 見てはならない、という理性の制止が頭によぎるが、時すでに遅し。視界いっぱいに、キタキツネの一糸まとわぬ裸体が映っていた。

 これは………まずい。


「これ…嗅いだことない匂いがするね。なんか、美味しそう」


 キタキツネはそう言って、硬直した孝太の頭に手を伸ばす。そして人差し指の先に泡をつけたかと思うと、ペロッと舐めてしまった。


「ぅえっ、にがっ……」


 期待に溢れた表情から一転、キタキツネはしかめっ面へと変わる。

 渋い顔をしたままキョロキョロと辺りを見回す彼女を見て、孝太は彼女の前の蛇口を捻った。それはもはや無意識の行動だった。

「ありがと」と礼を言うが早いか、キタキツネはジャーッと流れ落ちる水に直接口をつけて、口内の苦味を洗い流す。



 この一部始終の間、孝太の心には波乱が巻き起こっていた。

 本能と理性のせめぎ合いだ。

 内なる己の一部は、欲望に身を委ねて手を伸ばせ!…と今も大きく叫んでいる。

 一方で別の自分は、一時の欲に負けて彼女に手を出すなど言語道断、必ず後悔するぞ……と冷静な忠告をしていた。


 今は、理性が勝たなくてはならない場面。

 だというのに、目の前のキタキツネに対する心の叫びは段々と大きくなり、理性は確実に弱っていく。

 孝太は、そんな葛藤をしてしまう自分がたまらなく嫌になった。

 心の奥底からにじみ出た自己嫌悪は、本能すら押し退けて、深く暗い暗黒の思考へと彼を捕らえ縛り付けていく。


「…コータ? ねぇ…どうしたの?」


 止まったままの孝太を心配して、キタキツネが肩を揺さぶる。気付けば彼は、虚ろな目をしていた。

 目は開いているのに周りもボクも見えていないみたいだ……と、キタキツネは彼の異様な雰囲気を感じ取った。




 ──いったい、何を勘違いして浮かれていたのだろうか。


 違う世界へ落ちたことで、自分が特別な存在になれたとでも?


 フレンズの彼女らに知識を披露して、優越感でも覚えているのか?


 あまつさえ、何も知らない彼女につけこんで欲の矛先を向けるとは、なんと愚かで醜いけだものだろうか。


 親切なけもの達が住まう世界に、のけものの自分は相応しくない─────




 ──バシャアッ!!



 冷えきっていた身体に頭からお湯をかけられて、孝太の意識が現実へと引き戻された。顔を拭って周囲を見ると、側でキタキツネが空の洗面器を持ったまま立っていた。

 どうやらお湯を汲んできて、勢いよく上からぶちまけたようだ。


「やっと気付いた…。全然動かなくなっちゃうからビックリしたよ…」


「っ………ごめん。悪い癖…なんだ」


 孝太は、言いにくそうに顔を伏せた。

 己を害する引き金を引いてしまうと、すぐには戻れなくなってしまう。自分は別の世界ですら負の思考に飲み込まれるのか……。


 視線を戻して目の前の鏡を覗き込むと、そこには青白い顔をした男がいた。この顔色の悪さは寒さだけが原因ではない、と自分でもわかった。鏡越しに流しきれていないシャンプーの泡を見て、孝太はまだ洗髪途中だったことを思い出した。シャワーのスイッチを入れ、髪をザーッとお湯ですすぐ。

 それを見たキタキツネは一安心して、再び温泉へ向かった。少し身体が冷えてしまっていた。



 頭を洗い終えた孝太は、ひとまずシャワーで湯を浴びる。その温かさが与えるつかの間の快楽が、心に残る負の思念を徐々に忘れさせてくれた。と、その時、孝太は鏡を通して奇妙なものを見た。

 鏡に映っているのは、真ん中に自分の正面上半身。右奥に、肩まで温泉に浸かるキタキツネの姿。

 そして自分の頭の左後方に浮かぶ、黒い瞳の一つ目。外で見た、紫のヤツと同じ目だ。


「…セルリアン!」


 孝太はバッと勢いよく左を見る。

 そのワードを耳にしたキタキツネも即座に立ち上がり、こちらを向いた。しかし孝太の向く左後方には、何もいなかった。


「……? この辺にいたような…」


「コータっ! 前だよ!!」


 キタキツネがこちらに手を伸ばして、バシャバシャと走り出す。

 前? 壁しかないはずだが────


 ピキピキピキ…と、硬質なものがひび割れていくような音が聞こえた。正面に再び向き直った孝太の目の前で、鏡に次々と亀裂が入っていく。

 その裂け目には青い半透明な膜が張っていて、割れた鏡同士を繋げていた。膜を折り目にして折り紙を作るかの如く、ついさっきまで普通の鏡だったそれは、鋭く光る折り鏡のコウモリへとその姿を変えた。

 その光景は、孝太の脳裏にトランスフォーマーが変形する様を思い出させた。


「いつから…潜んでたんだ…!?」 


 ペラペラの、しかし危険極まりないフォルムのコウモリ。その胴体部分の鏡面には、セルリアンの一つ目が映り込んでいた。

 先ほど孝太が見たのは鏡の中の目だったのだ。コウモリは鋭い羽をはばたかせて、パタパタと飛び上がった。その目はまっすぐに孝太を捉え続けている。


「コータ、逃げよう…! とにかく服を着ないと…!」


 孝太の右手を掴んだキタキツネは、脱衣所まで一旦退こうと走り出した。戦うにしろ逃げるにしろ、全身凶器の空飛ぶセルリアン相手に裸でいるのは危険すぎる。

 二人はすぐさま引き戸を開け放ち、脱衣所に駆け込もうとした。その瞬間、宙に浮かぶ折り鏡のコウモリは、全身から白い閃光を放った。

 ───ピシュン!という甲高い音と共に、セルリアンの目から一筋の光線が撃ち出され、光が孝太の右腕を貫いた。



白き雪山の浴場に、赤い飛沫が舞い散った。


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